第3話 霞を飲む

 朝、頭の痛みで目が覚めた。咄嗟に二日酔いを連想したが、すぐに全く別物の痛みであることに気が付く。内側から響くというよりは、外からの衝撃で脳が揺れているような。

 時間、カーテンの隙間から差し込む光を瞼越しに感じる。取り敢えず時間を、反射的に考えるが腕は上がらない。自らを叩き起こす覚悟を決めた直後、昨日長期休暇が始まったことに気が付いた。溜息が漏れる。

 下に手を突き体を起こす。いつものベッドではなく、固いフローリングの感触だ。膝を立てた状態で何かを掴もうと手を動かすと、馴染みのあるソファの素材が手に触れた。


 何とか目を開けるようになると、昨日のことが少しずつはっきりしてきた。仕事が終わって、買い物。帰ってきてから一度寝て、その後、あぁ、思い出した。

 経験したことのないほどの脱力感に襲われる。とはいえ、今更動揺はない。それは昨日出し切った。私にあるのは不安と落胆だ。休暇は喜ばしいことではあるのだが、その後のことがあまりにも辛すぎた。


 重い頭をなんとか持ち上げる。何となく全身が怠い。どうやらベッドで意識を失い、転がり落ちてしまったらしい。

 床に座ったままで今日の予定を思い返そうとしていると、スマホから通知音が鳴った。彼女からのメッセージだ。


『ぐっもーにん。起きてる?』


今起きたばっか


『生活リズムアップテンポだね』


やっぱり病院は早起きしなきゃなの?


『いや、自然と目が覚める感じ』


眠れなかった?


『枕がすっごい柔らかい』


流石個室


『中途半端なホテルより全然快適』


なに持っていくんだっけ


『着替え、充電器、あと追加で、歯ブラシとタオルもお願い』


了解。タオルはどれくらい要りそう?


『四、五枚で大丈夫。着替えは四セットくらいおなしゃす』


イエッサー


『面会時間は十時以降だって』


十時はあり?


『細かいこたぁいいんだよ』


じゃあ十時目指して行くね


『一応病院側に電話してってさ』


おっけー


『ていうか今から準備して十時に着けるの?』


 咄嗟に画面の左上の時刻を確認する。何となく八時ぐらいの想像をしていたが、デジタルの文字盤は九時半を指していた。


間に合わないかも


『まあぼちぼち来な』


そうする


『じゃあ瞑想して待ってるね』


二度寝とかしていいものなの?


『ストレスを溜める方が体に悪いんだよ』


案外正論かも


『じゃあおやすみ』


おやすみ



 お互いに適当なスタンプを送りあって会話は終了した。直接の会話との最も大きな違いが、終わりがわかりやすいということだ。いつもならだらだらと続いてしまう言葉の応酬も、画面を介しているだけであっさりとまとまってくれる。

 スマホの電源を切ってソファに投げ置く。天井の照明を見ながら深呼吸する。頭を色々な思考や感情が巡り、それらを全て吹き飛ばしてエンジンをかけた。


 今日すべきこと。まずは、彼女の着替えをまとめて病院に連絡を入れねばならない。昨日は夜中に押しかけてしまったから手土産の一つでも持って行った方がいいだろうか。いや、それはそれで処理に困るだろう。一言謝るくらいが関の山だな。


 それはそれとして、まずはシャワーを浴びて着替えたい。昨日は疲労も相舞って何も気にならなかったが、冷静になれば二十四時間以上入浴していないわけだ。いくら冬とはいえ、そのことを簡単に許容できたりしない。

 スーツをハンガーにかけ、他の衣類は洗濯機に投げ込む。そのまま洗剤を入れて洗濯開始のスイッチを押した。ゴウンゴウンと服達が回っている音を聞きながらガス給湯器の電源を点け、浴室に入る。頭からシャワーを浴びると、目に見えないなにかが流れていく感触があった。昨日の感情の名残のような気がした。


