髪を切ったら

綿来乙伽|小説と脚本

髪を切ったら

「先生、髪切らないの?」


 中間テストが返却されてからもう二週間が経っていた。放課後、私は先生を見ながら、時々物理のテストを眺めながら、部活動ではしゃぐ生徒の声を聞いていた。先生はいつも、長期休み明けに行なわれる頭髪検査には出席しなかった。先生は真面目だけど、先生の頭髪では、生徒の清潔さに言及することが出来ないからだ。特に前髪は立派なもので、顔が全面隠れて簾のようだった。


「切らないとなー、とは思ってる」

「なんで切らないの?」

「時間が無い」

「じゃあこうして放課後残るのやめたら?」


 先生は私の席に近寄って、私の顔に前髪を寄せた。私の眼鏡が無かったら、先生の前髪は私の瞳の中に入って、一生私のものになったかもしれない。


「テストで赤点、追試、再追試、再々追試の生徒がいなかったら、今日は美容室に行けたかもね」


 先生は教卓に戻って肘をついた。


「問題が難しいの」

「平均点90点だよ?簡単過ぎて平山先生に怒られた」

「なんで怒られるテスト作っちゃうの」

「毎回毎回赤点取る生徒が一人だけいて、その生徒が赤点を取らないように作りたいから」

「……無理なのに?」

「無理なの?」

「物理は苦手なの」

「物理なんて受験にいらないのになんで取ったのよ」

「……なんで物理いらないって知ってるの」

「なんでなんでって、子供だなあ」


 先生の大きなため息が好きだった。その息だけは、私のためだけだと思えて口角が上がった。


「高坂が物理を選択したのは田崎先生の授業を受けたいだけであって、物理で赤点を取らないように頑張ることは無いですって言われたから」


 高坂。私の苗字だ。正確に言えば、私の母の旧姓だ。十年前から何度も呼ばれているその苗字が、先生から呼ばれるとなんだか特別な名前に思えた。


「ねえ先生」

「ん?」

「好き」

「うん」

「うんじゃなくて」

「うん」


 先生が教卓に向かって頭を下げる時、先生の前髪が、邪魔をして眠そうな目も、髪が長い割に整えられている眉毛も、綺麗な鼻筋も、消えてしまいそうな薄い唇も、触れたくなるような顎のラインも、全てを隠してしまう。私はその度にかがんで先生を見つめて、私の前から先生がいなくならないように努力した。でも先生の前髪は屈強で、私が数センチ動いたところで、先生を掴んで離さなかった。まるで、私から先生を守るように。


「先生」

「ん?」

「髪、切ったら似合うと思うよ」


 先生の前髪が上がった。先生が、私の前に現れる。


「再々追試終わり。帰るよ」


 先生は私の問題用紙を取り上げて教室のドアに手を掛けた。


 帰り道。まだ明るい空に、大きな月が顔を出していた。夕方に現れる月は、夜と違ってまだ薄い光を放っている。夜になるにつれて段々色が濃くなり存在感を放つのに、今にも消えそうな儚い雰囲気を纏っている。いつもいるのに、いつかは消えてしまいそう。そんな月が羨ましかった。


 ***


 私は月になりたかった。


 半年前。私はアルバイトの帰りに、綺麗に咲いている満月を見ながら、いつもは通らない道を通った。いつだって通る人を光の渦に巻き込む近道とは違って、静かで暗い、花や草の為の道だった。愛していた彼の右手と、知らない女性の脚が見えたのは、今にも暗闇に飲み込まれてしまいそうな路地裏だった。そのまま飲み込まれてしまえば、私は今こんな想いにはならずに済んだと、彼と女性と路地裏を憎んで私は走り出した。

 この先にどんな道があるのかを知らずに、いつもと違う道の先に、いつもの道があることを信じて走った。学校からアルバイト先、アルバイト先から自宅を真っすぐ繋いでくれた道に戻りたかった。彼との出会いから、彼が他の人と私は違うと言って新しい世界に連れ出してくれたこと、彼といることで周りの人間よりも成長していると思えたこと、全てが走馬灯のように私が走る速度と同じ速さで再生される。私はいつも新しい世界に行きたかった。いつも、をつまらない世界だと思っていた。古びた教室も、流行りのアニメやドラマやSNSで騒ぐ生徒達も、私には要らないと思っていた。でも今は、日常に戻りたいと声をあげながら走っている。

