第2話

《2》

僕の中にある彼女との記憶はある年の、12月の夜から始まっていた。

そこは駅ビルの二階にある、パブレストランだった。僕たちは開店してまだ間もない時間に待ち合わせていた。

  ※

【外は夕暮れが過ぎて、もう暗くなり始めていた。町の明かりが夕闇に紛れてぼんやりと見えていた。ターミナルの街路樹に灯る光が煌めき出していた。彼女は窓を背にして座っていた。店を入って一番奥の席だ。僕は彼女方へゆっくりと近付いて行った。視線が逢うと、彼女は僕に微笑み掛ける。僕も同じ様に彼女に微笑む。視線は重なり合ったまま、視点は動かない。そのまま僕たちの距離は近付いて行く。僕の足音が、僕の後ろを歩いている。君の微笑みの細部が僕の記憶に刻まれて行く。それから、君の目の前の空気を少し動かすくらいに、君の唇が軽くひらく。それが僕の目の動きを停止させる。そして君の瞬きが僕の頬を掠めて行く。君の温もりが僕の肌に映り、君の髪が揺らぐ。君の言葉と僕の言葉が語られる。その言葉たちは、何処から来たのだろう。そして、何処へ行くのだろう。その言葉を、僕は掴もうとして手を伸ばす。けれど、言葉は綿毛の様に身を躱す。遥か遠い記憶が僕たちに蘇って来る。それは現実を超え、非現実も超えてもう一つの世界へと具象を呼び覚まして行く。

僕は待っていたんだよ。君と行ったあの海辺の町の夏の日の中で。分かっていたわ。あなたはたぶん、ずっとそこにいる事を。僕はきっと君が来るはずの道を、あの西の果てに続く道を見ていたんだ。

でも、あの日私は行かなかったのね。

何一つ、音がしなかった。風も波もそこには存在していなかったんだ。ただ影が、何処までも地面を這って行った。とても遠い所まで。

そう、それはもう、過ぎてしまった。終わってしまったことなの。引き返せないのかな。僕は戻りたいんだ。私には解らないわ。怖いのよ。とても怖い。私は、解らない。

僕は、ゆっくりと椅子を引いた。そして腰掛けた。ねえ、僕をしっかり見て。僕は君を必要としている。とても必要としているんだ。あなたは、私を必要としている。僕たちは、求め合っている。不安気に逸らされていた視線が、ゆっくりと僕の方に近付いて来た。固く閉じられていた肌が緩んで、頬に温もりが差したようだった。

私たちは、求め合っている。そう、求め合っている。】

   ※

あの日、僕は彼女とパブレストランで会った。彼女は先に来ていて、窓を背にして座っていた。チャコールグレーのセーターとブルージーンズを履いていた。僕はなにかの言葉を掛けて、椅子に座ったのだ。何を話したのだろう。不思議だ、まるで霧の中を歩く様に思い出せない。ただ時間ばかりが過ぎて行くようだ。でも僕は両肘をテーブルの上に乗せて君の話を聞いていた。君の向こう側に駅のイルミネーションが見えていた。駅のターミナルを多くの人が行き過ぎて行った。束の間、僕はそんな風景を見下ろした。

あ、と気付いた時、僕は彼女の頬の温もりを、僕は頬に感じた。彼女の微かな息づかいが耳の直ぐ傍で聞き取れた。それからゆっくりと肌が触れ合って、彼女の唇が僕の唇に重なった。ほんの短い間だけれど、確実に重なった。

明日の朝早く、あなたの部屋へ行くわと、彼女は言った。。僕は、待っていると答えた。

その夜、僕は殆ど眠れ無かった。時計ばかりを見ていた様に思う。目を瞑ると彼女の掌の温もりを頬に感じる事ができた。彼女の柔らかな唇が、僕の記憶を支配し続けていた。僕は眠る事なんか出来なかった。まだ暗い夜明け前に僕は起き出して、身支度を整えて、アパートの階段を降りた。おそらくは、確実にやって来る夜明けの足音を聞きながら、その消され行く夜の闇の暗さを思いもせずに、僕は駅の方へ歩いて行った。夜の息は僕の体をもっと暗い淵の中に引きずり込もうとする様だった。けれど僕は彼女の温もりが差す方へ、必死に手を伸ばしながら歩き続けた。もう一歩、僕はその方へ足を踏み出せば、僕が求めているものに触れる事が出来るはずだった。