 髪を乾かし終えて着替えも終え服の準備を、の前にまずは朝食から。間のいいことに昨日の夕食の余りは存分にある。冷蔵庫から、消費期限が昨日になっている刺身を取り出す。朝から刺身なんて、正月らしい贅沢さだ。冷凍してある米を温めている間にsnsのチェックを済ませ、その米と醤油で刺身を堪能した。やはり一日遅れたくらいで悪くなるほど、日本の食に関する基準は甘くないのだと実感する。


 食事を終え、彼女のクローゼットを開けた。病院への連絡は後でいいとして、先に持っていくものの準備をしておいたほうがいいという判断の上だった。同じ空間に住んでいるとはいえ、お互いに不干渉なラインは存在する。服の貸し借りといったようなこともなく、クローゼットを見たのは初めてだった。

 どんな服装を好むかくらいは把握しているため、特に驚くようなこともないはずだった。だが両開きの扉を開けた瞬間、奇妙な違和感のようなものが漂った。その正体は、収納してある服の種類にあった。

 

 彼女が持っている服を二種類に分けるとしたら部屋着と外出着。それら自体はさほど特徴のあるものではないのだが、その割合が少し珍しい。大抵の場合、部屋着は外出着よりも少なくなる。それは単純にそれぞれの服装の目的が違うためであり、その分類である以上必然である。

 しかし、彼女の部屋着は外出着の三倍以上の数があった。外出着が少ないのではない。部屋着が多すぎるのだ。


 極論、二着分あれば十分なはずの部屋着が、数十着敷き詰められている。そのどれもが思えば見覚えのあるもので、その段になって彼女が毎日のように違う部屋着を着ていたことに気が付いた。部屋着以外はそこまで多くないことを考えると、単なるおしゃれともまた違う理由があるのだろうか。


 一つ一つは大したものじゃない。でも確かに、彼女がまた一歩遠ざかったような印象を受けてしまった。もう何度もこういうことが重なり、そろそろ本気で話さなければと思っていた。丁度良く休暇を合わせることもできた。彼女の入院はそんな矢先のことだった。


 四セットの部屋着とカジュアルな外出着、四日分の着替えを鞄に入れる。タオルを上に乗せ、メッシュケースに入れた充電器とイヤホンコードを隙間に挟む。歯ブラシは専用のケースに入れ、コップと同じ袋に包んで鞄のサイドポケットに押し込む。入れ方に迷うようなこともなく、考え事をしながらでも手は動き続けてくれた。


 これで持っていく物の準備は整った。あとは病院側に連絡を入れて車で向かうだけだ。時間を確認すると、丁度十時半を回ったところだった。着替えやメイクなんかの時間を加味しても、昼前には病院に着けるはず。

 一応彼女に時間の報告をして外出の準備を始めた。自分用のクローゼットを開けると、彼女のものとの違いが明確に表れていた。まず服の絶対数が明らかに少ない。そしてそのわずかな服にも彩度が足りない。白か黒を基調とした服だけがわずかに並んでいる。だがこれはある種必然なことで、私が欲しいと思う服がそれなのだから改善のしようがない。


 その中から真冬でも着れるようなタートルネックのニットを選び、メイクに移る。洗面台の棚を開けて自分の道具を取り出そうとしたところで、隣にある彼女のメイク道具が目に入った。病院では使う機会もないのかもしれないが、一応鞄の中に入れておいた方がいいかもしれない。

 もう何百回と繰り返してきた動作を手に任せながら、頭ではやはり彼女のことを考えていた。だが、それは言語化するようなしっかりとした思考ではなくて、言うなればただ思考という舞台に彼女を立たせるだけのようなものだった。顔作りが完了して意識を離してしまえばもう忘れてしまうような、儚いものに過ぎない。

 

 テーブルに置いておいたスマホを開くと、彼女からの返信のスタンプが映った。恐らく了解を意味しているのだと思われる。時刻は十一時十分。少しのんびりしすぎたかもしれない。画面を切り替えて着信履歴を探しながら、足ではソファに向かった。電話するときに立ったままだとなぜか落ち着かないので、家で電話をかけるときは必ずここに座る。