 私は大人になれなかった。私はまだ大人じゃなかった。たかが成人に好かれていたからといって、自分が大人になれているわけではないことを知った。

 無我夢中で走って、どこだか分からない、小さな公園に着いていた。周りにビルもなく、どの住宅も眠りについていて、満天の星空が見えた。私は公園のベンチに座り、小さい頃祖母の家に泊まり初めてたくさんの星を見た時のことを思い出した。


 私は恵まれているのか、乏しくさせられたのか、私の家からは星が見えない。その代わり、夏休みの夜に祖母と見る星空が、私にとっての星空だった。


「ばあちゃん家の星は多いね」

「芹の家の星は少ないか」

「うん。うちには星、無いかも。近くのビルの方が明るいから」


 空に無数に輝く星は、自宅のベランダからは見えなかった。たくさんのビルやマンションに囲まれていて星程の光は打ち消されてしまうのだ。ただ生きているだけ、ただそこにあるだけでは、もっと光るものに負けてしまう。見向きもされなくなってしまう。そんな星が、私は好きではなかった。


「月なら、うちからでも見える」


 私は月を指さした。月はどんな場所から見てもちゃんとそこにいた。なんなら昼でも見えるくらい、唯一無二の物だ。私は、何かで妨げられる星より、たった一つしかない月になりたかった。


 私は公園の星空を見つめ、涙を流した。


 ***


「あれ」


 日頃の行ないが悪く、机に伏せていた私を誰一人起こさないまま五時間目が始まっていた。チャイムが鳴ったのには気付いていたけれど、月に一度の体調不良も相まってあまり立ち上がる気にはなれなかった。いやそんなのはただの言い訳で、失恋に似た喪失感に心を持っていかれただけだ。それも言い訳か。誰に伝えるわけでもない言葉を脳内で勝手に作り上げて、勝手に提出した。


「寝てるの?」


 誰かが私の目の前に座った。私は顔は窓の外に向いたまま、瞼だけを起動させた。前の席の椅子が引かれ、誰かが座る。前の席の佐々木君、何か忘れ物をして帰って来たのだろうか。佐々木君にしては声の低さが大人だと気付いていたが、知らないふりをした。