でもそんなある日、彼女は来なかったのだ。僕の前を、電車は通り過ぎて行くばかりだった。そして僕には想像も出来なかった事だけれど、彼女は何も言わず、僕の前から姿を消したのだ。そうして僕は、彼女を失う事になった。


苅野から連絡があったのは、3日目の休日の朝だった。

「やあ、どうしてる?暇を持て余してるんじゃないかと思ってさ。」

確かに仕事を離れていると、自分の居場所がここでいいのか不安に思う事があった。これが持て余すという事なのかも知れなかった。けれどその不安の中には書類を紛失したと言う僕のミスが含まれていた。それから、苅野とナッシュの事も含まれていた。

「どうだい、今夜一緒に飲まないか」

僕は苅野と会う事で、おそらく自分の中にある筈の疑問の答えが、例えヒントだけでも見付かるのではないかと思った。

「じゃあ、6時に、ナッシュのバーで」

僕はもう一度、あの無くなった書類に付いて考えてみた。確かに重要な書類ではあるけれど、普通であれば、そのままにされるはずのものだ。例えば僕が他の会社のそれを見てもそのままにするだろう。だが、もし悪意があってその書類を手にしたなら、違った方向へ行く事が出来るかも知れない。周りから情報を集め、書類を辿って、内側に入れれば、決算書に行き着ける。

そこに、なにかの問題点があれば、会社の存在が危ぶまれる事になる。

苅野は会社に問題はないと言った。なら、何故盗まれたのだ。いずれにせよ僕のミスだったけれど、何かが隠されている様な気がした。

僕はナッシュのバーへ10分前に着いた。苅野はもう来ていた。

「悪いね、随分前に来たものだから、軽くやってるよ」

「いらっしゃいませ。休みボケしてませんか」と、奥から出て来たナッシュが言った。

僕は軽く笑って見せた。

「今日は、苅野さんの方が早くいらっしゃってたんですよ。」

どうやら苅野はナッシュより先に来て、店の前いたらしい。

「何時ものでいいですか?」

「今日はラフロイグで」と、僕は言った。

苅野も僕もアイラウイスキーが好きだった。僕はスモーキーが強めのもので、彼はバランスが取れているものを好んだ。ボウモア的なものだ。

「なんだい、お気に入りのアードベッグじゃ無いのかい?」

「僕だって、ボウモア的なものも飲むよ」

「そのボウモア的って言うの、久しぶりに聞いたな。でも、ラフロイグはボウモア的か?」

限りなくねと、僕は言った。僕は苅野の隣りに座った。ナッシュが例によってブランデーグラスにウイスキーを注ぎ、掌で何周か回してからテーブルの上に置いた。ブランデーグラスの中の琥珀色の液体は、うねりながら丸いグラスの底を、渦の様に沈み続けながら、まるで世界を飲み込む津波の様に回り続けた。僕はふと、パイレーツ・オブ・カリビアンのブラックパール号が大渦の淵を回っているシーンを思い出した。

「何時見ても、見事だよ、ナッシュ」と、苅野が言った。

「私の特技です。長くやってますから。まあその代わり、シェイカーがあまり上手くいきませんが。」

僕らは他愛のない話題を挨拶代わりに軽く話して笑った。

僕は苅野と会ってもう15年以上が経っていた。僕の仲間であり、唯一と

言ってもいい友だちだった。

学生時代の彼は、頑固で、決して自分の世界から出ようとはしなかった。でも、教養があり、物知りで雄弁だった。彼のいいところは、それらを決して人に押し付けないところだった。

どちらかと言うと僕の方が人に押し付けるところがあったかも知れない。

その辺りの加減がたぶん僕たちを惹きつけあったのだと思う。僕は彼を信用していたし、好きだった。もちろん友達としてだ。彼も同じ様に思ってくれていたのだろう。

僕たちは大学に入学して、暫くしてからナッシュのバーで初めて会った。打ち解けるのは早かった。彼は日本文学を専攻していた。夏口漱石、池端康成が好きで最近では、新鋭の村中春樹に夢中になっていた。夢中と言うより、愛していると言ってもいい程だった。彼らみたいな者たちをハルキストと言うらしい。だが、彼の恋に付いての出来事は、僕はまだ聞いた事は無かった。