 昨日行った病院の名前を見つけ、一息置いて電話をかける。昔は電話そのものを毛嫌いしていたが、今となってはいくらでもあるテンプレートから適当な一つを選ぶだけの作業となっている。名乗り、謝罪、要件、感謝。これらもまたテンプレートの一つにすぎない。あとは程よく相槌を打てば良識ある社会人の完成だ。念のため部屋番号だけを再確認して、電話を切った。


 ホーム画面に戻ったスマホを外出用のハンドバッグに入れる。そのままハンドバッグとパンパンに詰まった鞄を持って家を出た。今日は昨日ほどの寒さは無く、今年は出番がなかった薄めなコートを纏っている。ハンドバッグの内側に手を突っ込むと丸みとある程度の重量を持った何かに触れた。そのまま取り出さずに手探りでボタンを押す。と、三メートル先で車の鍵が開く音がした。


 助手席に鞄達を投げ込んで運転席に乗り込む。体重を使ってドアを閉め、エンジンをかける。風が無い分マシではあるのだが、無機質な冷たさで満ちている。直ぐに暖房を点け、風向きを運転席に設定。ついでにカーナビで病院名を打ち込んでおく。一度通った道なので覚えてはいるはずだが、念のためだ。


 寒さだとか、昼間の運転は久しぶりだとか、諸々の事情で密かに運転に緊張していた。が、車内も感覚も温まってくるとそんなことは霧散していった。

 国道に乗って前の車に付いて行くだけになると、なぜか数年前に一度だけ行ったドライブのことを思い出した。まだ私が免許を持っておらず、彼女の話し相手兼道案内役として助手席に座っていた。



「ねえ、寝そうになってない?」


「ん?だいじょぶだいじょぶ」


「ちゃんと道とか見ててよ?そんなの見てる余裕、こっちにはないんだから」


 舗装路の僅かな凹凸で揺れる座席が、控えめに言ってものすごく心地良い。彼女には悪いが、これで意識を保っていろというのは無理がある。

 それでも目的地に着かないのはそれで困るので、なんとか目を開けている状態だ。


「二個後の信号で左ね」


「待って、二個後ってこれ含む二個?」


「んや、次の次」


「わかった。ねえ、あと何キロくらいで着く?」


「えっと、五キロだって。すぐじゃん」


「おっけー。最後まで案内頼むよ」


「次曲がったらあとは直進だけ。寝てていい?」


「ほんとにやめて」


「はいはい」


 残り僅かと知ったためか、彼女は黙り込んで集中状態に移ったようだ。ラジオも流すことはできるが、気が散ると言ってかなり早い段階で切ってしまった。聞こえるのはタイヤが地面を転がる音と、追い抜く車の排気音くらいだ。


 隣で奮闘する彼女は、及び腰になりながらも危なげない動きをしている。多少力みはあるのかもしれないが、白線をはみ出したりといったことは一切ない。もしかしたらそういう才能があるのかもしれない。言わずもがな、彼女にそんなことを自覚する余裕は存在しない。



「おーい、着いたよー」


 目を開くと私の額をぺちぺち叩く彼女が見える。少し不服そうな顔、恐らく怒っているのだろう。


「ごめんって」


「別に怒ってないよ?ただ、もしこれで目的地に着かなかったらどう責任とるのかなーって思ってるだけだから」


「反省しております」


「まあ情状酌量の余地はあるかな」


「お昼ごはんなんでも奢るよ」


「司法取引ってやつだね」


 何か違う気はしたが、具体的に何が違うのかわからなかった。ひとまずは赦されたという事実があれば、万事問題なしだ。


「なんかまだぼーっとしてる?車にずっといるのもあれだし、取り敢えず降りよ」



 彼女の言葉を最後に、記憶は蓋を閉じた。どこに行こうとしていたのか、本来なら残っているはずのそれを引き出すことはできなかった。手繰ろうにも引ける紐が存在しない、そんな感覚だけが残った。


 カーナビに目をやると、既に目的地が画面内に映っていた。かなり近くまで来たらしい。更に二キロほど進むと大きな病院が見えてきた。見覚えのある駅の前を通り、建物の目の前まで行く。案内の看板に従って正面扉の左側にある大きな駐車場へ。

