打鍵リハビリ日記

福岡辰弥

小説の心臓

 年が明けたら酒を断とう、と誓って、もう五月も半ばになろうとしている。

 実際のところ、飲みの席があったり、お祝いムードな場面があったりして完全に断っていたわけではないのだけれど、今はかなり酒との付き合い方がハッキリとしてきた感がある。何より、酒は飲むと時間がなくなるのだ。酒は美味いし、酩酊していて気分もよくなるのだけれども、これは精神的な前借りであり、あるいは日々のストレスを帳消しにするための秘薬であり、根本的解決に至らない解消である。

 無論、そんなことは言われなくても元々知っていて、わかっちゃいるけどやめられないというのが依存の大半だろうと思う。精神的に落ち込むことも、スマホで夜な夜な動画を見ることも、SNSを見続けることも、市販薬でオーバードーズを決め込むことも、世の中にある大半の依存はそういう仕組みで人々を手ぐすね引いて待っていて、多くの人をドツボに嵌める。だからと言って、これを悪と断言するわけには行かない。そうじゃなきゃやっていられない人は大勢いるし、そもそもそれを悪と定義するのは、依存していない人間がただ言っているだけなのだから、宇宙規模で考えた場合、依存は大して悪じゃない。多分、森林伐採とか、プラスチック撤廃だとか、そういうことも同じくらいどうでもいい。環境活動だの、健康志向だの、LGBTQだの、色々な社会活動が行われているけれど、宇宙規模で考えると——銀河規模で考えたところでも、結構どうでもいいことだ。否、宇宙規模で考えても宇宙環境がー、と宣う人間がいるかもしれない。ならば歴史的規模で考えよう。一億年後にはどうでもいいことなのだ。マジで割とどうでもいい。お前が夜な夜なスマホで動画を見ていて将来の夢に対しての活動が何も出来ていなくても、本気でどうでもいい。一億年後の銀河系から見れば、お前の存在などないも同じだ。

 そういう観点で見てみると、僕が年明けから酒を断とうと努力していることは本気でどうでもいいことではあるのだけれど、翻って自分規模で考えるととても重要なことだった。話の前提を覆すようで恐縮だが、一億年後の銀河系とか、僕個人から見るとどうでもいい。一億年後の銀河系がどうなっているかより、明日の僕が昨日の僕よりも優れていて、あるいは劣っていなくて、少しでも健康で明るく生活している方がよっぽど重要だ。繰り返すようだが、お前が夜な夜なスマホで動画を見ていてうだつの上がらない人生に不安を感じていることは本当にどうでもいい。お前の人生よりも僕の健康の方が大事だからだ。

 まあ、そもそも酒を断とうと思ったのは健康志向だからというわけではない。お前と同じように夜な夜なスマホで動画を見て、午前二時にあと五時間は眠れると思いながら動画を見続け、気付いたら三時になっているけれどまああと四時間は眠れるしなと思い、四時になって三時間ならギリ体を休められるかと考え、五時頃にいよいよ焦り始めているような僕が今更健康について深く考えるはずがない。ただ単純に、酒を飲むと他の娯楽が一時停止してしまうということに、最近ようやく気付いたに他ならない。

 そもそも飲酒というのは、酩酊のために行われるものだ。振り返ってみると、僕は酒に対して、あまり「うまい」という感情を抱いた記憶がない。「飲みやすい」やら「フルーティ」やらという感想を抱くことは出来るけれど、こと「うまい」という観点から言えば、どう考えてもリプトンのミルクティーの方がうまい。飲みやすさの観点から言えば、サントリーの烏龍茶の方がどうしても飲みやすい。香りを感じるなら、デカフェのアールグレイでも飲んでいた方がよほどいい。そう、僕はあまり酒が好きではないようだ。唯一、味わって飲みたいと思えるものは一般にIPAと呼ばれるビールの種類だけれども、それ以外の飲酒は基本的に酩酊を目的として行われる。あとはコミュニケーションの道具として利用されるのがほとんどだろうか。そのコミュニケーションにしてみても、やはり酩酊による益が大きいから、目的の九割は酩酊と言っていいだろう。IPAへの憧憬が一分あり、残りの九分は「こんな昼間っから酒なんか飲んで俺は実に自由だ」と思うためである。


