第13話


 俺は大学時代によく使ったターミナル駅から数駅乗ったところの見知らぬカフェにやってきていた。


 待ち合わせ相手より先に着いたようだったので、先にアイスティーを注文して窓際で人目に付く席に座った。


 今日訪れたカフェは平日なだけあって閑散としており、かすかなコーヒー豆や紅茶の茶葉の匂いとサックスの音色がきれいに響くジャズだけが店を支配していた。俺は店内の所々に置かれた観葉植物と木目を残したテーブルや椅子を見て、なかなか洒落ている店だなと感じた。


 突然だが、俺は紅茶もコーヒーも得意ではない。それなら、どうしてアイスティーなんか選んだんだと言われそうだが——————、紅茶は舞菜が好きな飲み物の一つだということが選んだ理由だった。食に関しては気分屋な所があるが、一貫して紅茶は好きなんだそうだ。病院でも飲んでいるだとか。


 俺は、恐る恐るティーカップに口をつける。

 すると、あまり慣れないなんとも言い難い紅茶の味に顔をしかめそうになった。


 そんなこんなで紅茶と格闘している内に、彼女がやってきた。小笠原紅羽だ。

 彼女は慣れたように店員に注文して、少し談笑してから俺のもとにやってきた。


「待たせてゴメン」


 今日、俺が普段なら絶対に来ないおしゃれなカフェに来たのも、彼女の行きつけのカフェで待ち合わせをするからという理由があったからだった。

 そう言って小笠原紅羽は注文したアイスコーヒーに口をつけた。


「いや、全然待ってないから。それよりも突然連絡して、ホントごめん」

「まあ、ちょうど休みにしようと思っていたところだったし」


 俺は由梨さんに会った日の夜に小笠原に連絡した。

 大学院に行ってて忙しいと聞いていたから、そんな簡単に会えるとは思っていなかったのだが、連絡するとすぐに返信が来た。

 そして、今までの顛末を小笠原に話して今に至るというわけだ。


「本当にありがとう。あ、あと福山の病院の面会の件もありがとう」

「ああ、気にしなくていいよ。というか、仕事休んで大丈夫なの? 平日でしょ?」

「そっちこそ気にしないでいいさ。有休はコツコツとれって上司がうるさいし」


 実際、俺は上司に散々言われて参っていた。とりあえず今日の有休で少しの間はガミガミ言われなくて済むだろう。


「あらそ」


 小笠原は興味がなさそうに返事する。

 俺は前座をここまでにして、本題へと話題を近づけていく。


「小笠原は由梨さんと面識があったんだな」

「まあ、舞菜と仲良くしてたら自然と? 由梨姉さんのほうがグイグイくるし。その呼び方だって、あっちから言われたんだろうし」


 小笠原はなんだか飄々と答える。まだ俺に心を開いてくれていないのかもしれない。


「そうなんだよな。あの人の距離の詰め方は尋常じゃないよな」

「そうなのよねぇ」


 そう言って小笠原は嘆息する。流石の小笠原も同意してくれた。きっと同じようなことをされた経験があるのだろう。そもそも、俺と小笠原は性格的に似ているような気がしていた。

 だから、今みたいにちょっとしたことだけど、感情が共有できたのかもしれない。


 会話は二人の間で進んでいく。

 俺は思い切って話を進めるために聞きたい核心へと切り込んでいく。


「小笠原は少し前までお見舞い行ってたんだよな」

「まあ、半年前くらいが最後だったかな。あまり思い出したくないけど」


 由梨さんが言うには舞菜の症状を知る同級生は小笠原だけだったそうだ。親友として、お見舞いに頻繁に来ていたらしいが、とあるタイミングでぱたりと来なくなったと聞いた。


「それはなんでか聞いていいか?」

「結構ずかずか切り込んでくるのね。……………まあいいわ。舞菜が記憶崩壊症候群なのは知ってるよね」

「ああ。この前、俺も見たよ。舞菜が辛そうにしているところ」

「?! ………症状が起きてるとこを見たの?」


 小笠原は俺の言葉に一瞬、身を固くする。

 俺はその後の小笠原の問いに負い目を感じながら答える。


「ああ。福山に小笠原のことを聞いたら、高校の頃からの知り合いだっていうからさ、気になって聞いてみたらな」

「ふ~ん。それで、私に会いに来たんだ」


 そう言って、小笠原は窓の外を眺めた。


「私はね、入院してから初めてお見舞いに行ったあの日、舞菜が昔の私との記憶を失っていることに気が付いたの。ショックで仕方なくて、とにかく辛かったんだ。私の学生時代のほとんどは舞菜と一緒だったから、そこまで積み上げてきた大事な記憶だったんだ。分かっていた。分かっていたんだけど………………、だけどね………………」


