第5話
《5》
その日から僕は会社へ行く予定だったけれど、僕は行かなかった。苅野に電話もメールもしなかった。もちろん、紛失した書類の事はあったけれど、僕は彼女の電話番号を前にして、動けなくなっていたのだ。
この番号に電話を掛ければ、そこから彼女の声が聞こえて来るかも知れない。それで僕は何を話すのだろう。暫くだね、元気だった?そんな言葉を言うのかも知れない。だが、それからはどうするんだろう。彼女が去ってから10年以上が経っているのだ。彼女が離婚したのは知っていた。それは紛れもなく僕のせいだ。僕から去って行った彼女を責める資格なんか僕にあるはずがない。彼女をそこまで追い詰めたのは僕なのだから。だいいち、僕からの電話を彼女は喜ぶだろうか。電話をする勇気が僕にあるだろうか。それとも彼女の住んでいる町の駅に行って、改札口で待ち続けて、偶然を装って会うなんて事ができるだろうか。彼女は電車を使わないかも知れない。何にせよ、彼女とコンタクトを取るには、電話するしか方法がない。ショートメールがあるけれど、それはどうなんだろう。僕の頭の中は混乱していた。それが自分でも判った。
急ぐ事は無いんだと自分に言い聞かせた。急ぐ事は無い。10年もそのままになっていたのだから。急ぐ事は無い。僕は何度もそう呟いた。
やはり有耶無耶にはできない事だし、何時かははっきりさせなくてはならない事だから、僕は会社に電話してみた。事務の女の子が出た。出張お疲れ様です。如何ですかそちらは?と、受付の女の子に言われた。どうやら苅野は僕を出張扱いしているらしかった。苅野は出掛けていた。お昼前には戻ると言う事だった。社長の携帯に電話されたら如何ですかと、言われたけれど、僕は彼が帰ったら連絡が欲しいと伝えてくれと言った。お昼前に苅野から電話が来た。
「何故電話に出ないんだ。何回も電話したんだぜ」
「無断で会社を休んだ事は謝るよ」
「そんな事はいいんだよ。本当は謝るのは僕の方なんだ」
「何があったのか、僕には解らない事ばかりなんだよ」
「そうだったな・・、今から昼飯一緒に食べないか、その時に話すよ」
僕らは会社から少し離れた、あるビルの最上階にあるレストランで会う事にした。そこは値段が高いため、サラリーマンたちには敬遠されていた。
富裕層の暇な人たちが来る様な店だった。
僕は約束の時間どうりにそのレストランに着いた。店の接客係りが僕を奥の席に案内した。席は予約されていた。その時に接客係りは、お二人はもうお見えになられていますと言った。僕は二人?と、つい聞き返した。
はい、とだけその接客係りは言った。
席に案内されると、そこには苅野とナッシュが座っていた。僕は驚いてナッシュの顔を見た。ナッシュは沈んだ顔をして、僕に挨拶をした。僕は理由が解らないまま椅子に座った。
「これには理由があるんだ」
順を追って話すからと苅野は言った。ウエーターが来たので、僕らはそれぞれ注文した。
先にビールを持って来てくれと苅野が言った。僕は飲む気は無かったのだけれど、何も言わなかった。苅野らしかった。苅野が僕とナッシュにビールを注いだ。
「まあ、乾杯なんて訳じゃ無いんだけど」
そう言って苅野は一気にグラスを空けた。ナッシュはグラスを握ったまま飲もうとはしなかった。僕は手も付けなかった。
「どういう事なんだろ」
僕は二人を見ながらそう言った。
少し沈黙の時間があってから、ナッシュが何かを言い掛け様とした時、それを遮る様に苅野が口を開いた。
「初めから話すよ。君には心から悪いことをしたと思ってるよ」
またナッシュが何かを言いかけたけれど、苅野は続けた。
「ナッシュは悪く無いんだ。全部僕のせいだよ。ナッシュにも悪い事をしてしまった。」
「実は、金を使い込んだ。相当の額だ。会社はもう駄目かも知れない」