 さて、そんな飲酒を断つことで、人生に大幅な自由時間が生まれた。

 毎日労働をしては家に帰り、動画を見ながら酒を飲んで疲れ果てて眠るという生活を続けていた人間にとって、あるいは仕事帰りに居酒屋で晩飯と称した晩酌をして死んだように横になる生活を続けていた人間にとって、定時退社して午後八時前に帰宅し、酒も飲まずに他に何をすればいいのかという感じがある。こんなに時間があるならやはり酒でも飲んで酩酊するか? という気さえしてくる。酒を断ったことでこんなに自由時間が出来たのだから、この時間を利用しない手はない。よし! 酒を飲もう! そんな気の迷いさえ生まれてくる。だがこれでは本末転倒なので、その時間を利用して何かしらの活動をするべきだと考えた。

 まずは年明けから、ソーシャルゲームを頑張ることにした。俗に言うソシャゲは、頑張るという言葉とはあまり相性が良くない。遊びは基本的に、頑張るものではないからだ。だがそれはあくまでも一般論であり、どんな物事にも頑張りは付随する。年明けからこっち、かなりゲームに対して真面目に取り組んで、そのお陰で飲酒をしている暇があったらゲームに情熱を注ぐべきだという考えに至った。これは非常によろしい変化だった。何しろ、酒を飲むと酩酊してしまって真面目に考えられないのだ。ゲームは結構頭を使うので、酩酊と相性が悪い。それに、ゲームを続けるには体力も必要になる。眠くてゲームが出来るはずがない。

 その後、ゲーム繋がりで、この世で一番売れているとされているマインクラフトを遊び始めた。ソーシャルゲームは面白いが、無限に続けられる類のものではない。リアルマネーを注ぎ込めば遊び続けられるのだろうが、スタミナという概念や、一日に何回までしか討伐出来ないクエストなどがあるので、制限がある。一方、マインクラフトには制限がない。人生を焼べれば焼べるほど、世界が発展する。加えてこのマインクラフトというゲーム、それなりの操作性、いわゆるキャラコンが必要になる。酩酊していては上手く出来ない。また、動画などを参考に建築物を建てるわけだが、これにも脳のリソースをかなり使う。酒を飲んでいる場合ではない。日々、どのような素材を使えば効率よく建築が出来るか、建築中の時間を有効活用して素材を集めるためにはどこにトラップを作ればいいかなどを考える。酒を飲む時間がもったいない、ということがよくわかる。

 これと並行して、これはまったくの偶然だが、バーチャルライバーの配信をよく見るようになった。元々、ゲーム実況動画などを見ながらマインクラフトを遊んでいたのだが、とあるバーチャルライバーの配信を見て、妙な没入感を覚え、特別に見るようになった。今までの人生にあまりない感覚だが、現代的に言うなら「推し」の感覚なのだろう。「このゲームの実況だから見る」ではなく「この配信者だから見る」という感覚である。

 日々飲酒を繰り返し、人生に諦念を見て、他者に興味を持たず、終わり行く生命活動のデッドラインを健康被害によってこちら側へ引き寄せていた生活をしていた僕にしてみれば、赤の他人の活動に興味を示すということはほとんど奇跡に近い。これが飲酒を断ったことによる暇が成した奇跡なのか、あるいは暇潰しに近い偶然なのかはわからないが、それが奇跡にせよ偶然にせよ、起きたことには変わりがない。起こったことは事実で、それがどんなルートを通ってどんな経緯をもって生まれたかは、宇宙規模で見たらどうでもいいことだ。大事なことは起こったことであって、それが長時間継続したということ。仕方がないのでメンバーシップ登録をして、現在もちょくちょく配信を見ている。時間に縛られるのが苦手で毎週アニメを見ることすら出来ない人間が、赤の他人のライブ配信を見るために時間調整をするなどほとんどあり得ないことなのだが、長いこと生きているとそういうことも起こる。

 ともあれ、そのようにして年明けから続く冬を乗り切った頃には、ほとんど酒なしで生きられる体になっていた。そこに、飲酒を我慢している、という感覚はほとんどなかった。ゲームをし、推しの配信を日々視聴し、その行動に満足を覚えている間に、酩酊の対象はすっかり変わっていた。これで一安心、と思って、あえてその誘惑に乗ってみる。これでもう酒は大丈夫そうだ、と思ったところで、僕はやはり心配性だから、酒を飲んでみる。大丈夫だという確信が欲しいのだ。酒を飲まなくても大丈夫だからこそ、酒を飲まないと不安でいられない。

