十字架
「はいよ。これが今日の分の駄賃だ。部屋代は引いてあるからね」
宿の女主人は無愛想な声で、こちらを一瞥もせずに小さな袋を持った手を僕に突き出した。
僕は差し出された袋を受け取って中身を検める。紙幣が数枚と、硬貨が少し。紙幣の数が、最初に聞いていたのよりも一枚多い。
「お金、多いです」
紙幣を抜き取り女主人に差し出す。
「おや、計算を間違えたかね」
女主人はその紙幣を一度はひったくったが、僕がそのまま踵を返そうとしたのを見て「待ちなよ」と呼び止めた。
「こっちの間違いだ。持ってきな」
「いや、いいです」
「そんじゃ追加報酬だ。あんた真面目に働いてたからね」
そういうことなら、と僕は紙幣を受け取り袋の中にしまい直した。女主人はチラリと僕を横目で睨めつけ、
「黙って受け取っときゃ良かったのに。あんた、そんなんじゃ生きてけないよ」
「僕は悪いことをしたくないんです」
フン、と女主人は忌々しそうに鼻を鳴らし目元を歪めた。
「なんだい、そりゃ」
「僕には天使がついているので」
「天使って、あの妙に白いガキのことかい?」
「ガキじゃありません。天使です」
女主人は呆れたような顔をし、頭の横で人差し指をくるくると回した。
「嘘じゃありませんよ。だって、現に天使のいる今、あなたはいいことをしたじゃないですか」
「は? どういう理屈だいそりゃ」
「天使は清い存在だから、人間の善性を引き出すんです。……あなたは、悪魔じゃなくていい人だ。だから天使がお救いなさったんです」
「あぁ。ありがたい像や石なんかは買わないよ」
女主人の口調が露骨にトゲを孕む。
「そんなの必要ありません。悪魔は天使が裁き、人間は天使が救いますから」
「何言ってるか分からないね」
女主人は僕から顔を背けるとしっしっと犬でも追い払うかのように手を振った。
「あんたと話してると気が違っちまいそうだよ。早くその天使とやらのとこに行きな。まったく、最近の若いもんは訳が分からんね」
僕は口を噤んでぶつぶつと何かを呟く女主人に背を向け、磨いたばかりの階段を上って天使の待っている部屋に向かった。
「ただいま」
「……」
ベッドに腰掛けていた天使は窓の外をじっと見つめている。
「今日はね、良い事があったんだ。ここの主人がとてもいい人で、お金を少し多くくれたんだ。だから後で一緒にコートを買いに行こう。これからもっと寒くなるし、その翼も隠さないと」
天使はゆっくりと僕を振り返り微かに首を動かした。
「さ、今日はもう寝よう。明日にはここを出なきゃ」
「どこへ、行くの?」
「何処へ行こうか」
僕は天使の隣に寝転がって天使の顔を見上げる。
「天使は何処に行きたい?」
「……帰りたい」
「そっか。それならもっと善いことを沢山しないと。そうすれば、僕を迎えに来た他の天使達が天使を見つけてくれるから」
――嘘だ。そんなことをしても僕は神の国に行くことは出来ない。だって、僕は悪魔だから。
僕は窓の外に視線を向けている天使の横顔をじっと見つめる。幼く、丸みを帯びた顔。不思議に煌めく白銀の瞳。陶器のように滑らかで白い柔肌。艶やかで透明感のある銀の髪の毛。
見れば見るほど整った造形をしている。これが神に祝福された者の美しさ。対して自分の両手に視線を移せば、日に焼けて茶色く、シミと皺が早くも浮き出しはじめている。昔に折られた右手の小指と薬指は上手くくっつかず歪んで曲がったままだし、手の甲には人を殴った時に折れた歯が刺さった傷痕が消えずに残っている。――醜い、悪魔の手。
何故天使が帰る方法を忘却しあんな場末の見世物屋にいたのかは分からないが、多分、僕を正しく裁けば天使は役割を果たしたとして神の国に帰ることが出来るのだ。善い人間を導き悪魔を裁くのが天使の役目。天使の存在理由。
――けれど天使は僕を裁かなかった。それどころか僕に触れて優しい言葉すらかけてくれた。悪魔である、この僕に。
「……」
それが間違っていたことで、天使は僕を裁くべきだと、そう伝えるべきなのだろう。それが正しいことなのだろう。けれど僕は天使にそれを伝えることが出来ないままでいる。のうのうと天使の手の温かさに溺れ、天使の優しさに縋り続けている。
(いいじゃないか、このまま天使とずっと旅を続けたって)
心の奥底で囁く声がする。
(どうせお前は悪魔なんだ。天使には天使の役割があるように悪魔は悪いことをするのが本分なのさ)
いけない、駄目だ。思えば思うほど声は大きく響き、欲望を滲ませる。
(それに、天使と一緒に善行積んでりゃいつか〝善い人〟になれるかもなぁ。そうなれば、天使と一緒に神の国へ行ける。天使と一緒に……)
……ああ、なんて甘美な悪魔の囁きなのだろう。これまでの悪行を償い、善い人としてこの美しい天使と共に神の国で永久に生きる。なんて幸せで、なんて素晴らしい!
