ワンダリングスルーメモリー

カッコー

第1話

  『ワンダリングスルーメモリー』

   

   《1》

どうして記憶がないのだろう。いったい僕はあの人に何時逢ったのだろう。僕はどうしてもそれを思い出せなかった。

イヤホーンから聴こえるCSNYの完璧なハーモニーが頭の中を回り続けていた。新幹線の座席に沈みながら僕は、心地よいその振動にうとうととしていた。

僕は〈キャリーオン〉を何回も聴いていた。どうやら眠くて、MDの操作を間違えてしまったのだ。

何回も何回もキャリーオンを聴いていて、ふと僕は何年も前に付き合っていた女性を思い出していた。ところが彼女と何処で初めて会ったのか、それは何時だったのか、まるで思い出せずにいたのだ。♪ある朝目覚めて僕は気が付いた♪訳ではなくて、彼らの完璧なコーラスと新幹線の振動とのおかげで、夢現の状態で僕は気が付いたのだ。

車窓の外はもう夕暮れ掛かっていた。

薄っすらと暮れかかる景色は美しく哀しかった。もう紅葉も殆ど終わり掛けていて、山々の緑も遠く寂しげに見えた。時々その山の隙間から覗く海の色も沈んで冷たそうに輝いていた。

僕は車両の出入り口の上にある電光掲示板に目をやった。

停車駅の到着時間案内が出ていたからだ。

けっこうハードな1週間だった。このまま行けば後2時間もすれば部屋に帰れるけれど、今日のうちに書類を渡してしまえば後が楽になると僕は考えた。僕は携帯を取り出して、共同経営者でもある社長の苅野にメールをした。今朝の電話で僕は明日書類を届けると苅野に言ったのだけれど、このまま渡した方が明日行く手間を省く事ができる。駅に着くのは多分6時を過ぎるだろう。苅野は会社が終わっても暫くは残っているはずだ。

6時半頃、いつもの店に来てくれないかとメールした。

苅野は会社にいたらしく、直ぐ返事が来た。そこには、何時もの事ながら君の仕事は完璧だね。行ってもらって良かったよ。先方も随分喜んでいたとあった。

なにより、とだけ僕は返信した。

僕はMDのスイッチを切替えてランダムにした。それでも初めに〈キャリーオン〉が掛かった。

♪ある朝目覚めて僕は気が付いた♪♪新しい日が来たことを・・・♬

・・君は行ってしまった・・・・♪

多彩なリズムで、コーラスがとても良くスリリングだ。曲はランダムに流れた。〈ヘルプス〉、〈カントリー•ガール〉、そして〈僕達の家〉が掛り、〈デジャ•ヴ〉になった。僕は眠気か襲って来ている中で、また考えていた。それは何時、何処であった事なんだろうと。このまま眠ってしまっても着いたら終点だと、虚ろな意識の中でそう思った。でも直ぐに僕の意識の中は彼女の事でいっぱいになって行った。その中で僕は彼女の声を聞き、彼女の温もりを感じていた。

でも僕の言葉は、彼女に届いていないようだった。

駅に着くと直ぐタクシーがあった。僕はタクシーに乗ってその店まで行った。ナッシュと言うバーの名前を言っても知らないタクシーがいるので、僕は近くにある有名なデパートの名前を言った。そこから歩いて2・3分の所に、そのバーはあった。5階建ての狭いビルの地下だ。

ナッシュと言うアメリカ人のマスターがひとりでやっていて、アメリカ人と言っても、日本にいる方が長く、とても日本語が上手かった。

タクシーを降りると僕は階段を15段降りた。重いドアを押して中に入った。鈴の音が小さく鳴った。

薄暗い店の中に客は誰もいなかった。

ナッシュの姿も見えなくて、僕はカウンターの奥に向かってナッシュ、と呼んでみた。直ぐにナッシュの返事が返ってきた。僕はカウンターに座った。携帯を片手にナッシュが厨房から現れた。