 コンビニでレモンサワーのロング缶を二本買って、推しの配信を見ながら飲酒をしてみる。

 これの苦いこと苦いこと。

 小岩井ミルクコーヒーでも飲んでいた方がよっぽど美味い。なんなら水の方がいいかもしれない。結局、一本飲みきったあたりでもう結構ということになり、二本目は流しに捨てることにした。酩酊は確かに気持ちがいいが、今はそれどこではない。マインクラフトでクソデカステーションを建築しなければならないし、推しの配信をきちんと視聴したい。酒によってその時間を奪われるのは非常に惜しい。

 そこでふと、我に返る。

 当たり前のことに気付く。

 もったいないの精神である。

 こんなことは、僕は多分、子どもの頃から知っていた。やりたい何かがある時、それを邪魔する行為は全てもったいなかった。遊び続けたいのに眠るのがもったいないし、学校に行くのがもったいないし、ご飯を食べる時間すら惜しかった。それが、酩酊による安易で安価な娯楽によって奪われていることに、いつの間にか気付かなくなっていた。否、本当は生まれが逆で、死んでしまった心にそれを気付かせないように、酩酊によって空虚な人生の隙間を埋めていただけなのかもしれない。何をも楽しめなくなった心を、無から有を生み出せなくなった人生を、酩酊という現象を口実に、騙し続けていただけなのかもしれない。酒を飲んで駄目になって、もう今日は動けない、と眠ってしまえば、何も出来ない自分を否定せずに済む。動き出せない自分を責めずに済む。一日頑張って働いて、酒を飲んで疲れを洗い流して眠っていれば、頑張れない自分に落ち込まなくて済む。

 自分を嫌いにならずに済む。

 それが唯一の愛し方だった。

 けれど、ゲームをして配信を見て、久しぶりの酒に苦味を感じた瞬間に、どうやらまだ心が残っているらしいことに気付いた。本当のところどうだかわからないが、しかしまだ、何とかなるっぽい。元からなかった才能が絶滅してしまって、もう何も作れないんだと悲観した心が、まだ何匹かいるっぽい。足跡くらいは見つけることが出来た。あとは他人に迷惑を掛けず、他人に嫌われず、共同で作り上げる社会に存在していても許されるだけの存在になろうと心掛けていた自分が、まだもうちょっとだけ続いてもいいらしいということにはたと気付く。

 当然、他の人間から見たら、特に四十歳、五十歳の人間から見れば、人生終わるには全然若くて、まだまだ頑張りどころだよという話かもしれない。けど、自分自身から見たら結構もうやることがない人生だという絶望もある。宇宙規模で見たらどうだっていい僕の人生も、僕規模で考えると大事件なわけだ。お前規模で考えれば、お前は夜な夜なスマホで動画を見ている場合じゃない。でもそうやって何かに責任を押しつけて逃げなければいけない夜だってある。自分を愛せない夜だってある。それが少しばかり長く続いただけで、もういっちょ何かしても別に恥ずかしいことじゃない。なにせ、一億年後の銀河系から見たら、僕の人生なんてどうでもいいからだ。崩れかけた人型が奮起して何かしたところで、何も恥ずかしいことではない。他人に迷惑を掛けるわけでもないのだし。


 そんな色々を考える切っ掛けがあって、つとつとと、楽器に真面目に触れ出した。

 ギターが好きで、ピアノが好きだった。楽器は、常に傍にいて、思い出を孕んでいる。弾く楽器が変わっても、あの時に必死になって練習した音楽は、離れてしまった友人たちよりも多くの思い出を共有してくれる。それをもう一度弾いてみたり、新しい曲を練習してみたり、基礎練習に日々を費やしてみたりする。一日では何も変わらない。それでも、二日、三日と続けるうちに、少しずつ心が取り戻されていく感覚がある。どうせ酩酊して終わってしまうだけの日々なのだから、酩酊が苦しい基礎練習に変わっても同じことだ。五年後の地球規模で見たって、僕の人生なんて所詮どうでもいい。世界から酒の消費量が少しだけ減って、空気の振動が少し増えるだけの違いでしかない。それを日々続けているうちに、昔出来なかったことが出来るようになっていた。具体的に言えば、ギター、特にアコースティックギターで指弾き、つまりピックと呼ばれるギター弦を弾くための道具を使わず、指だけで演奏をする場合、右手を宙に浮かせた状態で弾くと安定感が失われる。そのため、小指をギターのボディに当ててそれを軸とし、親指から薬指までの四本を使って演奏している。僕は長年これが一般的な奏法だと思っていた。けれど、そうじゃない人も多くいて、あの人たちはどうしてそれで安定するのかと不思議に思っていた。小指を軸にしなければ手は安定しない。しかし安定した演奏をする人もいる。不思議に思っていたことと、ついに戦う時が来た。

