第3話

《3》

僕たちは、ナッシュのバーにいた。

「良かったですね、二人とも無事卒業出来て。プレゼントは何がいいですか?今日は全部サービスしますから、何でも注文してください」

僕らは、快くプレゼントを受ける事にした。彼はボウモアをボトルで、僕はアードベッグにした。ナッシュは2本づつボトルを入れてくれた。

「苅野さん、社長さんはお元気ですか?。少しご無沙汰してしまって」

「元気ですよ、親父もナッシュの事、気にしてました。」

「そのうち、社長さんの顔見に行ってきますよ」

「喜ぶと思います」

「お知り合いなんですか?」

この店の資金を、お借りしたんですよ。とナッシュは言った。

僕は苅野とナッシュの関係を、それまで全く知らなかった。

ナッシュは、アメリカから杜氏になるために日本に来て、苅野の父親の店で修業をしていたとの事だった。15年も前の話だった。

「杜氏の仕事は素晴しい仕事ですが、私には合わなかったのです。」

彼は酒を造る事より、酒を売る仕事に興味を持つようになって、バーを始めたと言った。ナッシュは私の名前ではないとも言った。

「レイモンド•サンドラーと言います」

「それじゃあ、ナッシュって?」

CSNYのナッシュだよと苅野が言った。

「CSNY、伝説のロックバンドだ」

「CSNY?、ナッシュ?」

僕はその伝説のロックバンドのCSNYもナッシュも知らなかった。

「ロックバンドと言っても、彼らはちょっと違っていて、有りがちな華々しさや軽々しさ、そして荒々しさと言ったものが全く無くて、その演奏は格調と、美しさと、気品とに溢れているんです」

僕はロックは聴かない(当時、映画音楽を除いては、僕は余り他の音楽を聴かなかった)ので、どう反応していいのか解らなかった。

「私は昔からよくナッシュに似てると言われていました」

そうナッシュ、否レイモンド・サンドラーは言った。レイモンド•サンドラー?、何処かで聞いた事がある様な名前だった。

「1度聴いてみます」

ナッシュが余りに熱心に見えたので、僕はそう答えた(後に、このロックバンドに魅入られる事になる)。

それで僕は、CDショップへ、・・・・それで僕は・・・・行ったのだ。あの時、あの時・・・・彼女は、いた。彼女は・・・・僕の横にいて、僕と同じ様に、遠い西の果てに続く道に立っていた。否そうじゃない。彼女は僕の横で、海辺の岩の上に腰を下ろして、広大な海原と遥か遠くの水平線を見ていた。違う、それも違う。彼女はただ僕の横にいた。過去の記憶が時間の歪みに取り込まれて、2重にも3重にも重なり合っていた。

おい、どうしたんだいと、苅野の声が唐突に聞こえてきた。

「グラスが落ちそうだったよ」

昔の記憶が僕の頭の中を走馬燈のように巡っていた。苅野の声がそこでは異物のように響き渡った。

「ああ…、アルバイト先のレストランだ」

その時、僕は彼女と初めて会った場所を思い出した。

僕はバイト先を幾つも替わっていた。その中の一つのレストランで、彼女もウエイトレスのアルバイトをしていた。4つ年上で、もう結婚もしていた。可愛らしくてキュートだった。僕たちは結構早く打ち解け合った。暫くして彼女が僕を自分の家に招待してくれたのだ。もちろん他の友だちも一緒に。そのうち僕は彼女に惹かれて行った。それから彼女が僕を誘った。そして居酒屋で初めて二人だけでデートしたんだ。

「なあ、何を考えているんだ」

「苅野、なんか腑に落ちないんだ」


彼女はその日、娘の洋服を見に幾つかのデパートを回ろうとしていた。1つ目のデパートから出て来て、信号機が青になるのを待って通りを渡り、樫の木の垣根の公園の前を通り過ぎて、ある店の前に来た時、(その店はガラスのウインドで囲まれていて、聞き慣れない苔テラリウムと言う物を販売していた)その店の中に彼の姿を見つけたのだ。


「僕が失くした書類の事なんだ」

「どう考えても、この店でしか思いあたらないんだ」


初め本当に彼がいるなんて、とても信じられなかった。彼女は街路樹のマロニエの幹に身をかくすように、暫くの間、彼を見ていた。それは間違えようも無く彼だった。

本当はこのままこの場所を去りたかった。しかし、身体が動こうとはしなかったのだ。そのうち彼は商品を一つ手に持って、レジへ行こうとしているのが見えた。それは咄嗟の行動だった。彼女は店の入口に書いてあった電話番号をスマホに打ち込んでいた。4コール目で、携帯を耳に当てる店員の姿が見えた。