「やあ、いらっしゃい。暫くだね」

「うん、ちょっと遠くまで行ってたからね」

「さっき、苅野さんから電話があったよ、少し遅れるって」

僕は書類の入った鞄を隣の椅子の上に置いた。時計はちょうど6時半を指していた。

「どうします、待ってる間」

「アードベッグにしようかな」

彼は手際よくブランデーグラスにウイスキーをそそぎ、器用に何周かグラスを回して、ウイスキーが回っているのを確かめてからチェイサーと一緒に僕の前にそのグラスを置いた。丸いグラスの底で、ウイスキーは回った。これは彼の特技だった。以前、桜の花びらを1枚浮かべて回して見せてくれた事があったけれど、その時は、テーブルの上で10周まわった。

「1週間程、泊で仕事があったんだ」

「大変だね、社長さんは」

「あのねナッシュ、何度も言うようだけど、社長は苅野だよ。」

ナッシュは軽く微笑んでから、カウンターの奥へ消えた。

実際、社長は苅野だった。苅野が資金の8割を出していた。彼の実家は老舗の造り酒屋で、その位の金は何でも無い額のものだった。その彼と一緒にシステムエンジニアリングの会社を始めて10年目になる。会社を立ち上げてから、最初の5年程は本当に辛く苦しい日々が続いたけれど、6年目を向えた頃から除々に軌道に乗り出したのだ。僕が会社設立時に借りたお金はこの4年間で、殆ど返し終えた。だいたい彼が内勤を受け持ち、僕が外回りを受け持っていた。たまに代わる事があったけれど稀だった。受付と事務の女の子がそれぞれ1人づついた。苅野とは大学の時に知り合ったのだ。色々あって、彼が友達となり、僕が友達となって、今に至っている。

「ナッシュ、苅野は他になにか言って無かったかな?」

僕は腕時計を見ながらカウンターの奥にいるナッシュに聞いてみた。約束時間を20分過ぎていたからだ。

仕事の用事ができたなら、知らせて来るはずなのだ。

「いや、何も言ってなかったよ」

彼はタオルで手を拭きながら、奥から出て来てそう言った。

「うん、それならいいんだけど」

「ごめん、仕込みがもうちょっとなんだよ。何かつまむ?」

「ヤツがきてからでいいよ。店見てるから、行きなよ」

「わるいね」

そういいながらナッシュはまた奥へ入って行った。

苅野は時間に特にうるさいタイプでは無かったけれど、たいがい時間は守った。時間厳守も我々の仕事の基本だったからだ。

僕は携帯を取り出して電話してみたが、10数回鳴らしても苅野は出なかった。その時、入口のドアが開いた。僕は彼だと思って見たけれど、入って来たのは若いカップルだった。

「マスター、お客さんだよ」

僕は少し小さな声でそう言った。

ナッシュはありがとうと、僕よりも小さい声でそう言うと、入口で立ち止まっていたお客をそそくさとテーブルへ案内した。

30分が過ぎた頃、またドアが開いたが、苅野では無かった。サラリーマン風の男3人だった。店は少し慌しさを呈してきたけれど、苅野は姿を見せなかった。メールをしたけれど既読にはならなかった。1時間が過ぎた。それでも苅野からは連絡すら無かった。店内にいる客は二組のカップルと、3人組の男たちだけだった。

「遅いね、きっとなにかあったんだね、連絡出来ない事とかさ」

そう、ナッシュが言った。

流石に僕は心配になって、様子を見てくるよとナッシュに言って、階段を急いで15段上り外へ出た。

その場所からはビルの5階にある会社のオフィースの窓が見えたのだ。明かりが付いているのが見えた。その時、椅子の上に鞄を置いて来てしまった事に気が付いた。僕はまた階段を15段降りて店に戻って鞄を持ち、ナッシュに、会社に行って来るよと伝えてから店を出た。再び外に出た時には既に、会社の明かりは消えていた。すると、会社の方角から急ぎ足で、急に苅野が現れた。ビルの陰の暗がりからいきなり現れた感じだった。