 出来ることはもう出来る。

 大人になってからもそれなりに生きて、出来ることは、もう大体出来る。

 出来ることをしているだけだから、日々に潤いがなく、人生が乾く。

 ならば出来ないことを必死になって続けてみればいい。やらなかったことをやってみればいい。酩酊による空虚な生活の代わりに、出来ないことをやり続ければいい。同じ空虚なら、どっちだっていいのだから。どっちだっていいのなら、せめて楽しい方がいい。ギターが好きだから、ギターを弾けばいい。単純なことだ。

 妙な責任感があったのだと思う。

 長年ギターを弾いていて、それなりに出費をして、値の張るギターも買った。だから弾けなければならないし、弾かなければならないという、強制力のようなものがあった。誰からも強制などされていないのに、自分自身が、自分自身をそうした。このくらいは弾けないといけない。流行の曲くらいは弾けた方がいい。色々な奏法を身に付けて、浅く広く、ギター歴に応じたスキルを持っていた方がいい。自分自身に対して、そんな期待を持って、妙な責任感に雁字搦めにされている。

 いや、そうじゃないんだ。

 お前がギターを弾くのは、ただギターを弾くのが好きだからなんだ。

 責任感から出る音は、そんなに美しくは響かない。

 出来ないことを出来るようになって、出来るようになったことを守るフェーズに入っていたのかもしれない。

 そうじゃない。

 出来るようになったことは守らなくていい。

 期待に応えなくていい。

 誰も期待なんかしてない。

 一億年後の銀河に住むドシュラント星人は、お前に期待なんかしない。

 俺はお前が楽しんでいるのが一番嬉しい。

 じゃあ何が楽しいのか。僕は何をしている時が一番楽しいのか。そんなことを考えることもせず、ギターと触れ合った。同じフレーズを延々と繰り返しながら、とにかく思考停止して弾いてみる。映画を観ながら、配信を観ながら、ずっとギターを弾く。繰り返し弾く。小指をギターのボディに当てて軸にして弾き続けると、小指が疲れてくる。ずっと押されているのだから当然だ。負荷が掛かっている。疲れてしまうから、小指を収納する。するとギター演奏は安定しなくなる。でも、小指を収納したことで、まだ弾き続けることが出来る。六弦の一フレット目を、左手の親指で巻き込むように抑える。Fメジャーセブンスから、FオンG、AマイナーのテンションコードからAマイナーへ戻すというコード進行を繰り返す。小指を収納した右手で延々とフレーズを繰り返す。次第に六弦の一フレットを押さえる左手親指に痛みが走る。けれどギターを弾き続けたい。仕方がないので、親指の代わりに中指を使う。こうすれば痛みが少ない。延々と弾き続ける。映画はもう三本目になる。まだギターを弾く。八時間近くギターを弾く。鳴っていなくても鳴り続けるほど同じフレーズを弾き続ける。

 するといつの間にか、右手の演奏は安定していた。

 小指を軸に立てなくても、安定した演奏が出来るようになった。小指の軸がなければ演奏は安定しないと思っていたが、そうではなかった。足りないのは軸ではなくて、ただ練習が足りていないだけだった。俗物的な言い方をすれば、努力が足りていないだけだ。

 僕がギターを弾けないのは、ギターの才能がないからではなくて、練習が足りていなかっただけに過ぎない。当たり前のことなのだが、自然と小指を使わずに演奏している自分に気付いた時、僕ははっとした。ああそうか、練習が足りなかったんだ。何年も何年もギターを弾いてきて、僕はやっと気付いた。僕がギターを指弾きする時に小指を立ててしまうのは、体のサイズの問題でもなくて、体幹の問題でもなくて、使っているギターの問題でもなくて、ただ練習が足りなかっただけだった。