でも、駄目だ。駄目なのだ。どれだけ罪を償おうと、僕が悪魔であるという事実は変わらないのだから。僕の正体は醜く悍ましい悪魔そのもので、善人になんてなれっこない。悪魔は善い人にはなれない。そんなこと、僕が一番分かっている。それなのに何故、僕は裁かれぬまま天使のそばに居ることを望んでしまうのだろう。どうしてこんな恐ろしい考えを捨てきれないのだろう。これも、やっぱり僕が悪魔だからなのだろうか。
裁かれることは恐ろしくない。むしろ、早くこの身に抱える罪を天使に断罪し、浄化して欲しい。この願いはずっと、ずっと変わらない。今でも時折、母を置き去りにし、人を殺したときの悪夢を見るのだ。早く裁かれ、解放されたい。けれど、けれど……。
「ねえ」
天使が囁く。
「お腹、すいた」
「あ、あぁ! ごめんね。今買ってくるから」
僕は弾かれた様に立ち上がって部屋を後にする。さて、今日のご飯は何にしようか。くるくると指先で鍵を回しながら階段を降りて、宿を出た。日は傾きはじめているけれど、沈むにはまだまだ猶予があるだろう。町中を歩く人はまばらで、時折開いた窓からふわりと食べ物の良い匂いが漂う。天使には良いものを食べさせてあげたいけど、手持ちのお金はそう多くない。けれど盗んだものを天使に食べさせるなんて言語道断だ。買い物は慎重にしなくては。
買い物を済ませて部屋の扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは開け放たれた窓に身を乗り出した天使の姿だった。今にも空へと飛び立とうとするかのような天使の姿に僕の腕から買ってきた食材や服がこぼれ落ちる。
「駄目、天使、行かないで!」
悲鳴のような声が喉から漏れた。天使が僕の方をふりむくのと、僕が地面を蹴って天使に手を伸ばすのは同時だった。
「あっ」
天使の胴に両腕を回して窓から引き剥がし、自分の胸に抱え込む。天使は微かに身じろぎしたがすぐに身体から力を抜いて僕に寄り添うように身を預けた。僕は天使を抱き竦めたまま膝から崩れ落ちる。
「……いやだ。天使、いやだ。行かないで。僕を見捨てないで。どうか。どうか。もし、天界に帰らなければいけないというのなら、その前に僕を裁いて討ち滅ぼして。ねえ、天使……僕の天使……」
「……」
天使が居なくなることがこんなにも恐ろしい。いや、怖いのは裁かれないまま居なくなられる事だ。せっかく、せっかく僕が見つけて救い出したのに。
僕の腕の中で天使の小さい身体が静かに揺れる。呼吸をしているのだ、と気がつくのに少し時間がかかった。身体に伝わる振動に注意を向けると、それは天使の心臓が脈打つ音だ。
トットットッと僕よりも遙かに速いリズムで天使の心臓が拍動するのが分かる。天使が息を吸う度に天使の身体は膨らんでは沈むのを繰り返す。
生身の身体だ。
僕はそのことに驚きながらも、腕に、胸に伝わるその体温と振動に安堵を覚えるのを感じていた。天使も同じなのだ。僕のような悪魔と同じように生身の身体を持ってこの世に顕現している。
艶やかな髪を指で梳いて柔い身体をかき抱けば確かな手応えが僕の手を通し伝わってくる。そのことが、この世にしっかと根付く天使の確かな感触が、今にも消えてしまいたいような僕の生をこの世に留めてくれるようにすら感じた。
「ねえ、天使……」