「やあ、悪かったね、すっかり待たせちゃって。」

「どうしたんだい、こんな時間までさ」

「ほんと、ごめん。いや、電話が長くてさ」

「お客かい?」

「ああ、全く困っちまうよ」

「電話、コールしてたぜ」

「うん、こっちの携帯なんだ。ま、中に入ろう」

僕は映画が好きだった。中学生の頃から機会がある度映画館へ通っていた。大学生になって、こっちへ引っ越して来て一人暮らしをするようになってからはますます自由に映画を観る様になっていた。僕は大学を卒業したら映画関係の仕事に就きたいと思っていた。映画を創作する事に興味があった。実家は余り裕福では無かったので、僕は出来る限りバイトをして、映画を観るの為のお金を捻出した。そんな帰り道に寄ったのがナッシュのバーだった。地下にあったので、外の雑音から逃げられると思ったのだ。入口のドアにナッシュのバーと手書きで看板が掛かっていた。映画が終わった後、僕は時々ナッシュのバーに寄り、いつもカウンターの一番奥の席に坐って、パンフレットを捲っていた。

初めの頃は気が付かなかったけれど、ある日、いつもそこに苅野がいる事に気付いたのだ。苅野とナッシュはその頃からもう親しそうに話をしていた。それから僕も少し話すようになり、学部は違うけれど同じ大学である事が分かった。それから一気に親しくなったのだ。彼は文学部で僕は経済学部だった。これは何年か後に知った事だけれど、もともとナッシュは苅野の実家の造り酒屋で働いていて、それが酒造りより酒を売る店をやる事に興味が出て、苅野のその実家から借金をして、ナッシュのバーを始めた(店の名前がナッシュのバーと言った)と言う事だった。


彼は鞄が置かれた席の隣に座った。

「こんなに遅くなって、悪かったね」

「何かトラブルでも起こったのかい」

「話がこんがらがってただけなんだ。もう大丈夫さ、気にすることは無いよ」

苅野も僕と同じものを頼んだ。アードベッグだ。

彼がアードベッグを飲む事は殆どなかった。だから僕は念の為に、これはアードベッグなんだけどと聞いてみた。すると彼は少し苦笑いをしてから、ごめん、何時ものやつにしてくれと言い直した。

「腹減ったね、何か作って貰おうか」

彼はそれとも何処か別の所で食べるかと僕に聞いたが、僕はここでいいと答えた。彼は遅れた事に付いて、余り話したく無い様子だったので、僕はそれ以上話さなかった。

ナッシュは僕らにハンバーグを作ってくれた。デミグラスソースの上に目玉焼きが乗っていて、更にその上に缶詰めのパイナップルまで乗っている特性のやつだ。ナッシュのバーはそんな食事もできる。

「これが資料だよ。このままの方がいいだろう」

僕はそう言って、彼に鞄を渡した。

「ああ、お疲れさま。それで少しは楽しめたかい」

「いや、時間なんて殆ど無かったよ。僕も時間があれば、行きたい処はあったんだけどね」

「まあいいさ、明日から暫く休むんだろ。ゆっくりしてくれ」

「ああ、そうするよ。鞄、気を付けてな」

「分かった」

僕は明日から、4日の休みを貰っていた。別に何処かへ行く予定は無かったけれど、久しぶりに映画を見て、その後、苔店を幾つか回ろうかと考えていた。苔テラリウムは何年か前からの、僕の趣味になっていた。

5・6年程前の丁度仕事がピークを向かえていた頃に、登山に行くチャンスがあって、疲れていた僕は気晴らしに付いて行った事があった。登山と言っても標高1000メートル程の山で、装備も軽い物だったが、でもその時、深い森の奥で見た苔の群生の美しさに心を奪われてしまった。それ以来、苔テラリウムを作って、部屋で管理している。

初めは本やネットで苔に付いて調べながら苔テラリウムを作ったが、難しくて幾つか苔テラリウムを駄目にしてしまった。でも最近はようやく維持するコツが分かって来て、苔は僕の部屋で緑を増やしつつあった。