 自分を過信していた。

 自分のことを過大評価していた。

 どれだけ練習しても上手くならない。つまり自分には才能がなくて、こんなに頑張ったのにどうして自分は報われないのだろうか、と悲観の真似事をしていた時期が確かにあったのだけれど、あまりに自分を過大評価しすぎていた。気付いた頃には右手の人差し指には血豆が出来ていて、右手の親指にはカチカチのマメが浮いていて、弦はコーティングが剥げてほけほけとしているけれど、それでもまだギターを弾いて、そうなってようやく、新しい扉を叩くに至った。

 お前全然頑張ってないじゃん。

 笑ってしまった。

 なんだよ、おいおい、全然出来るじゃん。は? 長年練習してきて、俺は本当、小指立てないと安定したリズムで弾けないんだよなー、なんて自分勝手に頭打ちして、まあ俺はそういうスタイルなんだろうなって諦めて弾いてたけど、なんだよ、ちょっと待ってよ。全然出来るじゃん。あまりに自然に、自分が憧れていたスタイルの演奏をしていることに気付いて、笑ってしまった。いやいや、ただ頑張れば出来るだけじゃん。頑張ったら出来たじゃん。笑えたし、少しだけ涙ぐんだ。

 それが全てに適用されると思えるほど、若くもないけれど。

 いくつかの物事には単純な解決策があるかもしれない。自分がやりたいのに出来ないことがいくつかあって、それはもう見るからにどうしようもなこともある。物理的に出来ないことも山ほどある。明日、急に美男美女になることはないし、身長が伸びていることもないし、声が変わっていることもない。どうしようもないことはあるけれど、努力をしてみたら変わることもあるかもしれない。その、努力という言葉は、簡単な意味合いではない。ちょっとやってみる、という意味ではない。僕は小説を書く人間だから、言葉が好きだ。言葉を書くのも、読むのも好きだ。だから言葉の持つ力というのを信仰しているけれど、ここに来て、努力という言葉の定義が少しだけ揺らいだ。「努力」と書けば、それは「努力」として相手に伝わると考えていた。けれど多分、今の僕が思う「努力」と、努力をしたことがない人が読み取る「努力」と、僕とは比べものにならないほど努力をした人の感じる「努力」は全く別物だ。

 つい先日のゴールデンウィークの間、ざっくり二百四十時間の休みがあったと仮定して、僕はその間、百時間くらいギターを弾いていた。ずっと弾いていた。血が出て、マメが出来て、弦が滅びて、チューニングが狂っているのに気付かないくらい、音を聞いていないのに弾き続けているくらい、麻痺するくらいギターを弾いていた。それは多分、今まで僕が思っていた「努力」とは違う行為だ。ただ楽しいからやっていた。ギターで好きなフレーズを弾き続けるのがひたすらに楽しいからやっていた。でもそれによって何かが変わったのなら、それは「努力」なのだろう。そしてそれによって、何かが変わった。苦痛を伴わない「努力」もある。血が出ることも、マメが出来ることも、別に辛くはない。痛みを伴わない。何故なら楽しかったから。楽しかった上に、上達もしてしまった。だから笑えてしまった。こんなことでいいのか、と思った。


 年が明けたら酒を断とう、と誓った際に、もうひとつ決めていたことがある。

 今年はしばらく、打鍵をするのを控えよう、というものだ。

 スランプと言うほど僕は立派に小説に向き合っていないのだけれど、小説を書くことに対して、責任感とか、義務感を覚え続けていた。それは何年も続いていたものだ。僕は自分自身を、小説を書く人間だと定義している。アイデンティティみたいなものだ。僕は小説を書く人間だから、日々小説を書かなければならないのだと思い込んでいるようなところがあった。誰しも自分にそういう自分を重ねていると思う。社会に属す際の役割というか、名刺みたいなものだろうか。ゲーマーでもいい。読書家でもいい。社会の歯車でもいい。恋愛体質だっていいし、傍観者でもいいし、クレーマーでもいい。正義を掲げていたって構わない。環境活動でも、健康志向でも、LGBTQでも、なんだっていい。そんな、一億年後の銀河系から見たらどうだっていい何かを誰かしら持っていると思う。誰かの熱狂的なファンであったり、推し疲れをして斜に構えてみたり、そういう精力的な活動を遠巻きに見て苦言を呈する役だったり、SNSで誰かの呟きに対して反論を言うことに生き甲斐を感じていたり、流行とは真逆の存在で居たがったり、バズった何かに乗じて上手いことを言ってささやかな反響をもらったり。誰しもにそういう、自認がなくても役割がある。僕の場合は自認があって、それが小説を書くという行為だった。こんなにギターの話を長々としておいて、僕自身は僕のことを、ギター奏者ではなく、小説を書く人間だと思っている。不思議なものだし、自分でも不思議だと思う。こんなにギターを弾き続けていて、新しい扉を見つけてノックまでしたのに、それでもまだ自分を小説を書く人間だと思い込んでいる狂人なのだ。