「いったい何をしたんだ」
「会社を始める時、僕が実家から金を貰ったのを知ってるね」
「ああ、もちろん知ってるよ」
「その後だけれど、実家の経営が上手く行かなくなったんだ。この10年で、とてつもない額の損失になった」
僕は黙って聞いていた。
「それで、今度は僕がその損失を埋めていたんだ。でも除々に間に合わなくなってしまって、気付いたらどうしようも無くなっていた」
「僕は、君の金にまで、手を付けそうになった」
「僕の金?」
「僕の金って、何の事だ」
「君が会社の為に用立てたニ割の資金だよ」
「どう言う事だろ、だって、その金は」
「あの頃、僕は君の経済状態を知ってたんだ。でも君は少しでも資金を出すと言い張った。それで僕は一応了承した形を取った。あの金は、そのままにしてある」
「どうしてそんな事をしたんだ」
「別に君の金が無くても、何も問題無かったからだよ」
「でも、よく解らないな。それと書類とどう関係するんだ」
「社長は僕で、君は従業員なんだ。何かあった時の為に、その方が良いと思って僕が決めたんだよ」
「今思えば、子供じみた考えだったと思うよ。君が書類を紛失すれば、君は責任感が強いから辞めると言い出すと思った。君がそうすれば、僕は会社都合で君の退社手続きをする。そうすれば、君は失業保険を受け取れる。残してあった君の二割分と一緒にね。僕にはもう、退職金が払えないんだよ」
彼は一気に話した。僕は溜息を付いた。
「どうして言ってくれなかったんだ」
「ふたりで考えれば、何か良い方法があったかも知れない」
「この会社は、僕が言い出した事だし、僕の実家の事は、君には関係の無い事だからね」
「私が、書類を盗みました。本当にごめんなさい」
そうナッシュが言った。
苅野は僕の鞄から書類を抜いてくれとナッシュに頼んだのだ。やはりあの時、僕がナッシュの店に鞄を置いて外に出た数分の間に書類は盗まれていたのだ。苅野への電話の不自然な長い空白、ナッシュが厨房で苅野から連絡を受けていた事、それらの事がそれで繋がった。
「最初から計画してた訳じゃ無いんだよ。君が書類をナッシュの店で僕に渡すとメールしてくれた時に、何故か急に頭に浮んだんだ」
「もう、解ったよ。書類の事はもういいからさ、それよりご実家の方はどうなんだ?」
「実家か、実家はもう人手に渡ったよ」
「そうか、残念だね。ご両親はどうされてるんだ」
「たぶん、年金があるからね。それで生活はなんとかなる」
「いいご両親じゃないか、あそこまで君を心配されてさ」
「君は、僕の両親と会った事があるのかい」
「ああ、随分昔にね。君が例の車で事故った時だよ、病院で」
「ん、あの時は世話になった。また君には迷惑を掛けるね」
「それで会社はどうなるんだ」
「もうすぐ、無くなる。本当に悪いと思ってるよ。君の再就職を色々あたってみたんだけれど」
「僕の仕事は僕が見つけるよ。年金があるし、これからゆっくり考える。
君こそ、これからどうするんだい」
「無一文になるだけだよ。業務は他の会社が引き継ぐから、僕はただ消えればいいんだ」
僕は今まで随分と両親に甘えて来た。世間知らずのわがままな人間だった。自分勝手で、本当に両親には迷惑を掛けた。両親は自分たちの身を削って僕に与え続けてくれたのに、僕はそれを当たり前だと思っていた。でも、結果は上手くはいかなかったし、君に迷惑を掛けてしまったけれど、最後に両親の為に何か出来た事は良かったと思うと、彼は言った。
親だって反省する事はあるんだ、と僕は心の中で彼に言った。
でも、それでも僕の心は晴れなかった。僕は解っていた。僕にはやる事が残っている。まだ、残っている。
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