第2話 断裂

 人間関係はコミュニケーションによって形成される。例えば、これが大半ではあるのだが、会話。他で言えば、メール、議論や討論、その他様々。

それらの共通点は、言葉を介し、その裏には意思があるということだ。


 そんな共通点がある以上、人間関係の構築には言葉が必要なのか。答えはノーだ。


言葉が無くとも、それぞれに意思があり、それが伝わりさえすれば歩み寄ることはできる。


 言葉を使わず、相手に意思を伝える。一見魔法のようなことに思えるが、実のところそう難しいことではない。


私たちは誰かと話すとき、その表情を注視している。これはそこから相手の感情を捉えようとしているためだ。そして、その相手も当然ながらそのことを自覚している。

目を逸らす、顔をしかめる、涙を流す。そういった細微な表情を通じて、言葉とは違う意思を疎通している。


 だが、それらはあくまで伝えようとしている意思を受けて、その意思をくみ取ろうとするからこそ成り立つものだ。


人間関係において最も重要なのは、伝えようとせずとも自然と理解できる意思である。



「ごちそうさまでした」


「ぱっと作ったけどちゃんと美味しかったね」


「うん。チンジャオしてた」


「使い方あってる?」


「チンジャオなロースでしょ?」


「なるほど」


 漢字からして野菜の名前だが、本人がそれで納得しているのだから掘り返す必要はない。


「あ。煙草って、もしかして切れてる?」 


「その棚にないなら、そうかも」


「うっわー」


今日は本当に吸いたかったらしい彼女は、明らかな落胆を見せた。


「買いに行ってきたら?時間もそんなに遅くないし」


「滅茶苦茶寒いよね」


「雪は止んだみたいだね」


「さっきまで降ってたの?」


「それなりには。まだ少し積もってるんじゃない?」


「うん、まあ、行くか。行こう」


「上しっかり着て行きなよ」


「そうする。何か他にいるものある?」


「ん、食パンお願い」


「六枚?」


「センスでどうぞ」


「了解」


過ごしやすさを求めた部屋着の上から、ごわごわとしたダウンを羽織る。

マフラーやらは一度手に取ってから置きなおしている。


「待って。ダウンだけで行くの?」


「えっ、だめかな」


「少なくともズボンはもっと厚いのにしたら?」


「でも十分くらいで帰ってくるよ?」


「じゃあ毛布被って行って」


何となく某猫型ロボットをイメージしながら言うと、予想外なことに伝わってくれた。


「あれ現実でいたらかなり怖いよ。間違いなく不審者。でも昔着る毛布ってあったよね」


「もふもふな羽織みたいなやつね。懐かしい」


「持ってたの?」


「私がってわけじゃないんだけど、おばあちゃんの家にあったんだ」


「そうだったんだ。着てみたことは?」


「残念ながら。でも、私にとってのおばあちゃんには欠かせない物だったから、すっごく身近に感じるんだよね」


「へぇ。どんな人だったの?」


 別に詰まるようなことでもなかったはずだが、私の中で何かが栓のように引っ掛かり、一瞬の間が生まれた。ただ、記憶をたどったことで言葉が出なかっただけのようにも思える。


「おばあちゃん、冬になったらいつも、その毛布を着てて。家から出るときも脱がなくて、て言っても田舎だから顔見知りしか会わなかったんだろうけど」


「ならではだね」


彼女は衣装棚を探りながら相槌を打っている。


「うん。おばあちゃんが死んじゃってからは、あの匂いがずっと鼻に残ってる気がしてさ。最近見てなかったから忘れてた」


「そっか。いい匂い?」


「大好きな匂い」


「そこの毛布にまだいるかもよ」


「かなぁ」


装備は整ったらしい。


「じゃ、行ってくるね」


「いってらっしゃい」


 彼女はそっとドアを閉め、玄関に行く。鍵を開ける音がして靴の固い足音、閉まると同時に鍵が鳴る。


いってらっしゃい


何となく声に出す。言葉にせずにはいられなかった。


 言われた通りに畳んである毛布を抱きしめ、全身で匂いを感じようとした。当たり前のように、私たちの匂い、ひいてはこの家の匂いがする。


 閉じていた記憶と共に、感情も止められなくなっていく。叫びだしたいような、激しい悲しみが鼻の奥を刺激する。あの匂いはどうやっても嗅ぐことができない。


 そんな衝動が高まるにつれ、喉は締まり体は硬直していく。涙さえ瞼にたまるだけで溢れてはこない。顔も声もいつでも思い出せる。だがあの匂いだけが私の意識を離れ、最も遠いところから包み込む。