 そんな僕だけれど、だからこそ、なのか、小説を書く行為——つまり打鍵を控えようと年始めに誓った。なんでかはわからない。小説を書くことに疲れたのか、小説を書かなくてもいい自分になりたかったのか、違う自分になりたかったのかはわからない。ただ、今年は酒と一緒に控えようと思った。それで、小説を書かなくても大丈夫な自分になれるなら、もう小説は書かなくてもいいかと考えた。結構、小説には人生を救ってもらった。読者としても、作者としても、小説は人生を大きく支えてくれた。僕の空虚な学生生活を救ってくれたのも、社会に紛れ込んでからの劣等感に苛まれる日々も、小説が傍にあって、今も傍にあって、それに支えられてきた。個人的にはいい年になってから本を出版させてもらえたのも、良い記念になったし、人生の支えになった。ライトノベルから入った僕からすると、三十歳前後でデビューというのは遅咲きという印象がある。一般文芸では全く異なることはわかっているけれど、やはり最初の導入が漫画賞やライトノベル賞である僕からすると、遅咲きだったなぁ、と感じてしまう。それでも小説に塗れた人生の分岐点というか、ランドマークを建てられたことは光栄だった。一区切りついたというか、よく頑張ったな、と感じる。十年近く小説を書いて、晴れて本屋に自著が並ぶという経験をして、うん、よく頑張った、お前にしてはよくやったんじゃないと自分を褒めてやりたい気持ちだ。

 だからもう、義務感から解放されて、別の人生を進めばいいんじゃないか。多分やりきったんだろうし、小説とは無縁の、社会人としてのお前の人生は、割と軌道に乗っている。高卒無資格未経験のお前が泥棒みたいに紛れ込んだ会社でそこそこの評価を得て、人並みに暮らしていけるだけの収入を得ているのだから、もう小説は一区切りとして、まあたまに趣味として書くくらいにして、あるいは一切書かずに、別の人生を歩めばいいんじゃないか。別の人生ったって、全く異なる人生なわけじゃない。人生は地続きで、それでいいじゃないか。ただ、小説を書かなくなるだけ。読者としてのお前はずっと続くし、消費者として生きていくだけ。ゲームをして、配信者の活動を推して、たまに酒を飲んで、ギターを弾いて、仕事をして、生きていけばいい。

 お前はよくやったよ。

 頑張った。

 本も一冊出してもらえて、良かった。

 頑張ったよ。お前の努力は実ったじゃないか。

 ……努力?

 そこではたと考えるわけですよ。

 変な体験をしてしまったせいで、はたと考えるわけです。

 ああそうか、まだ努力してもいいのかもしれない、と。

 変な成功体験のせいで、僕の人生の歯車がまた大きく狂い出すのです。努力と思わない努力のおかげで、長年の悩みだった奏法が解決してしまったせいで、僕はまた考えるのです。まだ努力してもいいんだ。おかしいのはわかっていますし、もう勘弁してくれって自分自身は悲鳴を上げているんですけれど、内なる自分はこう言うわけですね。

「お前が今まで努力だと思っていた行動って、なんでもないんじゃない?」

 ってさ。

 これはだから、新しい路が開けたとか、活路を見出したとか、光が差したとか、そういう話ではないんですね。そうですね、たとえて言うなら、ゴールドラッシュ時代、あらゆる鉱山を掘り尽くした男がいたとしましょう。金鉱を見つけて大金持ちになるのだと息巻いて、あらゆる鉱山を掘り尽くして、もうこれ以上は無理だ、諦めよう、よくやったよ、と自分を慰めている男に、悪魔の囁きが入るわけです。