 自動ドアを通ると、平日にも拘わらずかなりの人で溢れかえっていた。入ってすぐにある待合スペースは座る隙間がなく、何人かは立って待っている。若干の罪悪感を持って彼らの間を縫って、受付に辿り着いた。

 名前を名乗ると部屋の場所を丁寧に説明してもらい、いくつかの注意点を確認された。どれも想像できるものばかりで、特に引っ掛かることなく病室へと向かった。一度行った場所ではあったが、人の出入りや明るさやらの違いで迷いかけてしまった。時々ある館内図を見ながら歩き、何事もなく到着した。


 部屋番号と、昨日は無かった名札を確認してからノックをした。中からはいつもよりワントーン低い彼女の声が聞こえた。久しぶりに聞いた余所行きの声に、なぜか嬉しくなってしまう。


「はい。うおっ、おはよう」


「おはよう。昨日ぶり」


「いやーわざわざ悪いね。まあ入んなよ」


「おじゃまします」


「ブツは持ってきてくれた?」


「うん。なにが必要かわかんなかったから、思いついたもの色々入れてきた」


「だからそんなに大荷物に」


「おかげで重くなっちゃったから追加料金です」


「そんなの人間のすることじゃないね」


「じゃあ人間の尺度で考えちゃだめだよ」


「充電器入れた?なさそうだけど」


「服の底に埋もれてるかも」


「あったあった。感触がぽい」


「夏祭りはまだ先だよ」


「えっもしかして金魚すくいのこと言ってる?」


「その後お腹痛くなったりしてない?」


「んー、それはない。なんかずっと眠い気はする」


「それ病気関係ある?」


「わかんない。どっちにしろ元気なんだから気にすることないよ」


「昨日も思ったけどさ、なんでそんなに飄々としてるの」


「あわあわするほど大事じゃないから、かな。あと目の前に気が気じゃない人がいると落ち着くから」


「こっちは身内が急に倒れた経験なんてないものでね」


「へぇ。珍しいね」


「そう返されると困っちゃうな」


「そう」


 いつもはマシンガンのように動き続ける口が、今日はやけに鈍い気がする。眠いと本人も言っていることだし、大人しく退散したほうがいいのだろうか。いくら元気そうとはいえ、歴とした病人なのだ。

 数秒の間でスマホを取り出して時間を確認した。これで帰るきっかけにできる。


「じゃあ」「あのさ」


初めてではないだろうか。意識せずして言葉が重なってしまったのは。


「健康な人から先にお願い」


「あー、いやそろそろ帰ろうかなって。それだけ。肝臓さんは?」


「うん。これがいい機会だと思うから言うんだけど」


 これがいい機会だから。つまりは、これまでも思ってはいたけど言わなかったこと、ということだ。そしてわざわざ言わなかったことを考えれば、気持ちの良い話である可能性は随分低い。