 やっと零れた一滴の雫を拭うと、心よりも先に体が落ち着いていくのを感じた。

 忘れていたのは、忘れようとしたからだ。思い出さなくて、だせなくてもいいと決めていたんだ。


 他愛もない会話を幾度もしてきた。それでもこんなにも大きなことを忘れていられたのは、過去に触れようとしてこなかったからだ。私たちは意識的にそれを避けていた。


 あの時の違和感は、彼女が一切の躊躇いもなく踏み込もうとしてきたことだ。お互いに不透明で放置していた仕切りを貫くような、鋭く力のある言葉だった。それを彼女が意識していたのか、確信は持てないが恐らく無意識だ。



 私たちは数年前と何も変わらない、とは言えなくなってしまった。私も彼女も、あの頃とは違う。と言っても、私の変化は彼女について行くためのものだ。


 彼女の変化は大きなものだがそこに所謂、突拍子の無さといったものはなく、彼女の根本的な性質、向き合い方はそのままに他の何かが変わったように感じた。時間と共にある精神の変化というのは仕方のないことだ。


到底無視できるような軽いものではなかったが、根本が変わっていない以上私が合わせればいいだけのことと放置してきた。


 しかし、ここ最近はそうもいかなくなってきている。


 彼女と言葉を交わし、新たなことを知っていくにつれて、彼女が見えなくなっていくように感じてしまうのだ。これまでの時間で珠を磨くように少しずつ形を成していった彼女という人間像が、今度は同じ速度で濁っていく。


 朝になると隣で眠っている彼女に、まるで知って間もない他人がいるかのような緊張を覚えてしまう。それは徐々に顕著になってゆき、明日には恐怖へ変わってしまうのではないかと怯える夜も増えてきた。


 その苦しみに苛まれながらも、少し納得してしまう自分がいることも、認めざるをえない事実だった。この関係は名称できないほどに曖昧で、その曖昧さを失えば私たちは遠く分かたれてしまう。だからこそ今日までそのままでひたすらに歩んできた。


 縋る関係を持たない以上、私たちを繋ぐのは私たち自身に他ならない。片方の変化で相手に受け入れられなくなってしまえば、それでおしまい。


 結局のところ、あの頃の完成された関係はいつまでも続くわけではないこと、よく理解していたつもりだった。



 それから彼女が帰ってきて、久しぶりに煙草を吸った。何か月かぶりの煙は肺に沁みるようで、独特な匂いに吐き気がした。


 彼女は最初の一本だけを静かに吸い、残りの三本を雑談に費やした。いつでも吸えるよにと言って、余りの箱は仕事用の鞄の中に入れていた。



 二週間が経ち、年末ということもあってお互い仕事が忙しくなり始めた。家に帰れはするが、帰り道で買った総菜を食べ、すぐに眠りについて起きたら仕事という生活になっていた。

 帰ってもゆっくり会話をしている余裕もなく、数年前までの生活をぼんやりと思い出しては眠りについていた。だが、十二月も終わりに差し掛かり、二人とも同じタイミングで休暇をとることができた。


 その年最後の仕事が終わり、一通りの挨拶を済ませて会社を出ると、空はまだ薄明るかった。休みが始まることも相舞って、久しぶりの定時帰りに感動を覚えた。電車も帰宅ラッシュの直前のようで、四駅だけだが腰を据えてゆったりと時間を過ごした。


 恐らく彼女は仕事中だろうが、念のためにメッセージを送っておく。既読が付かないということはまだ帰路にもつけていないらしい。


 最寄り駅から家への最短経路から少し逸れ、メッセージ通りにスーパーで食材を大量に買っておく。種々の野菜、豚肉、鯖と鮭の切り身、少しだけ贅沢をして刺身用のマグロとハマチ。卵はどんな料理にも使える。調味料は、味噌、砂糖。料理酒と醤油も減ってはいたが、一人で運ぶには重くなりすぎる。

 スナック菓子と、つまみになりそうなお菓子を吟味し、酒のコーナーへと向かう。私たちは日常的に飲酒はしないが、飲めないというわけではない。二人とも次の日まで引っ張るから避けていただけで、長い休暇があればしっかり飲む。少しいい日本酒を籠に置き、ミネラルウォーターも二リットル。棚の反対側で気になる冷凍食品を選び、最後に冬に食べるために作られたというアイスを一番上に乗せ、レジへの列へと並んだ。


 これで正月は大丈夫なはずだ。足りないものはコンビニで買えばいい。籠二つに渡って積まれた食品は約八千円。専用の台で丈夫なマイバッグに押し込み、徒歩十分への覚悟を決める。


