最後に会話を交わした日

 祖父が死んだ。

 享年は……いくつだろう。すぐには出てこない。でも、百歳に限りなく近い、九十歳代だ。少なくとも、九十五歳よりは上だ。その計算は、僕と丁度六十歳違う、同じ干支を持つ母方の祖母がいて、その母方の祖母と父方の祖母が同級生で、今回死んだのは父方の祖父だから、つまりそんな祖母たちよりもいくらか年上なのだ。そんな漠然とした程度でしか祖父の年齢を知らなかったけれど、とにかく、そんな祖父が死んだ。

 祖母たちはもうこの世にいない。

 祖父もいなくなったが、こちらはまだ現実としての意識が淡い。

 祖母たちは、一年前と、三年前くらいか。とにかく、呆気なく死んで行った。当時はそれなりに思うところもあったのだけれど、今となっては、呆気なくという表現がとても似合う。僕の人生に干渉することもなく、僕をとりまく親族の人生を破壊することもなく、誰に迷惑を掛けるでもなく、呆気なく死んで行った。多分、そうやって呆気なく死んで行くことこそが、大往生と呼ぶべき死に方なのだろう。役目を終えて、迷惑を掛けず、ただ、残された者たちに埋葬をするだけの仕事を与えて死んで行くという死に方こそが、大往生と呼ぶべき終わり方だと思える。

 そういう意味では、祖父も大往生だったと言えるだろう。

 長いこと、老人介護施設で生活していた。祖父が老人介護施設で暮らすようになってから、世界を感染症が襲って、都会に暮らす僕はおいそれと祖父に会えなくなった。いや、冷静に考えてみると、老人介護施設に入った以降、祖父とは結局顔を合わさないままだった。会いたくなかったわけじゃない。祖父が嫌いだったわけでも、もちろんない。どちらかと言えば僕は、祖父のことが好きだった。いや、そうでもないか。世間一般の言う、優しいおじいちゃんというタイプではなかった。優しいおじいちゃんが大好きだった、というような言い方ではうまく説明出来ない。どうにも気難しい人であり、どこか憎たらしい親族であり、だけれど敬愛すべき人物だった。それは、僕が大人になればなるほど募るものだった。要するに、祖父は仕事人間だった。戦争に行き、奇跡的に生き延びて、企業戦士として働き、十分な稼ぎを得て、家を持ち、同時に絵画という大きな趣味を続け、健康的に暮らし、老いて尚精力的に活動していた。気難しくてとっつきにくく、酒に酔うと面倒になるタイプではあったが、小言ばかり言う癇癪持ちのような一面も持っていたが、それでもどこかに憧れを抱くべき人物であった。

 祖父と最後に話したのはいつだろうか、と、訃報を聞いてからずっと考えていた。

 老人介護施設に入って以降は、祖父と会話した記憶はない。しかし、考えてみるとそういう施設に入る前から随分と痴呆が進んでいて、晩年はまともな会話は出来ていなかったように思う。僕は結婚して、離婚しているのだが、離婚後に「お前はいつ結婚するんだ?」と尋ねられたことも一度や二度ではない。再婚はいつするんだ? という意味合いの質問ではない。男たるもの、早く嫁をもらって仕事に精を出せ、という、前時代的な思想に囚われた発言である。それに痴呆が加わり、僕が離婚したという事実すら覚えていないのだ。

 普通であれば苛立つような発言だが、当時の僕もそれなりに大人になっていたから、あの手この手ではぐらかしていた。祖父に人を傷付けたいという意志はない。悪意もなければ、善意もない。ただ、祖父の人生の中で培ってきた思想と、僕という若年に対して持てる共通の話題がそれくらいだったのだ。ゲームの話題で盛り上がれるわけでもなければ、戦争の苦難を共に語れるわけでもない。祖父と孫は、よほど特殊でない限り、同じ話題で盛り上がれない。それでも祖父は僕に話しかける。僕は祖父には話しかけられない。何を言っても覚えてくれない祖父に、その場凌ぎの言葉を掛けることしか出来なかった。