「僕は小説を書きたいんだ」

「大丈夫、君ならとても上手く書けるよ」

「実は書いてるんだ」

彼は、小説や詩の話になるといつの間にか熱を帯び出して話が溢れ出した。

僕も少なからずの映画を見ていたし、時々舞台も観ていたから、共通するものが無かった訳ではなかった。だが、彼の話しは深くて、よく僕は聞き役となった。アイラウイスキーを飲みながら、僕は彼の話に聞き入った。

そんな時、彼はグラスに注いだ自分のウイスキーを忘れて喋っているから、僕は彼のウイスキーをよく飲んだ。もちろんそれは彼が払う分だ。僕はよく言った。

「需要と供給の必要性が生まれるんだ」

彼は略、お金に関して執着しなかった。気付くと僕の分迄払ってしまっていた。そんな時は、僕は彼にご馳走になった。

彼は書いた小説を幾つか文学賞に出していた。しかし未だに小説家にはなっていなかった。

「村中春樹が、エルサレム賞を貰ったんだよ」

「理由の解らない連中が、文句をいってる」

「何処にだって、どうしようも無いやつらがいるんだよ」

「卵の意味も解らないやつらがさ」

彼はグラスを空ける度に感情を顕わにして行った。

彼がどれ程小説家になりたいと思っているか、僕にはよく解っていた。でも僕に出来る事は何も無かった。

「もし僕らの言葉がウイスキーであったなら」

彼は酔いが回るとよくそう言った。叫ぶ様に言う事もあったけれど、だいがいは語る様に呟いた。そしてグラスを置いた。彼がどう言う心算でそう言ったのか、僕は知らない。

大学の三年の頃に、彼は自動車事故を起こした。

父親に買って貰ったばかりの新車で夜中に、縦貫道の壁に接触して横転したのだ。

幸いにも一ヶ月の入院で済んだが、車は廃車となった。もっと幸いだったのは、飲酒でも無く、誰も乗っていなかったと言う事だった。誰かが乗っているはずはなかったのだ。多分、僕を除いては。

落ち着いてから、病院へ見舞いに行くと彼は笑顔を見せた。頭と腕と脚に包帯を巻いていたけれど、それはとびっきりの笑顔だった。

「やあ、元気かい?」

彼はそう僕に言ったのだ。

僕は丸椅子に座って、ぺしゃんこになって廃車になった新車の事を具体的に教えてやった。

「悪運だな」

ぼこぼこに潰されたボンネットや、ひん曲がって、外れかけたドアや、跡形も無く飛び散ったガラス等の事を。

「悪運もここまで行けば、だな」

それは僕が警察に呼ばれた時に、事故の写真を見せて貰っていたのだ。警察は何故か、彼がナッシュのバーでよく飲んでいる事を知っていて、僕も事情聴取されたのだ。それでただの事故と言う事で収まった。

「その瞬間の事は、よく覚えていないんだ、気が付いたらここにいたんだ」

僕は彼が入院中、時々見舞いに行った。ある日、僕が苅野の病室へ入ろうとした時、外の廊下の長椅子に座っていた年配の夫婦に声を掛けられた。

彼らは僕の名前を知っていた。僕は直に彼らが苅野の両親だと判った。両親は丁寧に、迷惑を掛けて申し訳無いと頭を下げた。自分たちが話をしようとしても、息子は殆ど話をしてくれないと言った。入院中の必要な物は手配してあるので申し訳無いが、時々話し相手になってやって欲しいと言った。

僕は分かりましたとだけ伝えた。彼らが帰った後、僕は病室へ入った。珍しくカーテンが閉まっていたので、僕は開けようとした時、その隙間から苅野の姿が見えた。彼は枕を胸に抱えて体を震わせているように見えた。