「寝てません」

「何してるの?」

「外を見ています」

「……目瞑ってたよね」

「……心の目、と言いますか」

「五時間目って物理じゃなかったっけ。皆は?」


 私は顔を上げた。


「……体育じゃないですかね」

「……ああ、授業変更か」

「いつもと、同じです」

「……そう」


 彼は急いでファイルを取り出した。何ページか開き、度の強い眼鏡の中の瞳が文章を吸収するように蠢いている。


「体育、行かないの?」

「先生こそ、違うクラスで物理なんじゃないですか」

「僕は君の体育を心配してる」

「私は先生の失態を馬鹿にしてます」

「……今日は授業無いみたい」


 私は笑った。恋人だと思っていた大人になりきれない男に振られて、初めて笑った。


「君も授業出てないから」

「先生と生徒一緒にしないで下さい。それに私は、体調が優れないだけです」

「それはその、ホルモンバランス的な」

「……え?」


 先生は私を見つめていたけれど、馬鹿にしている訳では無かった。私は先生のことを馬鹿にしたのに、私に仕返ししたって良いのに、先生は真剣な表情で私を見ていた。


「優しいですね」

「え?」

「言葉の配慮。生理って言わせないようにしてくれたんでしょう。……言っちゃったけど」

「……妻に言われてるんだ。女性全員が、私みたいだと思ってはいけないって」

「どういうこと?」

「妻が生理期間に入る時は、一緒に暮らしている僕が気付けないくらい元気なんだ。彼女曰く、自分は量が少なくて、具合も悪くない、所謂、重くない、だそう、で」


 先生は私を見た。私は頷いた。


「人の考えや生き方が人によって違うように、生理状態も人によって違う。だから、私と同じ人も、私と違う人もいる。全員に配慮出来るような人でいて欲しいって」


 先生の声は途中から聞こえづらくなっていた。饒舌に喋る自分を恥ずかしく感じたのだろうか。最初見えていた先生の目は口は、先生が俯いたせいで前髪で隠れてしまっていた。


「でもこれだけ喋っていたら、配慮なんて全く出来ていないね。また怒られるな」

「どうして?生徒との会話なんて、隠していたらいいのに。そしたら怒られないよ」

「隠したくないんだ。妻にはなんでも話したい。初めて会う女子生徒にべらべらと話してしまったことも、また授業時間を間違えてしまったことも、前髪が伸びてきたことも」


 長い前髪から、先生の口角が上がったのが見えた。ああ、この人は奥さんのことを愛しているんだ。先生の考える「愛」とは、自分の成功も失敗もオチが無い話も、愚痴も、どんな話でも気兼ねなく話せる人のことを言うんだ。自分の格好なんてどうでも良い、自分の生きてきた証を認めてくれる人が、先生が愛を伝える人なんだ。

 私は涙を流した。先生のような人、先生の奥さんのような人に、自分はなれないし出会わないような気がしてしまったからだ。互いを思い合えるような関係性を、私は誰とでも築いたことがない。


「保健室連れて行くよ」

「え?」

「泣くほど具合悪いんでしょ?」

「あ、いや、違います。……私も生理は軽い方で、もう、終わるし」

「……そうなんだ」

「私は、月になりたくて」

「月?」

「一つしかない月に、儚くて、いつか消えてしまう月になりたかったんです。でもなれなくて、私はただ、ビル街に見える星の一つでしかなくて、月には負けて、ビルの明かりにも負けて」

「月とか星って、そこまで綺麗かなあ」

「え?」

「僕は風情が無いのかもしれない。外に出たり上を向くより、室内にいて下を向いている時間の方が多いからかもしれない」


 先生は立ち上がった。


「僕は星より、月より」

 先生は、ポケットから出した粉々のチョークを見せた。先生の手は蛍光の黄色で溢れ、小さな風が起こした竜巻が先生の右手を包んで、白いシャツを黄色に染めた。


「こっちの方が綺麗だと思うんだ」


 右手を見つめた先生は、風によってほとんど無くなってしまったチョークの粉を見つめた。


「粉しかない」

「見て」


 先生の手は、まだ蛍光の黄色だった。


「一度必要だと思って手に取れば、ずっと近くにいる。色だって明るいし、蛍光色ってどこで見ても光ってる。君のいう、誰かに負ける、なんてことはないんだ」


 先生は手を結んで、開いた。チョークの粉が舞うのを見ている先生を、私は見ていた。


「いつでもそばにいてくれる人がいるって、どれだけ幸せなことか。儚げで、いつも半透明で、いつかいなくなってしまう、目の前から姿を消してしまうと毎日考えていては、人生疲れっぱなしだよ。僕は好きな人には、ずっとそばにいて欲しいよ」


 先生は、蛍光色に染まった手を私に差し出した。今思えば、先生はただ黄色に染まった手を見せつけていただけなのかもしれない。だが、私はまだまだ子供で、知らない女性と夜を共にしていた好きな人が私といた時の真理や、先生が手を見せた意味を理解することが出来ない。理解したくもない。私はまだまだ子供だから、自分勝手に、自分自身が良いように解釈して良いはずだ。私は先生の綺麗な黄色の手を引っ張り、先生と視線を交えた。先生は私の目を真っすぐ見て、私は先生の目と前髪を真っすぐ見た。ああ私はまた、何をしようとしているのだろう。先生の手を離すことなく掴み続け、反対の手で先生の前髪を掬った。


「前髪」

「え?」

「切った方が似合うと思いますよ」

「そうかな。まだいけると思う」


 風情がない先生を、私は面白いと思った。そして、私がなりたかった月のようだとも思った。唯一無二、先生は私の唯一無二になって、気付けば三年で、受験に必要のない物理を選択していた。