 あれは多分、会話ではなかった。

 それでもお互いのことを、大切な人物と認識して行ったコミュニケーションだった。

 じゃあ、祖父と最後に話したのはいつなんだろう。

 祖父の脳が正常だったのはいつまでなのだろう。僕が結婚の報告をしたとき、「そうか!」と喜んだ祖父のことはよく覚えている。けれどそれは、お互いのことを想ってした会話とは思えない。それよりさらに若くなれば、僕は祖父のことを煩わしく思っていたし、祖父も不必要に苛立っていた。僕の青年期には、祖父とはろくに会話した覚えはない。力が強くなった孫が、不必要に苛立つ祖父に対して立ち向かったり、怒鳴ったり、そんな風に険悪な関係を築いた記憶しかない。

 最後に話したのはいつなんだろう。

 多分、ずっとわからないんだろう。これは祖父に限らず、全ての人間関係において、判明しないことのひとつだと思われる。あの人と最後に、ちゃんと会話したのは、いつなんだろう。要するに、おべんちゃらでもなく、その場凌ぎでもなく、お互いに面と向かって、損得を考えず、お互いをひとりの人間として認め合い、無垢な状態で話し合うことなんて、もしかしたらほとんどないのかもしれない。一度もまともに会話せずに通り過ぎていく人で、人生のほとんどは構成されているに違いない。

 僕と祖父には、祖父と孫という枠を取り払って話せた日があったのだろうか。

 ひとりの友人のように。

 無二の親友のように。

 恋人同士のように。

 ただ無心に話せた日が、あったのだろうか。

 そういう風にして、ずっとずっと遡って行くと、嗚呼、あの人と最初に話せた日のことは、鮮明に思い出せることに気付いた。

 記憶力が良い僕でも、小さい頃の記憶はモノクロで、鮮やかではない。だけれど、僕が祖父のことをしっかりと認識した日のことはよく覚えている。

 どういう理由かわからないけれど、僕は祖父に自転車に乗せられて、ふたりで少し離れた場所に来ていた。どうやって来たのか、なんで来たのか、何をしに来たのかも覚えていない。絵を趣味にしている祖父と一緒に、絵を描きに来たみたいだ。草むらに一緒に座って、遠くに見える、赤い三角屋根の建物を描いていた。僕が幼稚園に入るよりも前の記憶だと思う。その原風景だけはよく覚えている。僕は祖父の横に座って、赤い三角屋根の建物を描いている。祖父も同じように絵を描いている。祖父の描く絵は上手だった。だけど、僕が描いていた絵も、なかなか味があるように、当時の僕には思えた。祖父は、「おじいちゃんは上手だろう」と得意そうに言っていた。確かに上手いなと思った。だけど僕は、僕の絵の方が上手だと言った。祖父は「そうか」と楽しそうに笑っていた。それでも祖父は、「まだおじいちゃんの方が上手だぞ」とか、そんなようなことを言っていた。僕は相変わらず、僕も上手だよと言った。だからあの日、僕と祖父が描いた絵は、同じくらい上手だった。

 その日のことをよく覚えている。

 今になって思えば、小さい孫がムッとして言い返した言葉に、大人の余裕で返しただけかもしれない。それとも祖父の中には、絵に対する絶対的な自信があったのだろうか。お前なんかより俺の方が上手い、とは言わない。負けず嫌いの祖父らしい。だけど僕の絵を下手だと扱き下ろすこともなかった。慈愛に溢れた会話だった。

 あの時の僕と祖父は、間違いなく対等で、友達だった。僕は祖父のことが大好きだったし、きっと祖父も僕のことを愛してくれていた。好きだけれど、ここは嫌い、とか、関係を続けるために穏便に、とか、損得のために気を遣って下手に出る、とか、そういうことはなかった。お互いがお互いのことをただ好きで、お互いがお互いのことをひとりの人間として見ていた。集団生活を送る前の僕にはまだ友達はいなかった。遊び相手は、祖父か兄しかいなかった。よく一緒に絵を描いたし、よく一緒に五目並べをした。祖父は僕に囲碁の相手をさせたかったが、当時はルールが難しくて覚えられなかった。代わりにオセロを一緒にやろうとねだったが、祖父はオセロにはあまり関心を示さなかった。だからまた一緒に絵を描いた。ふたりで描いた絵を、カーテンに何枚も貼った。家族を呼んで、僕と祖父の二人展を開いた。どんな絵だったかは覚えていないけれど、僕が描いた絵の中に一枚、祖父が描いたのではないかと疑われるほど上手に描けた絵があった。それが誇らしいような、悔しいような、そんな日のことを未だによく覚えている。