 疲労はあったがこれを乗り越えれば正月の方から勝手にやってくる。そう思えば気分は軽かった。


 家に着くと真っ先に買った物を冷蔵庫に入れていく。調味料ぐらいしか残っていなかったが、隅の隅まで使い切ってぎりぎり入れきることができた。スマホを確認してもまだ既読はつかない。


 夕飯の準備をしておかねばならないが、この繁忙期を乗り切った達成感で気が緩んでしまった。薄れていく意識の中、なんとか午後八時にアラームをセットし、ソファに倒れ込んだ。



 電話の音で目が覚める。音のする方向に手を伸ばし、画面を凝視する。ぼやけた視界が晴れると同時に、見慣れた彼女の名前が映っていた。


『もしもーし』


「お疲れ様ー。もう帰れる感じ?」


『あー、それがまあ、ちょっとさ。寝てた?』


「少しだけ。今日中に帰るのは難しそう?」


『うん。今日は無理そうかも』


「了解。じゃあ明日までにド派手な料理作っとくね」


『ありがと。でも、ごめん明日も厳しいかもしれない』


「そんなに?まあ根詰めすぎないようにね。ていうかそんなに忙しいなら長電話してらんないね」


『そうじゃなくてさ』


一呼吸置いて何かを言おうとしている。何か言葉を挟んだ方が言いやすいかとも思ったが、ただならない空気感がある。


『今、病院にいる』


「え」


『ちょっと張り切りすぎちゃって』


「マジか。どこの?てか今は大丈夫なの?」


『今はちょっと頭痛いくらい?場所がね、私の会社のすぐ近くの総合病院なんだけど名前はわかんない。看護師さん来たら聞いてみるね』


「いい。もう寝てて。また後で」


通話を切り、マナーモードに切り替える。電車内で鬼電されるわけにはいかない。スマホの画面がホームに戻ると時刻は午後十時を回っていた。アラームはセットされていなかった。


 着替えずに寝ていたおかげで、コートを羽織ればそのまま行ける。経験上、こういうときほどミスしてしまうため、いつもよりも冷静に一つ一つ確認するようにしている。スマホ、財布、イコカ、全てある。

 

 一瞬どの靴を履いていくか迷ったが、出勤と同じブーツを選んだ。走りやすさよりも、急いで駆け付けた雰囲気を演出することで病室へ入れてもらいやすくなるかもしれない。


 距離と体力を擦り合わせた速度で走りながら、彼女の会社に一番近い病院を調べる。最寄り駅はここからいつもと逆の方向に六駅。

 電車の時刻を見ながら帰りの電車がないかもしれないことに気が付いたが、だからと言って行動を変えることはできなかった。病院名がわかるとすぐに電話をかけた。


 電車に乗ると時間が時間だったため、会社からの帰りよりもかなり空いていた。当然ながら車内はしんと静まっており、自分の呼吸の荒さに気付けた。

 息を落ち着けるついでにスマホを開くと不在着信が四件、メッセージが三件来ていた。既読をつけた瞬間に五度目の着信が来た。今電車。送ると着信は止み、その代わりに前三件と同じ内容のメッセージが届いた。

