天使と悪魔

ウヅキサク

降臨

 僕はずっと、天使を探していた。

 この穢れきった地上に降り立って悪を裁き世界に光を齎してくれる、何よりも清くて正しく、そして美しい天上の存在を。


 灰色の空からチラチラと雪片が舞い散る憂鬱な冬の日だった。耳に飛び込んできた喧噪に首を巡らせると、フリークサーカスの団長が場違いに陽気な口上を並べる後ろに、雪に晒した素足を僅かに赤く染めて、ふわりと天使が佇んでいた。

 雪に溶けてしまいそうな髪色に、陶器のような肌。前髪の下から見える瞳はこの世の何処も映していないような、それでいて全てを見透かしているような不思議な銀色に煌めいていた。

 そして、その背中には小ぶりな一対の翼が生えていた。柔い羽毛に覆われた純白の翼。それはかつて絵本の挿絵にあった天使の姿に酷似していた。

あれは、まごう事なき本物の天使だ。

 僕は吸い寄せられるようにそのサーカスのテントに足を踏み入れた。渡したお金はなけなしの食事代だったような気もするけど、そんなことは僕にとってもうどうでもよかった。

 手足の多い人間、少ない人間、小さな人間、そんな奇妙な姿だけれど、僕にしてみればどうって事もないただの人間達に交じって天使も見世物としてステージに上がっていた。

 胸が悪くなるほどに毒々しい色の服を身に纏った司会者が、おもしろおかしく口上を述べる。曰く、羽の生えた真っ白な鳥人間、だと。

 周りの人間達がどっと沸いて口笛や歓声が飛び交う。

 僕は信じられない思いで周りの人々を見渡した。

 こいつらは、狂っているんじゃないだろうか。

 地上に降り立った天使が世にも下劣な見世物として晒しあげられているというのに、何故誰もそのことに気がつかないんだ。

 白い簡素な服だけを身につけて、天使は言われるがままに背中の白い羽を広げ、くるりと回り拙いダンスを踊る。周りの人間は口々に天使を囃し立て、飛んで見せろ、何処まで羽根が生えているのか見せろ、卵は産まないのか、などと信じられないほど冒涜的な言葉を投げかける。

 僕はあまりの悍ましさに身を震わせながらも、天使の美しさに目を離せないでいた。天使はこの汚れた醜い地上に住まうものではないから、きっとこんなにも美しいんだろう。この世界の全てと不釣り合いなほどに。

 舞い終わった天使は静かに一礼して、舞台の端に身を隠す。僕は立ち上がってテントの外に出た。

 ……天使がこんな所にいるのは間違っている。その想いだけが僕の胸には渦巻いていた。

 人目を避けながらテントの裏に回ると、団員や荷物を乗せるトレーラーがあって、その周りで団員が談笑していたり、慌てた様子で荷物を移動させる人間の姿がちらほらと見えた。

 きっと出番を終えたばかりの天使がすぐに出てくるだろうと見ていると、思った通り、すぐにテントの布をまくって天使が姿を現した。冴え冴えとした雪の白の中で、天使の白さはどこか暖かく、この場の何ともそぐわない美しさを宿していた。天使は無表情のまま雪の中を素足で歩き、トレーラーの一つの扉を開けて、そのまま中に入ってしまった。

 少しの間天使の消えた扉を見つめ、僕はそっと踵を返した。今は、周りに人が多すぎるか。夜にまたここに来て……。

 厚い雲から雪片が軽やかに舞い落ちる。手のひらでじわりと溶ける儚さが、雪の中に佇む天使の姿と重なって見えた。


 その日の夜、僕は真っ黒な服に身を包んでもう一度テントの裏に足を運んだ。夜空には星が微かに瞬き、まるで天が僕に味方しているかのように月はその姿を見せない。

 昼間天使が入っていったトレーラーは覚えているが、きっとそのトレーラーには他の団員も入っているのだろう。無理に押し入ろうとすれば、誰かに気づかれてしまうかもしれない。

