第4話
《4》
私はあなたと初めて会った日を思い出す。雨が降り続いていた。毎日憂鬱な日々がわたしの目の前を勝手に通り過ぎて行った。私はそれをまるで他人事のように眺め、それらが何処へ行くのかも確かめずに、何もかもを塵箱に棄てていた。私は湿気で曇ったレストランの窓ガラスに顔を押し付けて、その日もずっと外を見ていた。その店から少しだけ離れたバス停にバスが止まり、鮮やかなブルーのティーシャツに黒のコットンパンツを履いた青年が降りて来て、傘も指さずにそのレストランに飛び込んで来たのを、私はずっと見ていた。
私は体を起こし、入り口のベルが鳴る音を聞いた。青年はそこに立っていた。ブルーのティーシャツに黒い染みがあちこちに付いていた。髪から顔にかけて、水滴が光っていた。
そんな事を気にもしない様子で彼は店の中を見た。私はおしぼりを持って、彼の方へ急いで近付いた。彼はわたしを見た。その時私は、私の気持ちがざわめいたのを感じた。驚きに似て、ときめきに似た心の動きだった。
彼は私が渡そうとしたおしぼりをそうじゃないと言うように留めてから、アルバイト募集の張り紙を見て来たと言った。私はそれでも濡れた体を拭くためにおしぼりを彼の手に押し付けた。ありがとうと言って、彼はそのおしぼりを受け取った。私はその時私の手が彼の手に触れる様に渡した。
彼は私の夫と顔立ちが似ていた。
私は結婚して6年になるけれど、子供が授かっていなかった。最初の1・2年はそれ程感じなかったけれど、次第に子供ができない事が辛くなって来て、幾つか病院へ行ったりもしたけれど、これと言った原因は解らなかった。私は本当に子供が欲しかった。夫を愛していたし、もちろん夫の子供が欲しいとも思っていた。でもある時私は夫への愛よりも、子供が欲しいという方が勝っている事に気が付いた。何時からそんなふうに思っていたのか、自分では解らなかった。周りから、相性が悪いなどと言われた事もあったのかも知れない。
そんな時に彼と会った。憂鬱な日々の思い掛けない一瞬だった。私はその時何かを思ってしまったのだ。それはきっと人の道に反する事で、裏切りなのだろう。でも、私の心はその一瞬の思いを選んだ。誰にも言ってはならない、永遠の私だけの秘密だった。私はそれを抱えながら生きて行く。死ぬ迄、そして死んでからもずっと。
アルバイト募集は、私がその月いっぱいで辞めるための補充だった。そうして私は彼と出会ったのだ。
私は結婚してからずっと、仕事をしていた。子供が出来たら辞めようと思っていた。でも何時まで経っても子供が出来なかった。私の両親や、夫の両親から、仕事を辞めて、環境を変えて見たらと言われた。私はそれに従わない訳にはいかなかった。私も漠然とその方が良いのかと思っていたかも知れない。そんな日々のある日に、彼が私の前に現れた。もちろん、店の仕事の引き継ぎはあったのだけれど、私は熱心に彼に接した。彼と話をする事。彼に微笑み掛ける事。一緒にいる時間を作る事。私は私の友だち達と一緒に彼を私の家へ呼んだ。食事をしたり、遊んだりするためだ。そして彼の事をもっと知る為に。私の思いは順調に、滞り無く進んで行く様に思われた。でも、誤算が生じたのだ。気が付いた時、私は彼を愛してしまっていた。もう、戻り様も無い程に。
その夏、私は夫に嘘を付いて彼とある海辺の町に外泊した。それはとても幸福な時間の流れだった。
私はその幸せな時間の中で、彼と初めて会った時の一瞬の思いを忘れてしまっていたのだ。夫への私の嘘は日が去り、月が行くに連れて増えていった。そして嘘が増えるに連れて、夫との距離は離れ、気持ちは冷めて行った。たぶん、夫の気持ちは絶望していただろうと思う。夫は余り口に出すタイプでは無かったから、なおさらだっただろう。それでも私は口を閉ざしていた。日々、夫が何をしているのか、何処へ行っているのか、何時眠りに就いたのか、殆ど判らなくなっていた。
そうして私が彼に会って、1年が過ぎた頃だった。私は妊娠した。それは唐突だった。私は嬉しくて、何度もエコー写真を見続けていた。でも、今となってはその喜びを共に分かち合う人が、私には誰一人いなかったのだ。それでも私はその子の事だけを考えた。初めから私はそれを選んだのだから。その数日後、私は夫と離婚した。そして、それから一ヶ月程経ったある日、私は彼に別れを告げた。約束を破り、彼の前から姿を消したのだ。
私は実家に帰り出産した。女の子だった。私の実家は強い西風の吹く海辺の町だった。どうしようも無い事情に、両親は諦めた様だった。子供は順調に成長して行った。でも、私はやっと息をしていたのだ。その町の空気が私には耐えられなかった。何をしていても、海が纏わりついて来た。必要以上に人間が繋がり過ぎていた。何も変わらない事が当たり前だった。子供が小学校に入ったのを機に、私は子供を両親に頼み町を離れた。そして以前住んでいた町から少し離れた町でアパートを借りた。離婚した夫はもう近くにはいない事を知っていたし、学生だった彼も、もう卒業しているはずだったからだ。
私は休みの日には必ず実家へ帰って娘と過ごした。娘はその海辺の町が気に入っている様子だった。友だちに囲まれて健康に育っていた。