それで僕はカーテンを開ける手を止めた。

すすり泣く声が洩れていた。僕は少しの間、そこに立ち竦んだけれど、そっとその場を離れて外に出た。

実直そうで、優しそうなご両親だった。息子の事を心から心配している様に見えた。もちろん、どうしてと言う疑問が湧いてきた。

でも、親と苅野との間を推し計ろうとしても、そこに何かの壁があるようには思えなかった。実直そうで、優しそうなご両親だった。息子の事を心から心配している様に見えた。苅野から親の悪口を聞いた事も思い出す限り無かった。ただ彼が言わなかっただけなのかも知れない。彼の性格を考えれば、そうなのだろう。外見からは何も解らないのだ。僕は彼が心配だった。彼は、内面と外に見せる態度とが違うからだ。次の日も僕は病院へ行った。慎重に病室のドアをノックしてから、ゆっくりと中へ入った。苅野は起きていた。

僕はベッドの横の丸椅子に座った。ベッドの向こう側のテーブルの上には花が飾られていて、その奥にリンゴだのバナナだののフルーツが大量に置いてあった。たぶん、ご両親が持って来た物だろう。

僕は彼に笑い掛けて、どうだい、調子はと聞いた。

「良い訳ないだろう」

「傷が痛むんだよ」

「そりゃあそうだろ、あれだけぶつかればさ」

「骨が折れなかったのが不思議だよ」

僕は昨日、苅野のご両親と会った事を伝えるかどうか迷っていた。伝えれば、ここへ来た事が判ってしまう。僕は黙っている事にした。

「花、誰だい」

「ああ、親が来たんだよ」

「そう言えば、僕は何も持ってきてなかったな」

「よせよ、そんな事」

「ほんとに、いいぜ」

彼は僕に、果物を全部持って帰ってくれと言った。僕は次に来る時にナイフを持って来るから、二人で食べようと提案した。それで果物の処遇は決まった。

僕は蒸し返したくは無かったのだけれど、遠回しに聞いてみた。

「外見でもしてたのか」

「いや、判らないな、そうかも知れない」

「なんかあるなら、言えよ、聞くからさ」

一緒にいれば、何と無く判るんだよと言おうとしたけれど、それ以上は言わなかった。何か、欲しい物があるかと僕は聞いた。

「ボウモア、持って来てくれないかな」

「バカ言え、ここは病院だぜ」

「鞄の中に隠しとけば判らないさ」

「酒臭ければ、バレルよ」

彼は本当に残念そうだった。だから僕は退院したら、お祝いにボウモアを贈るよと言った。そうしたら彼は、そのお返しに、アードベッグを1ケースやるよと言った。その残念そうにした時の彼の目は、それだけでは無い様に感じた。ふと、自分の前にある空間の何処かを見詰めたのを、僕は見逃さなかった。虚ろで力の無い、無防備な目だ。もしかして、その時僕がいなければ、その目から涙が溢れ出たのかも知れなかった。そう言う目だ。

僕が病院に来る度に、果物は減って行った。それと共に、苅野は元気になって行った。でも、苅野はまだ脚を痛がっていた。脹ら脛の肉がえぐられていたのだ。そこがまだ治りきっていなかった。一ヶ月が過ぎて、退院の日が来た。脚の治療は通院する必要があった。苅野の親は彼にもう新しい車を買って与えた。ツードアのスポーツタイプの国内では最も安全性能の高い車だ。

「車で通院するのかい?」

いや、バスで通院するよと、彼は言った。車は、彼が大学を卒業する迄の間、真っ黒なカバーを掛けられて、彼のマンションの駐車場に放置されたままになった。通院が終わった後に、僕は車に乗らないのかいと聞いてみた事があった。彼は、君が乗るならあげるよと言った。だから僕はもう車の話はしなかった。

彼が小説の話をしなくなったのは、丁度その頃からだと思う。僕らは1週間に1度、ナッシュのバーで会っていた。

「苅野さん、最近余りお見えになりませんね」

2日と空けずに来ていた苅野は、略僕と会う時にしか、ナッシュのバーに来ていない様だった。

大学の4年生になって暫く経った頃、僕らは久しぶりにナッシュのバーで会う約束をした。苅野から連絡があって、話したい事があるからと言う事だった。

「大学を辞めようと思ってるんだ」

最初、僕は苅野が何を言っているのか解らなかった。僕は理解するのに少し時間が掛かった。僕は理由を聞いた。

「色々あってさ」

苅野はそれしか言わなかった。

「なあ、僕と一緒に会社やらないか」

会社?それも僕には理解出来なかった。いきなり大学を辞める、そして会社をやる、それじゃまるで解らないから、僕はしっかり説明しろと言った。

小説家になるんじゃ無かったのか?