 どうしようかと僕が物陰で思考を巡らせていると、カチャリと音がして、トレーラーの入り口が細く開いた。僕の心臓が大きく跳ねる。

 僕のいる位置からは、そこにいるのが誰なのか、外開きの扉が邪魔をして伺うことができない。

 まさか、天使が降りてくるなんて、そんな奇跡のようなこと。

 そう思いながらも、扉を見つめる僕の心臓はどんどん鼓動を早めていく。

 いや、奇跡が起こったっておかしくはないだろう。だって僕は、こんなおかしな所から天使を連れ出そうとしているのだから。

 そんな都合よくいくものか。きっと酔っ払った団員の誰かが降りてくるんだ。僕に奇跡なんか相応しくない。そうだ、だって……。

 扉の影から現れたのは、小さな白い素足。冷たさをまるで意に介する様子もなく、雪の上に降りる。

 陶器のような肌と動きに合わせて靡く透明な銀髪が闇に映える。

 衣擦れの音と共に、雪と同じくらい白い大きな翼が闇の中に広がった。

「……あぁ……」

 僕の口から我知らず歓喜の声が零れた。

 雪の上に、天使が佇んでいる。

 天使が緩やかに首を回し、僕のいる方へと視線を向けた。

「……誰?」

 僕の耳朶を打つ鈴を転がすような可憐な声。幼さを残しながらも、その声を聴いた者が思わず息を飲む様な神聖さを宿したその響き。

 僕は機械仕掛けの人形のように立ち上がって天使の前にまろび出た。闇の中で、天使の神々しさに声も出せずに立ち尽くす僕は、天使からはどれほどみっともなく見えているのだろうか。

「……あなたは?」

 天使の唇から問いが紡がれる。

「ぼ、僕は」

 なんと言えばいいのだろうか。貴方を救いに来た? 救うなんて、烏滸がましいこと。いや、でも僕の素性を全て詳らかになんかしたら、天使は僕のことを軽蔑するんじゃないか。それとも天使は全てお見通しなのだろうか。

 口を半開きにしたまま、声にもならない音を口から漏らす僕を静かに天使は見つめる。沈黙の後、

「もしかして、あなたはお話に出てくる悪魔なの?」

 その言葉に僕の全身が硬直する。震える足が、一歩、雪を踏みしめて前に出た。

 ああ、なんてことだ。僕が天使から悪魔と呼ばれるなんて。

 口元が歪むのを抑えられない。もう片方の足も、根が生えた植物を無理矢理引っこ抜くようにして、一歩前に出す。

「ああ……僕は……」

 もう一歩。

 ざく、と雪が僕の足の下で砕け踏みしめられる。

 ざくざく、ざく。

 きっと今僕の顔は見るに堪えないほど醜い表情をしているのだろう。それだというのに、天使は逃げる素振りも、ましておびえる表情すら欠片も見せず僕の目を真っ直ぐにみつめている。

「ああ、あああ、やっぱり貴方は天使だ。僕の……僕の待ち望んだ天使」

 僕の本当の姿を、こんなに早く見抜いてしまうなんて。

僕は天使の足元に膝から崩れ落ちる。そのまま雪にまみれるのにも構わず跪いて、雪の上に額を擦り付けた。

「一目見たときから、分かっていました。貴方が鳥人間なんかじゃなく、高潔で素晴らしい天上の存在であると。だから、だから……!」

 顔を上げて、天使を見上げる。天使の銀色の瞳は、揺らぐことなく僕に向けられている。

「どうか天使よ。僕を、この醜くて悍ましくて穢れた悪魔を裁いてください。打って切り刻んで焼いて浄化してください。どうか……どうか……!」

「……あなたを、裁く……」

 僕の懇願を受けてなお静かな天使の声が、雪のように虚空に舞った。


 僕の母はよく、寝る前に天使のお話を僕にしてくれた。

 真っ白な翼と清い心を持った美しい天使の話を。

 善いことをすれば天使は人を神の国へ導いてくれる。そして天使は人を惑わす悪い悪魔を裁いてくれる。

 幼かった僕は、いつか天使に会えるようによい子でいようとしたし、人を惑わせて堕落させる悪魔の存在に怯え、どうか悪魔が僕の所に来ませんようにと一生懸命祈ったものだった。