結局、観たい映画が無くて、僕はDⅤDを3本借りてきた。部屋で映画を観ようと思ったのだ。ビビアン•リー主演の、随分昔の映画ばかりだ。セント•マーティンの小径、哀愁、欲望という名の電車。1938年、1940年、1951年、どれも僕の生まれる以前の作品だった。昼ご飯を食べ終わって、これから映画を見ようとした時だった。苅野から電話が掛かって来たのだ。

「休みの時に悪いな。今、書類を見てるんだけど、何枚か足りないんだよ」

書類が足りない?と僕は思わず口に出して言った。彼が言うには、決済関係の書類が無いと言う事だった。その書類は僕が確認して確かに鞄に入れた物だった。僕は苅野が会社にいる事を確かめた。僕は直ぐに会社に行くからと言って電話を切った。

無いはずはないのだ。確実に入れたのを覚えていたからだ。間違えるはずはなかった。しかし、会社に着いて、もう一度二人で書類を調べても、それらの書類は見当たらなかった。

いったい何故無くなったのか、僕には見当がつかなかった。

「なあ、書類がホテルであったのなら、後は盗まれたって事になる」

「いや、盗まれるはずはないんだ」

でも、盗んでどうすると言うのだろう。だいたい何時盗んだと言うのか。僕たちは、僕たち以外、例えば同じような業種の人間にそれを見られた場合、どうなるかを考えた。弱みになるかも知れないと、苅野が言った。

「あのファイルを辿れば、会社の収支決済まで行けるかも知れない」

「別にやましい事をしてる訳じゃ無いから、覗かれても内状が見られるだけなんだけどね」

「盗まれたとしてだよ、何時盗んだのだろう」

ホテルで盗まれた?、電車の中で僕が眠っている時に?しかしそんな事可能だろうか。それからナッシュの店で数分の間、鞄を椅子の上に忘れた事があった。あの短い間に盗まれたのか。

とりあえず、警察には届けようと僕は言った。すると苅野は、例え盗まれたとしても、不味い事は多分起きないだろう。警察も面倒だからさ暫く様子を見よう、と言った。

「済まない、僕のミスだよ」

「また何かの時に出せばいいさ。急がないからね」

苅野は余り気にしてない風をしていたが、僕は部屋へ帰ってからも考えていた。昨夜、書類を鞄に入れた事はたしかだった。その夜に、僕が眠っている間に誰かが部屋に忍び込んで鞄から書類を抜いたとは、どうしても考えられない。帰りの車中も、鞄は何時も手元にあったし、うとうとしている時も、僕の膝の上にあったのだ。そこから書類だけを抜くなんてあり得ない。鞄が僕の手を離れたのは、あの時だけだ。全部で7人の客いた、ナッシュのバーでのほんの数分の間だ。

夜の11時を過ぎた頃、苅野から電話が来た。

「気にするなよ。またそのうちに頼むからさ。今じゃ無くていいんだ」

「うん、分かった。ありがとう」

「はは・・、ありがとうじゃないだろう。また、休み明けに」

「ああ、そうだな。じゃあ」

そんな電話をしてくれた事に、僕は嬉しく思った。

だが、もしもの場合だってあるのだ。何に使おうとしているのか、これから何が起こるのか油断してはいられない事は確かだった。

翌日、僕は不安を感じたまま1日を過ごした。心の何処かに、硬い煙を吸い込んでいる様な感じがした。そんな気持ちで、DVDを観た。欲望という名の電車のブランチ・デュボア役のビビアン・リーは苦しそうだった。僕は途中でDVDを消した。そしてまた昨日の事を考えた。僕は会社の大切な書類、情報を盗まれた。場所はおそらくナッシュのバーだ。間違いは無いだろう。そこには7人の見知らぬ客がいた。そして苅野は警察沙汰にはしないと言う。気にする事は無いとも言った。

僕は部屋にいても落ち着かなかった。

苅野が気にするなと言っても、何処かが噛み合っていないのだ。気持ち悪かった。僕はレストランへ行って、食事をしようと思った。何かの気晴らしがしたかった。お昼には少し早かったけれど、近くのバス停からバスで国道沿いのレストランへ行った。