「解っていたんだ、小説家なんて無理なことはさ」

「最近は特にね、そう感じてたんだ」

確かに彼はそれを感じていたのだろう。ここ数ヶ月の間、それをずっと考えていたのだ。彼が幾つかの文学賞へ応募していたのは知っていたけれど、その結果に付いては、僕は1度も聞いた事が無かった。彼は本当に多くの本を読んでいた。その本の説明も、感想も僕には読み取れない程深く理解していたのだ。たぶん、本を読む才能と、本を書く才能とは違うものなのだろう。その辺りの事は、僕にはよく理解出来た。何故ならたぶん僕もそうだったから。映画を観るのが好きと、映画を創るのとでは違うのだ。

「それがなんで会社になるんだ」

「それはずっと前から考えてた事なんだ」

「あんなに小説家になる事が夢だって言ってたじゃないか」

「僕の書く文章は、僕の言葉じゃないんだ。みんな誰かの言葉なんだよ。だから、賞なんか取れるはずは無いんだ」

「それで会社か?いったい何の会社なんだろう」

「僕はPCが得意な事は知ってるね。PCの事なら大概対応できる。僕だってこうなる事も考えていた。だから大学に入学してからずっとシステムエンジニアリングの勉強をしてきたんだ」

確かに彼はPCに関しても抜群の才能があった。もうプロのレベルだった。たぶん苅野なら、プログラマーにだってなれるだろう。でも僕は彼ほどPCに精通している訳じゃない。僕は君みたいにPCができる訳じゃないよと言うと、彼は織り込み済みだと言った。

「5年あれば、お釣りが来るだろう」

まあ、彼の考えそうな事だと思った。

「僕らでシステムを考え、作動のプログラムを作り、それを商売にする。おまけに君は経済学部だ。」

僕はちょっと考えてみた。その会社を立ち上げた後の事を想像したのだ。

苅野の言う様には多分上手く行かないだろう。

「僕が経済学部だから、どうだと言うんだ」

「僕が会社の内側を受け持つから、君は外側を頼みたいんだ。」

会社を立ち上げるには、開店資金がいる。その上当分の維持費も必要だ。

場所の確保、機器類の調達、幾らだって金がいる。僕は素朴に質問してみた。

「金はどうする」

「ああ、それが一番簡単なんだよ」

「上手く行ったとしても、それまでが大変だぜ」

「まあ、無尽蔵では無いにしろ、それに近いレベルで簡単だね」

僕は溜息をついた。

ま、その辺りのことは計算済みなのだ。出所はあるのだ。

「そんな金があるのに、どうして会社なんてやるんだ」

「金を使う為さ」

冗談だよと彼は言った。冗談には思えなかった。たぶん彼は親から独立するためなのだろうと、僕は思った。

僕に取っては寝耳に水の話しだったので、僕なりに考えて見るから少し待ってくれないかと言った。彼はそうしてくれと言った。

その日の夜、僕が苅野の言った話を考えていると、電話が掛かって来た。苅野からだった。いい忘れてたんだが、会社の場所はもう手配済みだからさと彼は言った。

君は自分の仕事が上手く行くかどうかが心配なんだろと彼は付け加えた。僕はそうだと、正直に言った。君は器用だし頭が良い。人当たりだって最高だよ。僕が女だったら、直ぐ惚れる。だから僕は何にも心配していない。

そうか、ありがとうとぼくは答えた。

映画創りよりずっと条件は整ってるさと彼は言った。僕は見透かされているような気分だった。

結局僕はそれを承諾した。但し条件を二つ付けた。一つは大学は卒業する事。卒業まで、後半年を切っていた。後一つは、多くは無理な話だが、僕にも資金を出させて欲しいと言う事だった。彼は快く承諾した。

そうして僕らは無事卒業した。

準備は何も滞る事も無く、信じられない程順調に進んだ。僕たちは、卒業する前から準備に入っていたからだ。

僕は会社に関しては卒業してからと苅野には言ったはずだったが、何時の間にか彼のペースに巻き込まれていて、気が付くと僕も大学と、睡眠時間以外全て、会社の準備に費やしていた。



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