 ***


 三年の秋になった。


「芹」


 真子は私の隣に座った。確か隣は佐々木君だったはずだけど、今日は風邪を引いたと聞いた。私は彼女の気配を隣に感じながら、反対の窓側に顔を向けていた。


「窓の外、楽しい?」

「楽しくない」

「そう。自ら楽しくないことするなんて珍しい、物好きね」


 彼女は佐々木君の椅子に座り、私の机に頬杖をついたようだ。私の肘の面積が少しずつ失われていくのが分かり、私はようやく顔を上げて彼女を見る


「浪人、するかも」

「浪人?」

「上手くいかなかった。今までの頑張り、発揮出来なかった」


 彼女はついに私の肘を蹴って、机につっぺを始めた。


「一般でも同じ大学受けるの?」

「うん」

「そう」

「親友だけどね」

「ん?」

「私は芹と親友だけど。励ましてくれても良いと思うけど」

「励ますって、まだ決まってないんでしょ。それに、大丈夫だから。真子頑張ってたから」


 彼女は勢い良く起きた。私の反射神経が無かったら、私の顔は血だらけだ。


「田崎ならもう帰ったよ。今日は早退」


 私は彼女の顔を見つめる。


「え?」

「担当物理だし、窓の外には到底いないけど」

「五時間目は?」

「自習」

「嘘……」


 先生の授業がないだけで、私の焦点は合わなくなる。先生がいなくても、先生がこの校内にいると認識出来ていれば私の集中力は上がる。先生が目の前にいて、何にも理解出来ない授業をしている時は、心臓がよく動き、生きている心地がする。先生の存在が、今日の私の生死を決めている。今日は、心肺停止だ。


「なんで帰ったの」

「病院だって」

「どこか悪いの?」

「知らないの?田崎、パパになるの」

「パパ……」


 高校の天井は、タイル毎に不規則な柄が敷き詰められていた。よく見ると、不規則な柄も規則的に並んでいるタイルのせいで規則的な柄に見える。廊下も体育館も調理室も第二理科室も全部同じ天井だっただろうか。天井なんて見たこと無かった。新たな発見があった。これも先生のおかげかと、現実から目を背けた。


 それから先生は、しばらく学校を休んだ。元々育休の申請をしていたらしく、初めての男性教員の育休申請と卒業式の準備で、職員室の人間はいつも忙しなかった。一方で、進路が決まっていた私は時間を持て余すようになった。先生のことを考えることでしか時間を費やしていなかった私は、先生がいない時間の使い方すら忘れてしまっていた。


 ***


「学校はどうしたの?」


 私の頭の中、想像の中で先生と会うことにした。私は病院の中庭でサンドイッチを食べている先生を見つけて話しかけた。先生は私を目視せずとも、自分の科目で再々追試を受ける生徒だと気付いていた。そんな先生は二つ目のサンドイッチを見つめながら私に語り掛けるのだ。こんな妄想がもし本当になるのなら、先生は自分のことより私の授業態度に疑問を持つだろう。決して自分や奥さんのこと、これから生まれる先生の分身のことには触れない。むしろ何事も無かったかのように振舞うのだろう。そして私はそれに甘えることが許されるのだろう。

 だがそれが出来なかった。この教室を飛び出して、先生に会いに行く勇気が無かった。体育の後、静かに受けている現代文の授業。窓の外を眺めて、たまにやってくる烏や鳶を見ることしか出来ないこの空間に、私の生きる意味は無かった。先生に会って、先生の目を見つめたい。そのことにしか目を向けられないのに、そこに向かえない。ずっと前まで大人ぶっていた私は、今はただの弱虫だ。

 私は名前を呼ばれながらも、机から零れ落ちた生気を拾わずに眠りについた。季節は秋を過ぎて冬を迎えようとしていた。長期休みの頭髪検査をサボる先生は、学校に来ることも無かった。


 ***


 卒業式は、いつもと変わらない風景から始まった。玄関のドアを開けて上靴に履き替え、階段を上る。私達の学年が三年間変わらず職員室と同じ二階に籍をおかれたのは、どんなに歳を取っても誰一人言うことを聞かない生徒ばかりだったからだと噂が流れていた。私は階段を上り、二階の三年一組の教室に入った。


「おはよう」

「おはよ」


 親友との挨拶、お調子者のギター演奏、古びた木製の机、窓側の席にしか分からない外からのそよ風。全てが今日、終わりを迎える。いつも通りに見えた今日も、明日にはもういない、元通りにもならない。私はこの空間を、惜しみなく利用することが出来たのだろうか。