 祖父は死んでしまったから、僕は今、祖父のことを愛おしかったと思う。

 だけど、今生きていて、僕に憎まれ口を叩くようなら、また心ない言葉を放つのだろう。今、目の前に祖父がいて、意識もしっかりしたまま、僕に「いつ結婚するんだ」と聞いてきたら、「少しは他人の気持ちを考えろ」とでも言うかもしれない。あるいは、「婆ちゃんとの馴れ初めはどうだったんだ」と聞くかもしれない。酔っていたら教えてくれるだろう。素面なら、妙な癇癪を起こすんだろう。祖父の反応が、ありありと想像出来る。

 祖父はもう死んだので、これ以上僕の中に思い出が増えることはない。

 全てを取り込みたいと思えるほど、祖父との絆は強くはなかった。

 逆に、死んでしまった祖父の人生に、僕が介入することも出来ない。

 最後に話した会話は、多分もう、一生思い出すことはない。

 あるいはそんなもの、最初からなかったのかもしれない。

 それでも、最初に交わした、お互いがお互いに、ひとりの人間同士で行った会話のことは、あの草むらで、赤い三角屋根を眺めながら、おにぎりか何かを食べながら吹かれた風のことを、どうしても忘れることは出来ない。あの時の愛おしい時間は、僕の原体験として、永久に残り続けるのだろう。

 そしてそれが、どうか祖父の中にも残っていたらと願う。

 これは本来、僕と祖父の中にさえあれば良い思い出なのだけれど、いつか消える僕の記憶をどこかに残しておきたい気持ちになって、これを書いている。

 ひとつの命が失われただけのことだが、誰かにとっては思い出深い命だった。

 僕の父や、その兄弟にとっては、より大切な命だったのだろうと思う。

 やはり、言葉にならない、感慨みたいなものはある。

 ついに死んだか、とも思うし、やっぱり死ぬのか、とも思うし、何も感じないな、と思う瞬間もある。悲しくなれば、僕は祖父を好きだったんだなと思える。何も感じないと思えば、僕は冷徹な人間なんだなと思う。それくらい、まだ、答えの出ない状態にある。

 自分でも、何を言いたいのかあまりよくわからない。

 悲しくもないし、当然嬉しくもない。

 祖父が死んでも、今の僕の人生には、あまり影響はない。

 それでも、あの日一緒に遊んでくれた祖父に、心を許せる友人だった祖父に報いるために、せめて立派になった孫のひとりとして、社会に対しては厳格だった祖父を真似て、儀礼を持って送り出せればいいと思う。

 時節を考えれば、時代を考えれば、祖父のようには稼げていないし、祖父のように立派な企業に勤めているわけではないし、家庭も家も持っていない。

 それでも、今の時代に即して見れば、あの人のお孫さんらしい、あるいは、立派な祖父から生まれた父と同じように、その父の面目を保てる程度には、立派な方だと言われるような儀礼を持って、祖父を送り出せればいいなと思う。

 死んだ人間に恩を返す方法なんて、それくらいなものだと思う。

 もし死んだ祖父が、死を契機に痴呆が治り、霊体となって全盛期の冴えた知能を取り戻し、喪服に身を包んだ孫の姿を見ることが出来るなら、それをもって、良い人生だったと思って欲しい。

 あなたの孫のひとりには、確実にあなたの血が流れていて、

 あなたの人生を、少しでも模しています。

 ならばもう悔いはないはずだろうから、どうか、安らかに。

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打鍵リハビリ日記 福岡辰弥 @oieueo

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