「どうしてここで、失くなったんだろう」

「その事は、もういいよ」

「ここで僕は鞄を数分間、置き忘れていたんだ」


彼女は苔テラリウムを二つ欲しいと告げた。後で取りに行くから用意しておいて欲しいと言った。


「だからさ、書類なんてもういいよ」

「無くなたって、心配無いさ」

「いや、下手すれば、決算書まで辿れるかも知れないだよ。」

店員は一応、住所と電話番号と名前を教えて欲しいと言った。彼女はゆっくり話しながら、彼を見続けた。レジの女の子が彼に話しているのが見えた。彼は、レジから離れて、直ぐ横の棚を見ている様子だった。女の子はレジ台に踞って、彼女が言った住所と電話番号と名前を書き付けている様子だった。


「僕の考え過ぎかも知れないけれど、腑に落ちない事が幾つかある」

「電話に出なかった事。時間を守らなかった事。その後君たちふたりが密かに会っていた事」


彼女はこのまま彼が何処かへ行ってしまう事を恐れた。少しでも長く彼を見ていたいと思っていた。しかし意識の何処かでは、会ってはいけないと何度も何度も繰り返していた。彼との日々が滲む様に脳裏に浮かんで来た。それは様々な断片だった。その断片は脳裏の内に浮かんでは消えて行った。幸福だった。彼女の目から涙が溢れ出していた。涙は熱く彼女の頬を焦がすかの様に流れ落ちた。涙で霞んで見える彼の姿に、彼女は自分の娘の姿をだぶらせていた。


「何か僕に隠している事は無いのか」

「それは考え過ぎだよ」

「そうかな」

「君は、疲れているんだ」


何人かの通行人が彼女の様子を不審がっていた。彼女はマロニエの木陰に身を隠して涙を拭いた。それから再びその店を見た時には、そこに彼の姿はもう無かった。辺りを見回しても、彼は見えなかった。


「 何故なんだろう」

「今日は、帰った方がいいんじゃないか」

「そうですね。その方がいいと思いますよ」

でも、僕は彼らの言動に更に疑問を抱いた。僕が彼らの事を言ったら彼らは僕を帰そうとしたからだ。何もなければその事に付いてもっと話すはずなのだ。だが僕は彼らが言うとおりに帰った。

店を出ると、外は寒かった。ビルの隙間を通り抜けて行く風が僕の背中を押して、身体がいっきに冷えて行く様だった。僕は今、自分が何処にいるのか解らなかった。僕の頭の中でいろいろな感情が整理されずに混沌としていた。体が凍り付き、砕かれていくようだった。僕の意識はもう、僕のものではない様な感じがした。

そしてそれは、僕の知らない世界から語られる、あるいは浮かび上がってくる暗喩的な映像だった。

《僕は彼女を待ち続けたあの夏の日の、海辺のバス停を思い出した。あの日、僕は一日中待ち続けていたのだ。彼女が来るはずだった西へ続く道の果てを見つめながら。それから僕は、あの日の暑さを思った。その暑さは、僕を遠い日の思い出の中に誘って行った。僕はポケットに入れた手を握り締めた。その手は携帯を握っていたのだ。彼女の電話番号が掌の中で囁いている様だった。だが僕は彼女を2度失っているんだよとその囁きに言ってみた。でもそれは何も答えてはくれなかった。ただ電話番号は、掌の中を巡るばかりで。》

その夜は、部屋に帰ってもなかなか眠りは訪れなかった。僕はウイスキーの嫌な酔いにまとわり付かれていた。僕は何度も息を吐いた。嫌な酔の嫌な匂いがしたからだ。僕は腹の底から全ての息を吐いた。でも、嫌な匂いは消えなかった。僕はリビングのエアコンをつけて、寝室から毛布を持ってきてソファーに横になった。そして目を閉じた。ベッドで眠るには、気持ちが荒んでいたのかも知れない。僕は必至で彼女の事を考えた。でも胃からは、嫌な匂いの息が上がって来て、いっそう僕を眠りから遠ざけた。暗い部屋の中で僕は大声で叫びたかった。でも、いったい何を叫ぶのだろう。僕は彼女の名前を心の中で叫んでみた。何度も何度も叫んでいるうちに、僕の気持ちは少しづつ落ち着いていった。

(わたしはここにいるのよ)

(あなたがひつようなら、わたしはいつもそばにいる)

僕はそれが幻聴だと思った。否その前に、僕は一瞬息を飲んだ。それから僕は幻聴だと思ったのだ。

(わたしはここにいる)