 小笠原は少し言葉に詰まる。その一瞬には舞菜と過ごした思い出が無かったことになっていることの悔しさがこもっている気がした。


「私と積み上げた記憶はあっけなく消えちゃったのがやりきれなくて、でももうどうしようもなくて………………」


 小笠原は時々口ごもりながらも、言葉を続ける。


 きっと誰にも話すことが出来ず、ため込んできたものだったのだろう。俺に対して冷淡な小笠原も、今は感情的な言葉が所々に現れている。そんな姿からも、簡単には処理できない感情を上手く整理しながら話そうとしていることが伝わってきた。


「今まで紅羽って呼んでくれていたのに、小笠原さんって急に呼ばれたときは、耳を疑ったよね。夢だといいなと何度思ったことか………………。それでも受け入れなくちゃいけなかった………………。だって、思い出させようとすると、舞菜に辛い思いをさせちゃうから………………」


 小笠原はさらにヒートアップしていく。


「それでも——、私には無理だった。積み重ねたものを失って、私と舞菜は親友で幼なじみから、高校のクラスメイトの知り合いになるなんて受け入れられなかった。それに、私は舞菜が入院した後に病気のことを知ったけど、高校時代に一度も言ってくれなかったし、そんな気配もなかった」

「確かに、病気を持っているような素振りは一度も見せたことはなかったな」

「私は舞菜のことを幼なじみで親友だと思ってたから、病気について言ってくれなかったことも辛かった。そんなに信頼できないのかってね」


 そのことについては俺も同じことを思っていた。俺だって友達だと思っていたし、小笠原を除けば一、二を争うくらい高校で一緒に時間を過ごした自負はあったのに、何も言ってくれなかった。


「きっと、舞菜なりの配慮があったのかも知れないけど、気遣いは無用だと思っていた。それなのに………」


 小笠原は再び言葉を詰まらせた。

 いや、小笠原は脱線に気づいて、一呼吸おいて心を落ち着かせようとしていたようだ。


「ごめんね、ちょっと熱が入って脱線しちゃったね。まあ、それから行かなくなっちゃったの」

「そう、だったのか………………」

「それでもよかったよ。舞菜には由梨姉さんとか私とは違う人が必要だっただろうし」

「それはどういう意味?」

「そのままだよ。私は………………、舞菜から逃げた。由梨姉さんは関わりすぎないようにしてるし、舞菜の両親は完全に舞菜から目をそらしてどこか行ったし」


 そう言って小笠原は背もたれに大きくもたれかかった。俺はその言葉には諦めと悔しさが含まれているように感じた。


「両親もなのか?」

「そう。舞菜が記憶崩壊症候群って診断されてすぐだったね。それから、由梨姉さんと二人で暮らし始めたの」

「確かに、姉と二人暮らしって聞いたことがある」

「もう音信不通で困ってるって舞菜も由梨姉さんも言ってた。まあ、舞菜との大事な記憶がなくなっていくっていうのは両親が一番辛いだろうしね」


 俺は舞菜の両親の想像を絶する辛さを理解しきることはできないだろう。


 確かに、両親との記憶は一番最初に無くなっていく記憶だっただろうから、逃げたくなる気持ちも分からなくもないけれども、誰よりも近くに寄り添ってあげるべき人がいなくなることは舞菜にとっても辛いんじゃないかとも感じる。


「だからこそ、誰かが舞菜のそばにいなくちゃいけない。由梨姉さんも徐々に回らなくなってくるだろうし……。それが飯田なんだと思うんだよね」

「そ、そうなのか………」

「きっと、飯田しかできないことがあるよ。私がやるべきだったことを押し付けているだけかもしれないけど………、それでも一緒にいてあげてほしい。だって私の————」


 小笠原は瞳を潤ませているように見えた。その表情がどれだけ舞菜のことを思っているのかを物語っていた。


「——————私の、一番大事な——友達だから」


 俺には小笠原のその言葉が重くのしかかった。

 彼女の本当に大事なものを、託されたから。


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