 真っ黒で醜い姿に、燃えさかる石炭の様に赤い瞳、鋭い牙、長い尻尾。僕はそんな恐ろしい悪魔が物陰に隠れていないかと始終ビクビクして母にくっついていた。大きな建物にいるガーゴイルの石像を見て大泣きしたこともあった。

 けれど、大きくなるにつれ僕が知ったことは、悪魔は決して悍ましい姿をしてなどいないということ。悪魔は、普通の人と変わらぬ姿で人間を騙し、欺き、裏切り、傷つけ、破滅へと追いやるのだ。

 僕を罵り殴った母も、母を殴って暴れた父も、見た目はごく普通の人間だった。僕の父を狂わせた女だって綺麗な人間の姿だった。

 馬で幼なじみを踏み躙り、笑いながら駆けていった領主の息子も人間にしか見えなかった。

 皮膚が裂けるまで僕を鞭打った金貸しも、法外な値段でしか治療を受け付けなかった医者も、僅かな金と己の欲望のために姉を嬲り殺した男達も、みんな一様に人の姿だった。角も生えていなければ尻尾もない、黒い毛も、真っ赤に光る目も、蹄も牙もついてないただの人間だった。

 そして、それは僕も同様だった。僕を育てるために無理をし、倒れた母の寝床から毛布を剥ぎ取り、薬代を奪って逃げ出したというのに、僕の姿は変わらず人間のままで変化の兆しなんて一つも無い。いっそ、僕の姿がこの世の何よりも醜い姿に変わってさえしまえばいいのに。そうしたら僕は他の悪魔達よりもっと残酷で悪い悪魔で、だからそんな非道なことが出来たんだと、そう思えるのに。

 持ち出したお金はすぐに底を尽き、毛布は僅かな食料に変えてそれもあっという間に食べ尽くしてしまった。その日限りの職を転々とし、時には盗み、自分より弱そうな人間や悪魔を暴力で脅してお金や食べ物を巻き上げて、そうやって生き延びてきた。いつしか僕は、昔のように天使に会うことを願い始めた。けれどそれはあの頃の無垢な願いとは正反対の願いで。

 どうか、天使が現れて僕という悪魔を裁いてくださいますように。


 僕は天使の足元に額ずいたまま天使の裁きを待った。痛いほどの雪の冷たさも、これから僕に訪れる裁きを思えば全く気にならなかった。しかし、永遠にも思える僅かなときの後に訪れたのは、想像していたような苛烈な裁きではなく、僕を気遣うようなひやりと冷たい天使の指の感触だった。