僕は毛布を剥いで、暗い部屋の中を見渡して見た。

(あなたがひつようなら、わたしはここにいるのよ)

その声は僕の後ろから聞こえてきた。僕は立ち上がって、後ろを振り返った。だが、そこにはやはり薄暗い闇があり、そのほんの先に、ドアがあるだけだった。

ドア・・・?、何故ドアがあるのだ。リビングの出入り口はここじゃない。そこには壁があるはずだったのだ。絵画が掛かった真っ白い壁が、そこにはあるはずだった。僕は部屋の電気を点けようとしたが、スイッチが見当たらなかった。よく見ると、部屋の様子が違っていた。形が無いのだ。部屋の隅の辺りが全て暗い陰になっていた。その陰はまるで宙に浮いている様に揺れていた。

(わたしは、あなたをあいしていたのよ)

(だからわたしは、いかなかった)

僕は不思議と落ち着いていた。気が付くと嫌な酔も匂いもなくなっていた。僕の胃も、もう何時もと変わらなかった。声はそのドアの向こうから聞こえていた。間違いなくドアの向こうからだ。その時僕はそう思っていた。僕はドアに近付いた。ほんの3歩か4歩ぐらい。鈍い金色のドアノブが付いている。僕はそのドアノブに手を伸ばした。でも、僕の手は届かなかった。僕はもう一歩足を踏み出して、そのドアノブを掴もうとした。だが掴めない。部屋はよりいっそう暗く遠くなって行った。闇は深く、全てを飲

み込んでしまう様な闇だった。

(あなたがわたしをもとめているなら、いつもあなたのそばにいる)

(わたしはいつもあなたのためにないているから)

どうすれば僕はそのドアノブに手が届くのだろう。暗すぎる闇が鈍い金色のドアノブを完全に消し去ってしまったのだ。

目を開けていても、閉じていても、暗さは同じだった。

(ぼくはきみをにどもうしなってしまった)

(ねえ、わたしがみえるでしょ)

聞こえて来るのは、ドアの向こうからでは無かった。それは僕の頭の中からだった。完璧な闇の中では音は共鳴し、呼応するのだ。それは海馬の陰に潜むもう一つの世界だ。

もうあのドアノブはどこにあるのか、全く解らなかった。暗い闇に阻まれたのだ。

(あのとき、わたしにはどうしてもあなたがひつようだった)

(どうしても、ひつようだった)

完璧な闇の中で、僕は彼女を見付けようとした。僕は必死で彼女を見ようとしたのだ。僕の目の前の闇の奥から薄っすらとした白っぽい光が僕に近付いて来ていた。それは本当に小さな点だったけれど、それは目の錯覚の様に丸い輪郭を現し始めたのだ。

(わたしがみえるのなら、うしなうことはないのよ)

(ぼくたちはもとめあっているから)

(そう、わたしたちは)

それが何なのか僕は確かめようとして、暗闇の中を手探りでその小さな光の点の方へ歩き出した。手に触れるものは何も無かった。足元にあるはずの床みたいなものも感じなかった。感じたものは、その闇の質量の様なものだった。それが僕の体のバランスを崩させた。僕の体は後ろに倒れだした。それから体はゆっくりと回転しだした。僕にはどうしようも無かった。体は斜めに倒れ、次は前に傾いた。ふと気付くとその光の点が大きくな

っていた。その輪郭が見えて来ていた。それは破かれた障子の穴の様に見えた。そこから漏れる明るさがあの金色のドアノブの影を一瞬映し出した。僕は咄嗟にそのドアノブを掴もうとしたけれど、それは僕の指先を掠める様に、深い闇の方へ通り過ぎて行った。

(あなたはここにいてくれた)

(わたしはとてもこわかった)

いったいその鈍い金色のドアノブの向こうには何があったのだろう。眩く近付いて来るその光の日射しの中で僕は、遠い夢の中を彷徨っている様だった。そして更に強い光が僕を包んだ。

僕は携帯を握り締めたまま、リビングのソファーの上で目が覚めた。何処かでキャリー•オンと、誰かが言った。

早い朝日が東の窓から差し込んでいた。その光がゆっくりと茫漠な西の大地を染めて行った。

(わたしはいつもあなたのそばにいる)

(あなたがひつようなら、わたしはそばにいる)

(でもぼくは、にどもきみをうしなってしまった)

(もう、もどれない)

(あなたはわたしをひつようとしている)

(わたしもあなたがひつようなのよ)

(ぼくたちはもとめあっているんだね)

僕の言葉は君を残したまま細い微かな光となって、夜さえも超えて、西へ続く道の果てへ吸い込まれて行った。そこは何処だろう。君はそこにいるのだろうか。

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