バスの座席に座って車窓から外を見て初めて今日の空の蒼さと高さを知った。少しだけ肌寒かったけれど、とても清々しかった。そうだ、レストランを出たら、そのまま歩いて、苔ショップへも行ってみようと思った。ゆっくり苔を見たかった。

レストランは結構お客が入っていた。まだお昼には時間があったけれど、思ったよりも混んでいた。ざっと見渡しても、独りの客はいないように見えた。少し気が引けたけれど、僕は席に付いた。でも、席に付いたら何となく気持ちが和らいで来た。ビールと僕は言った。ビールを飲みながら、メニューを選んだ。シーザーサラダとほうれん草のバターソテー、ムール貝にアンガスビーフステーキ。それと、赤ワイン。ゆっくりと時間を掛けて、僕はそれらの物をたいらげていった。ボトルワインは余っていたけれど、気にしなかった。予定通り僕は歩いて苔ショップへ行った。店内は、空調や照明、湿度等の調整が厳重に行われていた。

その中で何十種類の苔たちがガラスポット等に仕立られ、幻想的に配置されていた。現実を遠く離れた世界だ。僕は展示棚の前の長椅子に座って、暫くの間魅入っていた。僕の部屋には三つのテラリウムがあって、そこに全部で5種類の苔が入っていた。僕は6種類目の苔のテラリウムを1つ選んで、レジへ行った。少しお待ちくださいとレジの女の子に言われた。携帯を耳に当てて何か忙しそうに注文票を睨んでいた。僕は言われた通りに待っていたら、お呼びしますのでお掛けになっていてくださいと、レジの女の子は言った。

僕はそれが済むまで、レジの横に飾ってある苔の写真を見ている事にした。その時、その女の子が呟く様に、僕の知っている女性の名前を言った様に聞こえたのだ。僕は聞き間違えたのかと思って戸惑った。しかし、その女の子がもう一度同じ名前を呟いたのだ。僕は、はっとして席を立ち、何食わぬ顔で、ゆっくりレジに近づき、素知らぬ顔で彼女が記入している注文票を横目で覗き込んだ。僕はそこに書かれた名前と電話番号を見逃さなかった。住所もチラッと目に入った。

僕は体中の血が頭の方へ駆け上って来るのを感じた。彼女だ。そう思うと同時に、心臓が音を立てて打ち出した。僕はレジを済ませてからパニックのままバス亭の近くにある公園まで行って、ベンチに腰掛けて電話番号を携帯にメモした。どうして公園まで歩いたのかは解らない。

彼女だった。何時何処で知り合ったのか、思い出せなかった彼女だった。

住所は駅で言えばここから4つ先の町だった。そこまでしか判らなかった。名前は変わってはいなかった。でも、同姓同名と言う事だってある。住所も電話番号も以前とは違っていたからだ。

その時、僕は1台の車が公園の脇道へ入ってくるのが目に入った。公園内には欅の木が何本か植えられていて、周りは樫の木の垣根になっていた。表の道路にはマロニエの並木が続いていて、そこからは見えにくい死角となっていたが、内側からはよく見えた。

車の中に、苅野とナッシュの姿が見えた。苅野が運転していた。彼の車だった。ナッシュが、身振り手振りで熱心に何かを話していた。二人は車から降りてこなかった。

もちろん、話の内容迄は判らなかったけれど、苅野の様子は真剣そうに感じた。僕は声を掛け無かった。その方がいいと感じたからだ。僕の気分は次第に冷めていった。彼らが何を話していたのか、何故、人目に付きにくい場所で話さなければならなかったのか、昨日の出来事と、それは関係しているのか、僕の解らない事が、僕の周りで起こっている様だった。僕だけが、それを知らない。けれど僕にはもうひとつの事の方が大切だった。彼女が僕の近くにいるのだ。自分はどうしたいのだと言う問いが頭の中を駆け巡った。だが、その問いの答えは解らなかった。ただ、今の気持ちに従う事を求めていると感じた。取り敢えず会社の事は、苅野を信じて任せていようと思った。




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