 体育館には少しばかり風が吹いていた。通路側の一番端に立っていた、三年一組の女子生徒だけの特権だったのかもしれない。私は涼し気な風に吹かれながら、合図に合わせて立ち上がったり、もうどれだけ汚れても構わない制服のスカートの皺を気にして座ったりしていた。


 教室に戻って、そこには誰もいないことを知った。多くの生徒は保護者は学校から出てお祝いに出掛けて行き、職員はそれを見送った。私の母は仕事で来られないし、今更それを嘆くことも無かった。私の中で、母はそういう人であり、今までもそれが当たり前だったからだ。私は教室の窓を開けて、最後まで私の場所でいてくれた自分の席に座った。窓の方を向いてつっぺをした。私の体を包むように風が吹いた。今日は寒くもなく暑くもない。体育館に全校生徒が集まるには丁度良い日だったのかもしれない。これが小春日和というのだろうか。


「今日は小春日和とは言わないよ」


 聞き覚えのある声。それでも私は振り返らなかった。私が一番好きで、今一番聞きたくない声だったからだ。


「寝てるの?」

「寝てます」

「あれ、寝てないって言うのかと思った」


 その声は段々と私に近付き、私の前の席、佐々木君の席に座った。


「小春日和は、晩秋から初冬の間のことを言うんだって」

「晩秋……初冬……」

「秋から冬になるまでに、ちょっと涼しい時ってあるだろ?なんだか過ごしやすいな、これ以上暑いのも嫌だし、寒くなるのも嫌だな。丁度良いなって思う時。それが小春日和」

「よく知ってますね」

「子供の名前、心春にしたんだ。十一月に産まれたから」


 彼の声色が変わった気がした。彼は十一月にパパになったのだ。


「良かったですね」

「良かった?」

「子供、産まれて」

「ああ、うん」

「嬉しくないんですか?」

「嬉しいよ?でも君に褒められるのはなんだか気が引けるだけ」

「どうしてですか」

「何かしでかしそうで」

「失礼な。今日で高校生活最後なのに」


 彼の背筋が伸びた気がした。窓から差し込む風を全身で浴びているのだろう。伏せたままの私は彼の姿を風の動きでしか確認しなかった。


「育休じゃないんですか」

「そうだけど、卒業式だから」

「先生一年の担任でしょ」

「物理は三年もやってたでしょ?」

「まあ」

「少しでも関われたから、卒業するの見送りたくて。それに」

「それに?」

「君が卒業するから」


 私は顔を上げて、彼を見た。彼は長かった前髪を切って、真っすぐ私の目を見た。私は驚いて目を見開いた。


「どうした?」

「前髪……」

「切ったんだ。前髪」


 先生の笑顔が真っすぐ見える。先生の目、鼻、口、全てが見える。


「どうして」

「卒業式くらいはさ、切った方が良いって」


 先生の顔が赤らむ。見えなかった素顔が鮮明に見える。


「妻に言われたから」


 今まで優しかった風が、突然強く吹いて端に避けていたカーテンを飛び立たせた。私はその風に感謝した。私のとりとめのない感情を、一瞬で消し去ってくれたからだ。ああ、やっぱり先生には一人しか見えてなくて、そして十一月にもう一人増えて、それが先生の幸せなんだ。私が前髪を切ったら似合うと言ったこと、私が先生を好きだと言ったこと、全てを今日、この教室において去って行く気なんだ。私は先生の中で生き続けることなく、ここで終わりを迎えるんだ。いつも通りがいつも通りでは無くなる今日。そんなことどうでも良いとさえ思っていて、この世の変化に別れは付き物だと割り切ったつもりだった。それは、先生に限っては、私が私についた嘘だ。


「卒業おめでとう。高坂芹さん」

「先生」

「何?」

「最後だから、お願い聞いてくれますか」

「……うん」

「私が似合うって言ったから、切ったことにしてくれませんか」

「え?」


 先生、先生がここで私との最後を望んでいるのと同じように、私も先生と、先生という思い出とさよならを告げたいと思っています。先生、私は先生が好きです。


「君が髪を切ったら似合うって言ったから、君が卒業する今日、髪を切った」


 私は笑った。これで最後だ。

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