第2話

――――――


 雪芽柚の朝は早い。まだ日も出ていない時間から起き、洗面所に向かう。途中でコンロに昨日の夜食の残りのスープが入った鍋を乗せておくのも忘れない。


 彼女は意外と食い意地を張っているのだ。


 口をすすいで、よく泡立てた洗顔剤で顔を洗う。泡を流したあとは、タオルで優しく水気を取って化粧水を優しく浸透させる。クレンジングケアが終わればやることは唯一つ。コンロの火を点け鍋を温める。そこにトマト缶とチューブの生姜を加えたのが、彼女の朝の定番ミネストローネ風スープである。

 昨日と同じく手早く食べ終えて流し台に食器を持って行く。ちなみにスープは残っているので今日の夜食はスープのリメイクである。


 持っていった食器と流しに溜まっている食器を洗う。溜まっているとはいえ、そこまでの量は無い。包丁とまな板と昨晩とついさっき使った食器くらいだ。長く自炊をしているだけあって危なげなく洗い終える。水仕事を終えた手にハンドクリームを取った。無香料のシンプルなハンドクリームだ。手の甲で伸ばし、指の間にまで行き渡らせる。

 ベランダに面していない方の小さな窓の薄いレースカーテンを開き、雑誌をめくって外を眺めるのは彼女が上京した頃からの暇の潰し方だ。この辺りに日が出る前から見るようなものなど無く、飽きないのか疑問に思うが、不思議と彼女が飽きることは殆ど無い。しかし毎日を忙しく過ごす彼女にとってこの時間は貴重なものだろう。彼女はマネージャーからの迎えが来るまでこうやって過ごす。そしてマネージャーが到着すれば布団を片付けて鞄を持って外に出る。

「だから――を――――」

 それがいつものこと。だからこれは間違いだ。


 彼女がアイドルを引退するなんて相談をするのは。


 そもそも玄関先でそんな個人情報に繋がるような、事務所としても機密事項に当たるような話をするはずが無いのだ。だから彼女がそんなことを言うはずが無い。

 理性も本能もそう叫んでいる。そもそも彼女が居なくなったらはどうすればいい?

 でも、耳に入ったノイズが乗る声は彼女の声で、

 今、玄関前で話し込んでいるのも本当で、

 スピーカーからポップで明るい音楽が聞こえる。それは引退発表と同時に発表した私達のオリジナルソング『――』だ。高らかに希望を謳う乙女達の声が響き渡る。

 それに併せて目の前の少女が舞う。後頭部しか見えないけれど間違いない。ここは私の最後のステージだ。

 一気にサビを歌い上げようと私は声をもっと上げて前に躍り出る。それなのに声が出なくて、ステージが足元から崩れ去っていく。観客の視線が、仲間の視線が、無様な格好をした私に突き刺さる。目の前に烏の羽根が散る。ステージから広がる暗い闇に呑み込まれるように私は目を覚ました。


 ちょうどテレビではステージでアイドルが踊る映像が流れていた。それは私、雪芽柚のコンサート映像だ。偶然と言うべきか画面の中の私が歌っているのも『――』だった。

 膝に乗った猫のクロを撫でながら特集番組を眺める。

「♪〜♪〜」

 無意識のうちに私の体がリズムに乗って行く。今も、昔も、歌うのは好きだ。

 悪夢を見たのは昔を思い出したからか、これを見たからか。しかし、踊っている私を見ても暗い気持ちなど欠片も浮かばない。

 インターフォンが鳴るが私は出ない。近所の人が来る用事は無かったはずで、そもそも家族も事情を知る近所の人も私にそれを期待はしていない。

 クロを撫でて癒やされたのかまた段々と眠くなってきた。少しくらい、うたた寝をしても許されるだろう。夕飯を作ってなくて怒られるかもしれないけど、それくらいこの眠気に逆らうことと比べれば、なんてこと無い。


 ドンドンと鳴らす手も、怒鳴る女性の声も、庭の外も、私には聴こえないし、見えない。


 うららかな昼下がりの正しく私の幸せな日常だ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花、綻ぶ私の幸せ 神薙 神楽 @kagurakagura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