私は別れた夫の事はもちろん、彼の事も忘れて暮らしていた。私が故郷へ帰って、娘を生んでから10年が経っていた。そしてある日突然に彼を見たのだ。娘の洋服を買うために行った町で見た彼は、あの日の面影をそのまま持ち続けていた。どうしようもなく胸が高まるのを感じた。その高鳴りは、彼を初めて見た時とは比べようも無い程強いものだった。私の頭の中は真っ白になって、考えられ無い行動をとったのだ。その結果として、今私の手元に苔テラリウムと言う物が二つあった。けっして安いものでは無かった。それぞれに説明書が付いていたけれど、知識の無い私にはよく解らなかった。ただ見ていると、自然の風景をその丸いガラスケースにギュッと縮めて映し込んでいるように思えた。自分も小さくなって、その風景の中に佇んでいる様な錯覚を感じた。私はそれらを直接日射しの当たらない明るい場所に置いた。1日に1度、霧吹きで水を掛ける事が日課になった。あの日の彼も、これとよく似たガラスケースを手に持っていたのだと思うと、小さな不思議な幸福感が、心の中に滲みて来た。その時私はふと、一つを娘に渡そうと思い付いた。
次の土曜日、私は娘にその苔テラリウムと幾つかの品物を届けるため、故郷へ向かった。思いの他国道は混んでいて、ノロノロ運転が続いた。空模様も怪しかったけれど、雨は降っては来なかった。窓を開けると四月のまだ少し涼し気な風が車内に入り込んで来た。
私はまた彼の事を考えていた。
彼は変わってはいなかった。あの場所で買い物をしていたと言う事は、彼はそんなに遠くない場所に住んでいるのかも知れないと思った。一人で住んでいるのだろうか。年齢からすれば、結婚していて、子供がいてもおかしくはないのだ。あの日は平日だった。何の仕事をしているのだろう。確か彼は映画の仕事をしたいと言っていた。今、その夢は叶っているのだろうか。
私は朝早く、彼のアパートの部屋へ行った。平日は殆ど会えなかったから、土曜日と日曜日は一日中一緒にいたのだ。私とは4つ違いで、彼は若かった。いろんな事をして、いろんな所へ行った。私にとって、決定的な出会いであり、一年でもあった。もしあの時彼と会っていなければ、今の私はいないのだ。それだけは確かだった。
幾つかの町を過ぎていた。どの町の姿もみな同じに見えた。そこには数え切れない窓があった。商店の窓、オフィスの窓、住宅の窓、生活感の無い窓など、無数の窓だ。そしてその中の一つの窓に、あなたの影が映っているのかも知れない。
そう思うと、私は通り過ぎる町に、その匂いを感じようと、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。あの日の彼の匂いを、思い出しながら。
山越えの手前辺りに差し掛かって、ようやく車の流れは順調になって来た。ここまで、何時もの倍以上の時間が掛かっていた。私は山越えの手前で車を止めて、娘に遅れる事をメールで知らせた。既読にはならなかった。もうお昼は回ってしまっていたので、山越えの前にお昼ご飯を済ませようと思った。
私は左折して、海岸線を南に向かってみた。その海岸線は私の故郷とは違っていて、海抜が低い海岸線が多く、海が家の直ぐ近くまで迫っていた。海が荒れた時は想像が付いた。何処かで食事をしたかったけれど、レストランや飲食店は見当たらなかった。殆どどの建物も古く、商店らしき所はシャッターが降りていて、錆びついた看板が、時間が止まってしまった様に潮風に吹かれ、カタカタと音を立てていた。駐車場らしき所には雑草が茂り、切れたロープが朽ちた様に錆びた鉄棒に絡まっていた。
私は諦めて戻るために右折した。
右折してUターンする場所を見付けようと思った。暫くそのまま進んだけれど、道は中途半端な幅で、両側に細い溝が這っていた。左側には水量の少ない沢が流れ、右側は深い森に続いている様だった。暫くしてようやく私は道幅の広い場所を見つけた。そこにバス亭があった。バス停の後ろに屋根の付いた待合があったけれど、その屋根は壊れかけて、一部穴が空いていた。ベンチももう朽ちていて、4本の脚は人の体重を支えられるとは思えなかった。時刻表も錆が酷く、文字が読める範囲のものか判らなかった。そこで私はUターンしてから車を停めてドアを開けた。その場所は岬の先端にあった。少し開けたその先の木々の間から海が見えた。そう言えば、来る時にトンネルを潜ったけれど、たぶんぐるっと回って来ていたのだ。バス亭は古いもので、どうやらもう使われてはいないみたいだった。古い家が所々にあるけれど、人の気配は無かった。車が置いてあったりするのだから、人はいるのだろう。
私はこの道の西の果てに何があるのか考えずにはいられなかった。人は住んでいないような気がした。ここではある時に、いきなり時間が止まってしまったのだ。そんな感じの場所だった。ここにある物、ここであった事、それら全てを置き去りにしたまま、時間は止まったのだ。今、私がここで吐く息も、わたしがここを去った後に残る私の影も、全て時の歪に吸い込まれて、ある時間の中に、残骸の様に置かれて行くのだ。
ふとその時、何処からか音楽が聞こえた様な気がした。それはCSNYのハーモニーみたいだった。でも直に波の音が辺りを支配して行き、その音楽だったかも知れないものはそのざわめきの中に消えていった。私は車に戻り、ドアを閉めてシートベルトをした。来た道を戻り国道に出た。私は食事を諦めて、故郷へ向けて山越えにハンドルを切った。私は確か、CSNYのCDを持っていた事を思い出した。ダッシュボードの中の幾つかのCDの中にそれはあった。棄ててはいなかったのだ。私はそれを掛けてみた。〈キャリー•オン〉から、〈ティーチ•ユア•チルドレン〉になった。懐かしいハーモニーが流れて行った。彼からもらったCDだ。あの時全部棄てた筈だったのに、CDだけが残っていた。何処かで誰かがキャリーオンと呟いた。
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