第6話

    《6》

翌日、僕は会社に行った。僕が行った時には、ふたりの事務員が事務所の片付けをしていた。彼女たちは主だった書類だけをシュレッダーに掛けて廃棄していた。もう、会社としては無くなってしまうから、後は業者が入るのでそのままでいいとの事だった。彼女たちは、苅野の口利きで、それぞれ近くの事務所に移転することが決まったのだ。彼らしい素早さだ。

僕も主だったものだけ廃棄し、資料になるものは、鞄に入れた。

それで、終わりだった。呆気ないものだなと僕は思った。10年と言う時間、僕たちは真剣に仕事に打ち込んで来た。だがこうしてその終わりが来てみると、何と時間は早く過ぎ、思い出は儚いものなのかと思う。あの日々に、僕たちが確かに存在していたと言う証は、いったい何処に行ったのだろう。何日か後には、ここはもう無いのだから。僕は、取り敢えずデスクの整理が終わると、彼女たちにさよならを言った。彼女たちも名残り惜しそうに、さよならと言った。それから事務を担当していた女の子が、またみんなでディズニーランドへ行きたかったですと言った。すると、受け付けを担当していた女の子が、何時ディズニーランドへ行ったのと聞き返した。あなたは急にお葬式が出来て来なかったのよと、事務の女の子答えた。

(でも、わたしは、いかなかったのね)

私は行かなかったのねと、受付けの女の子は言った。

僕は、事務所を出た。さあ、僕はどうしよう。僕はポケットの中で携帯を握りしめた。携帯が少し震えた様な気がした。バイブの時の着信のように。でもそれはたぶん、気のせいだったのだろうと思った。

(でも、わたしは、いかなかったのね)

僕は気の向くまま車を走らせた。町中を抜け、縦貫道から高速道路へ入った。高速道路は充分に空いていた。僕は思いっきりアクセルを踏み込んだ。どうしても、踏み込みたい気分だった。追越し車線を走り、何台かの車に追いついた。追いついたら僕はウインカーを左に出し、アクセルをいっぱいに踏み込んで抜き去ると、追越してすぐ右側車線に入った。追越した車は見る間にバックミラーから消えて行った。ターボエンジンはフル回転した。頭の中にチラッとパトカーが浮かんだけれど、僕はアクセルを踏み込み続けた。あっと言う間に県を跨いだ。それでも僕は走り続けた。車内にスピードの警報音が鳴り続けていたが、僕は無視した。

(でも、わたしは、いかなかったのね)

僕の胸は彼女でいっぱいだった。自分が今車を運転している事さえ、忘れそうだった。もう県境が近付いていた頃、道路が混み出して来ていた。電光掲示板がこの先のトンネル内で事故があった事を知らせていた。


そのせいで、片側交互通行になっているらしかった。僕はその手前のインターから、一般道へ降りた。国道は高速の事故を回避する車で少し混んでいた。僕は疲れていた。急に昨夜見た夢を思い出したのだ。どうにもならない夢だった。夜中に目が覚めて、そのせいで僕は殆ど眠れなかったのだ。高速を飛ばし続けた緊張感の反動もあってか、酷い疲れだった。僕は体を休めたかった。山越えをする気にはならなかったから、僕は直進せずに左折して、海沿いの道に入った。山に入るより、海沿いの景色の良い道の方が、何かしらの店があると思ったのだ。

(でも、わたしは、いかなかったのね)

しばらく、海岸線を進んだけれど、飲食店等の店は見当たらなかった。点々と古い漁村の家並みが続いるだけだった。海が近かった。どの家も、空き家のように見えていて、屋根には錆が目立っていた。くすんだ壁が寂れた色を強めていた。このまま進んでも飲食店はありそうも無かった。空は暗く、雲は低く重そうで、今にも雨が降り出しそうに垂れ下がっていた。