 私はそれらに対する最も強い一言を知っていた。黙って寝てなさい。


 電車が病院の最寄り駅に着くと、落ち着いてどの出口なのかを調べる。つもりだったが、改札の出口にその病院への案内があった。

 従って駅から出ると、車や街灯の明かりで巨大な病院が目に入った。思ったよりも近く、小走りで向かう。


 受付は終了していると書いてありはしたが、名前を名乗ると軽い注意だけであっさり通してくれた。柔軟な対応には感謝しかない。

 まだ明かりの点いている廊下を通ってエレベーターへ乗り、三階の病室へ。流石に夜の病院で走ったりはしない。


 伝えられた病室は名札が掛かっておらず、電気も消えていた。念のため電話をかけてみると、一コール目で通話が繋がった。


『もしもし?』


「病室って312で合ってる?部屋暗いんだけど」


『今どこ?ていうか待って、もう来てるの?』


声と同時に部屋の明かりが灯った。どうやら部屋は合っているらしい。


「部屋入っていい?」


「うわ、本当に来てるじゃん!」


「思ったより元気そうじゃん。取り敢えず入るね」


「いや、まあ中で話そうか」


 無音のスライドドアから中へ入ると、驚いたことに個室だった。こんな遅くに電話できるのだから大部屋なはずはないのだが、そんなことに気を回す余裕は無かったらしい。


 病室は一人が使うには十分過ぎるほど広く、洗面台やかなり大きな棚、机など家具も充実していた。


「すごいしっかりしてるんだね」


「ね。でも様子見するためにここにいるだけで、基本的には大部屋だって」


「様子見って、重い病気なの?」


「倒れたのは疲労も重なったみたいだけどね」


「じゃあすぐにどうとかいうことじゃないんだね」


「だったら電話とかさせてもらえないでしょ。詳しいことはわかんないけど、血中のなにかの濃度が下がっただけらしいよ」


「そっか。でもそれなら明日には帰れるんじゃない?」


「えっと、その本当に軽いんだけどね」


「隠さないで」


「点滴するときに血液検査したらしくてさ、肝臓に病気があるんだって」


「肝臓」


私でもわかるくらいの有名な臓器。ということは、それだけ重要な器官でもあるということだ。


「相当悪化しない限り一、二週間で退院できるってさ」


「悪化って、」


「そんなことほとんどないし、なるのは高齢者とか元々疾患がある人だけだって。私と全くおんなじ質問」


「わかった。うん、なにかできることはある?」


「んー、明日か明後日かに着替えとか持ってきてほしいかも」


「おっけー。着替えだけでいい?」


「あと充電器。あとはお菓子と、煙草とか?」


「充電器ね。会社への連絡とかしとこうか」


「それくらい自分でできるよ。あっ、煙草はあるんだった」


「じゃああんまり遅くなってもあれだし、今日は帰るね。煙草だけ持って帰ればいい?」


「重いだろうし置いて行っていいよ」


「また明日来るね」


「ちょっと待って。もう終電なくない?」


「多分残ってるでしょ。最悪タクシーあるし」


「ふっふっ、そんなこともあろうかと、車を会社に置いてあるんだよ」


「あっ確かに。でも入れるの?」


「駐車場は門とか無かったと思うよ。誰かに声かけられたら事情説明したらいいじゃん。電話かけてきてもいいし」


「なんかやだなぁ」


「別に悪いことしてないからいいじゃん。まあ、傍から見たら真夜中に盗んだ鍵で車に乗る不審者かもしれないけどさ」


「分かってるじゃん。でもそれが一番だね。鍵は鞄の中?」


「内ポケットにメッシュケースあるのわかる?その中」


「あった。これね」


「そ。建物はどんなのか知ってる?」


「小さいアパートみたいなあれでしょ?駐車場も表から見える?」


「真正面にあるから行けばわかるよ」


「おっけい。じゃあ退院するときは迎えに来ればいいわけね」


「その節はよろしくお願いいたします」


「いえいえ」


「もう終電とか関係なくなったけど、晩酌してく?コンビニでビールとか買ってきてさ」


「冗談言う元気があるなら寝てて。また明日ね」


「残念。また明日」


 手を振って病室を出る。元気を装ってはいたが、顔色は悪かったし、声にも辛さが滲み出ていた。だが、それで私まで暗くなったら彼女は益々無理をするだろう。彼女はそういう時に無理することを躊躇しない。


 受付の人に一言挨拶し、病院を出る。来た時は気にならなかったが、自動ドアが開くと同時に刺すような冷たい風が吹く。

 スマホで時間を確認すると、もうすぐ今日が終わりそうになっていた。


 上の方を見てみるが、三階に明かりの点いている部屋はない。ここから見えないのか、はたまた眠ってしまっているのか。スマホで会社の場所を調べ、足を動かす。


 鼻が寒さで痛み、ただ真っすぐ歩くだけで疲労が重なってくる。気を紛らわそうと目に意識を集中する。

 

 見慣れない街並み。彼女にとっては日常的に通る景色なのだろう。十分に深夜と言える時間帯になると、目に入る灯も限られてくる。

 不思議なことに暗くなればなるほど、全く違うはずの街並みに懐かしさを覚える。ふとした街灯や住宅の形、道の分かれ方が頭にあるどこかの街と重なることがある。


 進行方向に見覚えのある建物が見えると、自然と歩みが止まった。あと十数メートル。

 平静を保てる限界が目の前まで来ていた。


「っ、た」


 良かった。元気で良かった。けががなくて良かった。病気こそあれど、重症じゃなくて良かった。いや、どれも違う。私はただ、生きていて良かった。


 最近、気持ちが乱れることが多い。


 なんとか声を漏らさないように耐えるが、喉まで来た声が消えることはない。口を塞げば、他のどこかから漏れ出す。喉からせりあがってきた声が、目の隙間から垂れていく。


 これは、歩けそうにない。


 付近に人はいない。慰める人も、咎める人もいない。こういう時にこそ煙草が必要だ。間のいいことに、彼女から没収した煙草がある。一本出そうとして、ライターを持っていないことに気が付いた。


 だが、もう涙は出ない。もう、止まる必要はない。

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