「入院するのが丁度いいなんて状況あるの?」


「うーん。というよりは、私たちが別の場所で生活することが中々ないからさ」


「なるほど」


 もう何年も寝食を共にしている。お互い親元に帰るようなこともなく、どんなに忙しくても家には帰るようにしてきた。


「で、本題なんだけど。私たち、恋人としてやり直さない?」


「まず一ついい?」


「どうぞ」


「冗談?」


「違うよ」


「えっと、言葉通りの意味なんだよね」


「うん」


「なんで」


「それは、理由?それともタイミング?」


「両方」


「野暮、ていうのもおかしいか。理由はね、大好きだから」


「そ、れは。じゃあなんで、今」


「言ったじゃん。ちょっと離れるのが丁度いいって。同じ空間に居たら、なんとなくで流れちゃうでしょ」


「それはわかるけど。私、好かれるような要素、ある?」


「そんなことは考えないで。私が好きなんだから、どんな説明しても意味ないでしょ。そうじゃなくて、どうしたいかを考えてよ」


「うん。あのさ、今までと同じじゃだめなの?」


「だめ、ていうことでもないのかな。えっとね、そうだな。嫌われる前に恋人になっておこう、ていう感じかな」


「ん?私が嫌う前にってことだよね」


「そ」


「なにかあった?その、私が嫌いかねないきっかけ」


「うーん。これは自意識過剰な部分もあるんだけど、こっちを見なくなった」


「え」


「無意識なんでしょ」


「見てるよ。今も」


「ほんとに?」


「……うん」


「そっか。まあそれはいいや。考えておいてね。期限は一週間」


「」違う。


 違う。恋人になんてなれない。私たちの間にあるのは曖昧な距離だけで、それを固めるような関係になってはいけない。

 だってそんな関係を築けば、築けば、何も変わらない。友人だろうが恋人だろうが、今の関係は成り立つ。

 いつから?問おうにもそこには私しかいない。

 昔はこうだった、だとかそんなことは考えたくない。だが、確かにそこには看過できない変化が起こっていたようで、それに気づく間もなくその渦中に放りこまれていた。

 混乱。それはあった。だけど心の大半を塗りつぶしていたのは、まごうことなき絶望だ。

 開かれていた、というには細すぎる光が、完全に断絶された気分だった。あと一秒、あと一日、あと一年。一歩進むたびに遠ざかる光に、どこか安心してしまっていた。

  

 そのあとは平静を装った体が勝手に家まで運んでくれた。頭では彼女との会話を何度も反芻していた。そして家に着くと誰もいない空間に彼女の想像をしてしまい、一度吐いた。胃の痙攣に意識を向けている間だけその吐き気から気が逸れ、完全に収まると涙が出た。

 顔を洗って服も着替えた。トイレを片付け、ソファに腰を下ろす。内臓が軽くなってからは遣る瀬無い怒りが堆積しているようだった。その矛先が私や彼女に向いていたなら、まだ幾らかやりようがあったかもしれない。


「ほんとだ」


 もう何年も、彼女を見ていない。なぜか、その言葉が急に腑に落ちた。

 彼女の表情が思い出せない。いや、それどころかどんな顔をしていたか、思い出そうとすれば暗い部屋で煙草を吸う横顔だけが浮かぶ。

 その表情は明るいとは言えず、全てのパーツが固まってしまったかのように凪いでいた。不思議と、彼女は喜んでいると思っていた。言動のどこからもそんなことは表れなかったが、私には彼女が負の感情を抱いていることが想像できなかった。

 

 そんなこと、ありえるのか。あの頃の彼女を見て、今の彼女を確かめた。

 なんで、思い込んでいた。

 

 脳が揺れた。髪、頭皮、頭蓋骨、それらを通り抜けて脳の奥、心そのものが殴られたような激痛が走った。

 何もかも、私の想像だった。だったとしたら。

 無口だった彼女と分かち合えていたことなんて一つもなく、会話を通じて彼女の姿が見えるようになった。私の想像ではなく、彼女の本当の形。

 想像と違う彼女から目を逸らし続けて、歩み寄ることを止めてしまった。離れていたのは彼女ではなく、私。

 

 彼女が言葉を交わしてくれるようになったのは、私を知ろうとしてくれていたから。

 違う。そう思いたくて、記憶を漁る。でも、滲んだ顔と歪んだ声でこちらを向く彼女は、ただの一他人としてしか認識できない。

 玄関に落ちていたスマホを拾い上げ、メッセージの履歴を流す。それすら文字の羅列でしかなく、彼女の声と捉えることすらできない。

 彼女の身長は?手の形は?髪の長さは?趣味は?癖は?どんな親?兄弟はいる?どこで生まれ、どうやって生きてきた?

 いくつもあるはずの疑問を、今の今まで気にならなかった。知りたいと、思わなかった。


 傷つけた、なんてものじゃない。傷つけ続けてきた。共有した時間がそのまま彼女を刺した時間だ。

 絶えず流れた血液で、なにもかもが真っ赤に染まっている。私だって、まだ乾いていない鮮血を指先まで浴びている。滴る絵の具は床にまた一つ、赤を重ねる。


 


 二週間後、彼女は死んだ。

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吐煙 そらふびと @sorafubito

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