「地下に埋まっているって話もあるらしいよ」

 じゃあもう掘るしかないじゃん。

 横には掘り尽くしたんですよ。いや、掘り尽くしたというほど掘り尽くしてもいないのかもしれない。それでも、自分が思いつく限りは試したんです。でもさあ、地面掘ってもいいんだって。ワンチャン金出てくるかもしれないって。じゃあ掘るか……ってなるじゃないですか。掘ってもいいって言うんだもん。書いてもいいって言うんだもん。それって別に何にもならないかもしれないけど、まだ何かあるかもしれないって囁くんすよ。

 もっかい掘ろうかなって。

 だって掘るの楽しいんですよ。

 狂ったように楽しむことも、また何かを得ることに繋がるということを、久しく真面目にゲームに取り組んで理解して、そしてそのただ楽しむことで起こる変化というものを体験してしまって、絶滅したかに思えた心の、まだいるかもしれない数匹の足跡どころか、羽毛くらいは見えてきてしまって、ああそう、じゃあもっかい……やる? 何にもなんないかもしんないけど……別に宇宙規模で見たらどっちだっていいし。酒の消費量が少しだけ減って、どこかにある小説投稿サイトの管理するDBのディスク容量を少し削るだけでしょう? だったら別に、好きにすれば? もう……あなたの好きにしたらいいじゃない。毎日酒ばっか飲んで大の字で寝てイビキかいて寝てるのも、寝不足になりながらキーボード必死に叩いて文章書いてるのも、どっちだって同じなんだから。

 じゃあどっちが楽しいの。

 どっちの方が自分を愛せるの。

 大変かもしれないけど、疲れるかもしれないけど、苦い液体飲んで酩酊して眠っちゃうより、活動してた方が楽しいし、そうじゃなきゃやってられないんだから、じゃあもうそうすりゃいいじゃん。

 もしかしたら金が見つかるかもしれないんだし。

 じゃあ、そうすれば。

 もう好きにすれば。


 そういうわけで、晴れて打鍵の禁を解いて、縦書きで文章を書くという行為を約半年ぶりくらいに行いました。これをね、トイレにも行かず、一度も席から立たず、ずーっとやっているわけです。楽しいんでしょうね、本当に。好きなんでしょうね。何度も何度も思いましたよ、過去から。何度も何度もこの悩みに衝突しては、何度も何度も繰り返している。それでもやっと、やっと解放されるかと思ったのですよ。酒を断ち、ゲームをし、推しに出会い、音楽に浸かり、ゲーミングPCなんか買っちゃったりして、麻雀について真面目に考えたりして、仕事で使う資格の勉強したり、あるいは趣味でやっている音楽制作のソフトウェアをいくつか買ったり、様々なことに興味を示して、ただ生きることを肯定仕掛けたところで、また捕まった。捕まって、やっぱり心配性の僕はやってみるわけじゃないですか。酒はもう飲まなくて平気になってきたら飲んでみよう。やっぱり苦いね、で諦めがついたわけですよ。飲まなくても大丈夫だって。で、じゃあ小説はどうかな……打鍵はどうかな……っておっかなびっくりしながら、今こうやって、椅子に深く腰掛けて、テキストエディタを開いて、キーボードを構えて、書き始めたわけですよ。ずーっと書いているんです僕は。音楽も聴かず、動画も流さず、飲まず食わずでずーっと書いていて、かれこれ一万二千文字も、どうでもいい文章を書いている。

 逃れられないかもしれない。

 でもまあ、逆に諦めがついた。

 無理だわ。

 もう無理そう。一生文章書いて生きていくしかないんだ。

 諦めよう。

 おっかなびっくり、必死に斜に構えながら小説を書いて、なんとなく生きていたけれど、楽しいように楽しめばいいんだよという謎の肯定を得て、もうじゃあいいんじゃない、好きなだけ書けば。体に悪いわけでもないんだし、お金が掛かるわけでもないんだし、そもそも宇宙規模で見たらどうでもいいんだから、悩まずに書けば。

 そうですね。

 まあそういう、そういう意思表明でもないんですけれども、なんで急に小説を書かなくなったかと思ったらまた急にやり始めたのですか、という感じもあるので、通過点としてというか、経過点としてというか……栞みたいに、ここに挟んでおきます。

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