裁きの時

 天使と共に逃げた先の宿に泊まりだして、一ヶ月ほどの月日が経った。僕は宿での仕事の他に、街の小さな酒場でも仕事をさせて貰えるようになった。当然料理なんか作ることは出来ないから、任されることといえば裏方で汚れ物を洗ったり、ひたすら芋の皮を剥いたり、掃除をしたり。けれどそのどんな仕事も僕にとっては苦痛ではなかった。だってこれは正しい、人の仕事だから。

 初めの頃は余所者である僕に不審の目を向けていた店主も、最近は僕の仕事ぶりを褒め、賃金の他に店の残り物を持たせてくれるようになった。

 すれ違う子供に挨拶をすれば、子供は元気よく挨拶を返し、僕の横をすり抜け駆けていく。その背中を見送りながら、僕は胸の詰まるような思いでぎゅうと手にした袋を握りしめる。

 僕が、まさかこんなに普通の真っ当な生活を送ることが出来るなんて。働いて、お金をもらって、大切な天使とご飯を食べる。奪うこともなく、暴力とも無縁な、人の生き方。

 僕は手にした袋の中を覗き込む。中にはパンと少しばかりの野菜、それと少し奮発して買った牛乳が入っている。

 食が細い天使の為に買ったものだ。そもそも天使には食料など必要ないのかもしれないけれど、それでも今まで僕が用意した食事を天使は少しではあるが、口にしていた。ならば天使にはなるべく良いものを、栄養のあるものを食べてもらいたい。

 天使の待つ宿までの道を早足で歩いて行く。途中、町外れから微かに楽隊の賑やかな演奏が響いてきた。何か流れの楽団か芸人一座が回ってきたのだろうか。明日以降まだ留まっているようなら、天使と一緒に見に行くのも良いかもしれない。

 そんなことを考えながら宿の階段を上がり、扉を開けて中に入ろうとしたその瞬間。

 階段を駆け上がってきた男に、どん、と背中を強く殴られた。

 僕と男は部屋の中に同時に倒れ込み、大きな音が響く。流れる視界の端で、部屋の隅に蹲っていた天使がハッと顔を上げたのが見えた。

「て、てんし……」

 心配しないで、と言おうとした口が塞がれる、違う。頬を思い切り殴られて顔面が壁に叩きつけられたのだ。咳き込みながら顔を上げると、ぬるりと熱いものが顔を伝い滴る。鼻血だ。……ああ、天使と出会う前の日々の、懐かしく悍ましいこれは。

「や、っと見つけた……! この変態野郎!」

 怒声と共に胸ぐらを掴み持ち上げられ、もう一度顔を殴られる、口の中が切れて血の味が広がる。

「な、んです、か。あなたは」

「お前が無理矢理攫ったメラニーの仲間だよ! チクショウ、こんな所に隠れやがって…!」

 メラニー? それは、誰だ。そんな名前は知らない。あそこにいるのは天使だ。人の世界の人の名前など持ち合わせてなどいない。

「なんの騒ぎだい!」

 ドタドタと階段を上ってくる足音が聞こえ、宿の女主人の声が大きく響く。

「警吏に連絡してください! こいつ、ウチのメラニーを攫って連れ回した変態野郎だ! 警吏だってこいつとメラニーのどっちもいたら流石に見て見ぬ振りは出来ねえだろ!」

 天使、逃げて、と伸ばした僕の手は、掴まれて地面に押しつけられる。力一杯蹴りつけられ、僕は胃液を地面に吐き出して蹲った。身体に力が入らない。天使を、天使をこの暴虐から助けなくてはいけないのに。

「メラニー、メラニー! ああ、やっと会えた。怖かったな。もう大丈夫。みんな助けに来たから。ああ、この野郎、こんなもん着けやがって!」

 天使を抱きしめた男は天使の足元を見て顔を歪め、ポケットから取り出したナイフで「枷」を切った。天使の足を縛る革のベルト。

 ――天使が逃げないようにと、天使に嵌めた、本物の「枷」。

「……ああ、怖かった。怖かったよ……!」

 天使の端正な表情がぐちゃりと醜く歪み崩れ、涙が顔を濡らしていく。そのまま天使は男に抱きつき、まるで天使とは思えぬ泣き声を響かせる。

「天使、なんで」

 足が萎えている。いや、さっきの衝撃で折れたのかも知れない。身体が思うように動かない。霞む視界が男に縋り付く天使の姿を捉える。

「何が天使だ! あの羽はショーのための作りもんだよ! 気持ち悪い、頭いかれてんのか!」

 そんなはずは無い。天使には羽根が生えていた。そうだ。天使の華奢な背中に、大きな翼が広がって。雪の中、それがこの世のものとは思えぬほど美しくて。

 男は天使を抱き上げ立ち上がり、部屋の外に出て行こうとする。

「待って」

 天使、僕のもとからいなくならないで。お願いだから。僕という悪魔を見捨ててどこかに行ってしまうというのなら、その前に。

「僕を、裁いて……。僕という悪魔を、討ち滅ぼして……」

「なに訳の分かんねぇこと言ってんだこのクソ野郎! 安心しろ、もうじき警吏がここまで来る。そしたらお前は晴れて犯罪者としてとっ捕まって法に裁かれるだろうよ!」

 違う。違う。僕を裁くのは天使だ。人間なんかじゃ僕を裁けない。だって僕は醜くて悍ましくて穢れた悪魔なんだから……。

 声は言葉にならない。伸ばした手は届かない。バタン、と扉の閉まる音が響き、天使と男の姿が僕の視界から消えた。

「天使……僕の、天使……!」

「悪魔を滅ぼすのは天使だけれど、人を裁き人を赦すのは人。天使はそれに干渉しない」

 鈴を転がすような幼い声が耳朶を打つ。白く赤みのない足が音もなく視界の端を滑る。ふわりと純白の羽根が床に落ちた。

「天使……?」

 顔が動かない。見えるのはただ白い足と地面にとどく純白の翼のみ。聞こえるのは可憐で幼い静かな声。

 これは幻覚? それとも、天使が僕のために戻ってきてくれたのか?

「天使、僕を……」

「天使はあなたを裁きも赦しもしない。あなたは人なのだから」

「違う、僕は」

 僕は、悪魔だ。

 悪魔なんだ。

 じゃないと、僕の犯した悍ましい罪の数々は、人の僕が、人のまま。

「あなたの犯した罪は人の罪。あなたを裁くのは人の法。あなたを赦すのは人の世界。安心しなさい。あなたは悪魔ではないよ」

 嫌だ。これは幻覚だ。幻聴だ。

 口を動かせど言葉は最早声にならない。意識が薄れ消えゆく中、部屋に迫る警吏の足音が遠くから響いてくるのが聞こえた。

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天使と悪魔 ウヅキサク @aprilfoool

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