「……おでこが赤くなっちゃってる」

「て、んし……?」

「こんな寒い日に、身体を壊しちゃう。早くお家に帰った方がいいよ」

 天使が僕の頬に優しく両手を添えて上向けた。天使と目が合った。

 銀色の瞳に、口を半開きにしたみっともない表情の僕が映り込んだ。

「あ、ああ、駄目、駄目です……」

「駄目?」

「僕なんかを映したら、天使の瞳が。そ、それに、指も」

 しどろもどろな僕の声に、初めて天使の表情が動いたのが分かった。困惑したように眉が僅かに顰められる。

「ダメ、じゃないよ。……ほら、寒いよ……」

 天使の両手が僕の両頬を挟みこむ。温もりのない陶器のような手の感触なのに、何故か少し暖かい様な気がした。

「ね。ほら、立って、お家に帰って、身体を温めて。身体を壊す前に」

「や、やめてくれ!」

 僕に優しい言葉をかけるな。天使からの温もりなんて、この僕にはあまりに不相応過ぎる。

 僕は天使の手を振り払って立ち上がった。天使の身体がバランスを崩し、よろめいた。

「あっ!」

 僕は反射的に手を伸ばして天使の細い肩を掴んだ。

「い、た」

「あ、あぁっ!」

 伸ばした手に力を込めすぎたことに、痛みに歪められた天使の顔に、焦ってしまったのがいけなかった。結果として僕は天使を突き飛ばし、天使は雪の上に倒れ込んだ。

「ぼ、僕は、なんてことを! だ、大丈夫ですか!」

 僕は天使の両肩を掴んで抱き起こした。天使の白い髪にまとわりついた雪を躍起になって払い落とした。

「……痛い」

「え、あ、ご、ごめん!」

 天使はやんわりと僕の手を自分の肩から外し、髪に残った雪を静かに払った。

「ぼ、僕は」

 僕は天使を害そうとしたわけじゃなくて。天使が怪我をしないように助けたくて。弁解をしたいけれど、焦りで口がうまく回らない。

「あの、ああ、僕は」

「……助けてくれようとしたんだよね。ありがとう」

「そ、そうなんだ!」

 やっぱり天使は清い存在なんだ。僕の行動の真意を分かって、認めてくれた。こんな悪魔のしたことでも、それが清いものであれば天使はそれを分かってくれる。僕はホッとして相好を崩し、天使の足元に膝をついた。

「て、天使。僕と一緒に、こんなとこ抜け出しましょう! こんな、悍ましいところ、あなたには相応しくない!」

 僕の言葉に、天使は少し困ったように眉根を下げた。

「……わたしは、」

「おい、いつまで外にいんだよ」

 天使の後ろにあるトレーラーから、男が顔を出した。酒瓶を片手に、赤く火照った顔の中の目は、酔いでトロンと濁っている。

「あ、ごめんね。今……」

「つーか、その男誰? あっ、まさかてめぇこいつになんかしようってんじゃ……!」

 考えるよりも先に身体が動いていた。僕は天使の手首を掴み、踵を返した。

「あっ、ちょっと」

「大丈夫、僕が助け出すから!」

 僕は天使の手を引いて走る。後ろから男の声が追ってきたけど、今の僕は無敵だ。今、この瞬間だけは、僕は醜い悪魔じゃなくて天使を助け走る聖人だと思えた。

 走って、走って、走り続けて、ようやく後ろからの声も足音も聞こえなくなって、誰も居ない裏道で僕はようやく足を止めた。荒い息を吐きながら、壁にもたれた。

「……も、う、大丈夫。誰も、追ってきてない、よ」

 天使は地面に崩れ落ち、肩を激しく上下させながらハッハッと短い呼吸を繰り返していた。

「ここ、は」

 天使の言葉に僕は視線を周囲に巡らせた。建ち並ぶレンガの壁。石畳。所々に酒場や娼館へと続く分厚い木の扉や下へと伸びる階段が見える。

「分からない」

 分からないけど、きっとこの道だってどこかに続いているはずだ。

「行こう」

「どこへ?」

「今日寝る場所を探さないと」

 天使は作り物のような瞳で黙って僕をじっと見つめる。

「大丈夫だよ。お金は無いけど、この辺りは誰も彼も都会へと行ってしまって何処も人手不足なんだ。泊めてもらう代わりに働かせてもらえばいい」

 言って、僕は天使の小さな白い手を自分の掌の中に握り込んだ。冷たい天使の手が僕の体温でじわりと温かみを帯びるのが分かる。そのことに無上の幸せを感じながら、僕は天使の手を引き、当てもなく、しかし確かな足取りで歩き始めた。

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