僕は、反対車線側に飲物の自販機があるのを見付けた。自販機を見たせいか、僕は喉が乾いている事に気が付いた。少し通り過ぎてから、僕は車を左側に寄せて停めた。停止ランプを付けて、後ろを注意しながら車を降りた。どちらからも、車が来ていない事を確かめて、道路を渡った。渡ったその前が丁度民家のブロック塀になっていた。やけに高いそのブロック塀は傍で見ると黒ずんでいて、所々欠けていた。中は見えなかった。見るからに古い塀だった。ふと、目の前のその塀に、鮮やかな色彩のポスターが貼ってあるのに気が付いた。横1メートル、縦2メール程もある大きなポスターだった。鐘ケ崎の夕景と書いてあった。沈む夕陽に映る奇岩が黒く影となって、海の中に佇んでいるとても美しい風景のポスターだった。誰もが行ってみたくなる様なポスターだ。下の方を見ると地図が載っていた。どうやらそこは山を越えた西の海岸にあって、そこへ行くルートが2つ書いてあった。僕はその圧倒的な美しさに惹かれた。僕はそこへ行ってみたいと思った。僕は飲料水を買ってから、ルートを確かめてみた。Aルートよりも、Bルートの方が短時間で行けそうだった。僕は携帯で、西方の天気を見てみた。多少の雲はあるけれど、おおかた晴れているようだった。

僕は車を反転させて、Bルートへの道に向けてハンドルを左へ切った。

国道から折れて曲ったその道はアスファルトで舗装されていて、両側に細い溝が通っていた。左側には道に沿って沢が流れ下りていた。右側には民家が途切れる事も無く続いていたが、どの家も塀が高く、家はその塀に阻まれて殆ど見えなかった。塀はどれも同じ様な古いブロックでできていて、浅黒く苔が表面を覆っていた。家と家の間は隙間と呼ぶ方が適していた。風がやっと通り抜けるくらいの幅だった。その向こうは急峻に山が盛り上がって行き、深い森へと続いていた。道は車がすれ違うには少し狹く、センターラインは引かれていなかった。そう言えばあのポスターを見付けた辺りから、1台の車もすれ違ってはいなかったし、人の姿も見ていたかった。僕はその道をゆっくりと運転して行った。周りに何かしらの気配を探る様に。でも、そんな気配は何処にも感じられなかった。すると前方に、切石で組まれた短いトンネルが見えた。でもそれはトンネルと言うより橋だった。近付くとどうやらその上は道になっている様だった。その石橋も古く、古代の遺跡の一部のように見えた。シダ植物が茂り、苔に覆われて、長い間人の手が入っていないのが解った。

そこを抜けるといきなりブロック塀が視界から消えた。下草が刈られた浅い森の木立の群れがくっきりと見えていた。

その中に、小さな新しい家が数軒建っていた。まるで、今建てられた様な佇まいに感じられた。その家の前は手頃な広さの庭になっていて、その庭は芝生で覆われていた。小さな自転車や、子供用の三輪車がその庭に置かれていた。でも、それだけだった。窓に灯りも無かったし、子供の姿も見えず、声も聞こえては来なかった。僕はゆっくりとそこを通り過ぎると、アスファルトの道は終わって、軽い上りの山道となった。僕はバックミラーを見た。そこに見えたのは不思議な事に、深い森の風景だった。あの真新しい家は一軒も見えなかった。道は右へ円を描く様に回って行ったから、角度がずれていたのかも知れない。ゴツゴツとした土の感触が、タイヤから伝わって来ていた。どうやら道は円を一周しているようで、さっき潜った石橋の上を通った。その石橋から山道は真っ直ぐ西へ伸びていた。地図にあった道は一本道だったから、間違ってはいない。少し行くと左側にバス停があった。待合いがあって、その中にベンチがあった。

バス停の向こう側にサークルの様な空地があった。その向こうに、木立を通して海が見えた。どうやら一周して、岬の上へ出た様だった。

僕はそのサークルに車を入れてエンジンを切った。僕は何かが噛み合っていない様な感じがして、車から降りてみた。そこの空気を吸ってみて、匂いを確かめた。僕の周りにある物、僕が見える限りの物を感じてみた。車は車であり、山道は山道だった。木々は木々であり続けていたし、海鳴りは海鳴りでしかなかった。