僕は天使の髪を梳きながら耳元で囁く。天使の背中で小さく閉じている純白の翼は、それだけ場違いなほど現実感無く美しく、それは天使を天使たらしめる象徴のようだ。
――この翼がある限り、天使はいつでも空に帰ってしまえるのだ。天使の白い翼は、善い人の所に飛んで導くため、悪魔の所に飛んで裁くために在る。
分かっている。こんな悪魔ごときが天使を縛ってはいけないということは。天使の使命を邪魔してはいけないということは。
けど。
「天使、僕の懺悔を聞いて」
僕はこの天使に裁かれたい。他の天使では駄目だ。僕の助けた、今僕の腕の中で静かに呼吸しているこの小さく幼い、無垢な柔い天使でないといやなのだ。儘ならなかった僕の人生、裁かれる相手くらい、選んだっていいじゃないか。僕は心の中で呟く。
「僕はね、天使が思っているよりずっと酷い悪魔なんだ」
せめて、せめて天使が僕を裁き討ち滅ぼすまで僕から離れられない様に天使に枷を嵌めよう。天使が、『自分の手でこの悪魔を裁かなくては』と思うように。この悪魔を野放しにしてはいけない、目を離してはいけないと思うように。
「僕は病気だった実の母親を見捨てて逃げたんだ。いや、見捨てただけじゃない。冬が迫っているというのに母の毛布を奪って、金目のものも全て持ち出して」
僕は僕という悪魔が犯した所業の数々を天使に懺悔する。母を見捨てたことから始まり、人を殺したこと。脅して金品を奪い取ったこと。人の家畜を盗んだこと。鬱憤晴らしに弱い者に暴力を振るってしまったこと。死体から肉を剥いだこと。
僕は次々と思い出したくもない過去の罪業を包み隠さず懺悔した。生きるためには仕方なかった。死にたくなかった。その一心で行ったものばかりだった。口から溢れる後悔には涙が混じり、嗚咽と共に吐き出される懺悔は語ることも儘ならない。けれど天使はそんな僕の言葉を何も言わずただじっと、僕の腕の中で静かに聞き続けていた。
「――これが、これが、僕の罪です。天使」
「……」
「こんな、ひ、酷い悪魔を、どうか、野放しにしないで。天使なら、分かってくれるよね」
僕は天使を抱きしめる腕に力を込める。――もしかしたら、天使の身体が神の炎を宿し、このまま僕を焼き滅ぼしてくれるのではないかという僅かな期待も込めて。けれど想像していたような裁きはなく、天使は静かに頭を上下に動かした。
「ああ、天使。それじゃあ」
僕は腕を解き、天使の正面に移動して座り込む。
「天使、然るべき時が来たら、僕を裁いてください。それまで」
――それまで、裁かれるまで、僕は。
僕は、何をすればいいのだろう。
僕は言葉を続けられないまま天使の顔を見上げた。天使は吸い込まれそうなほど大きな銀の瞳で、無表情に僕を見つめ返す。
――何をするか。それは、天使と共に行動していく内に導かれるものなのかもしれない。
「それまで、僕は天使に付き従います。あなたが審判をくだす、その日まで」
僕は天使の足下に額をつけて重々しく誓いの言葉を述べた。
天使に嵌めた枷。僕は顔を上げて天使を見つめ、確信する。これで、これで天使は僕のもとから居なくならない。絶対に。
全身から一気に力が抜け、僕は姿勢を崩して大きく息をつく。我知らず、ふわりと笑みがほころんだ。
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