僕はそのバス停の待合の椅子に座った。ふと気付くと、それらはやけに新しいのだ。バスの時刻表までが新しかった。まるでそれらはさっき何処かで作られて、今持って来てそこに置かれたと言う様な感じだった。その時僕はそのサークルに、車がUターンしたと思われる轍を見付けたのだ。もちろんそれも、今付けられた様に新しいものだった。僕はその待合の中で椅子に座って体を休めた。その場所の空気は重く、僕の両肩にずっしりともたれ掛かかっていた。空は厚い雲に覆われ、雨こそ降ってはいないものの、辺りは薄暗く何時降り出してもおかしくは無かった。僕はずっと奇妙な感じがしていた。僕の意思がぼくのものでは無いような、誰かがそっと僕の前を歩きながら招いている様な、そんな感じだ。その場所は僕に遥か遠い記憶を思い起こさせたのだ。記憶の奥にある記憶、僕の知らない記憶のようなものを。様々な断片が見えた。その断片は一瞬煌めいて、彗星が消えるように、暗い深淵の中へ素早く吸い込まれて行った。時々見えるその断片の表情はやはりどれも知らないものばかりだった。僕はもう、鐘ケ島に行く気持ちは失せていた。僕はやっとの思いで立ち上がった。そして待合の壁に手を付いた。待合が少し揺れたみたいだった。僕は重い体を引きずる様にして車へ戻った。そしてドアを開けた時、一粒の雨が窓を打った。それは見る間に激しくなって、ボンネットを叩いた。僕は急いで中に入りドアを閉めた。酷い雨だった。

辺りは雨の飛沫で霞んでいた。どの木も海もバス停さえも見えない程だった。僕は車のエンジンを掛けた。ワイパーが間に合わなかった。雨音が、ありとあらゆるものを消し去る様に烈しく音を立てた。僕は目を瞑ってそして息を吸って、ゆっくり息を吐いた。僕はダッシュボードからCDを取り出して、ディスクに入れた。ボリュウムをいっぱいにした。CSNYのハーモニーが、雨音に負けないくらいに聞えた。彼らは何時もと変わらない歌を、一生懸命に唄っていた。素敵だった。僕はもう一度深呼吸をしてからエンジンを掛けた。


その夜、僕はナッシュのバーにいた。

僕はカウンターの一番奥の席に座って、アードベッグのストレートのダブルを、飲み終え様としていた。

客は疎らにいた。カップルばかりだった。彼らは皆声を落として話していたから店内は静かで、時々誰かがする咳払いや、椅子を動かす音がやけに目立って聞こえた。

「雨はもう、上がった様ですね。酷い雨でした」

「何時か雨は上がるけど、また降って来る」

僕はそう言ってから、しまったと思った。

「今日はペースが早いですね」

「久しぶりだから、美味いんだよ」

僕は笑って見せた。ナッシュも小さく微笑んだ。僕はグラスに残っていたウイスキーを飲み干して、そのグラスをナッシュの前に出した。ボウモアにするよと僕は言った。ナッシュはちらっと僕を見て、シングルでと言った。ぼくはシングルでと答えた。彼はグラスにシングルより少し多めにボウモアを注いだ。

「仕事まだなんですよね、どうするのですか?これから」

「うん、まだ何も考えて無い」

あの時もそうだった。僕はずっと映画関係の仕事に就きたいと思っていた。しかし大学が終わりに近付くにつれ、僕はその才能が無い事に気付いた。だから就職の事なんて何も考えてはいなかったのだ。そんな時に苅野が会社をやろうと言った。ただ僕はそれに乗っただけだった。

「こう言う事って、できるなら早い方がいいと思いますよ。特にあなたみたいな人は」

「特に僕みたいな人?」

「すみません、余計な事でしたね」

「いや、そんな事はないよ。ありがとう」

でも、僕みたいな人ってなんだろうと思った。だから僕は聞いてみた。

「そうですね、、時間は過ぎて行ってしまう事を、余り知らない様な感じって事ですね」

その時、店の入り口のドアが開いた。風が吹き込んで来た。僕らは入り口の方を振り向いた。

「やあ、ひさしぶり」。


                       。

※僕たちは皆、多少の違いはあるにせよ、それぞれの道を、今も歩んでいる。僕たちは、何かを失わなければ、何かを得られないのだ。

その後の彼女のことを、僕は知らない。たぶん僕は、もう一度あの場所へ行く必要があったのだと思う。



                            『完結済み』



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ワンダリングスルーメモリー カッコー @nemurukame

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