花、綻ぶ私の幸せ
神薙 神楽
第1話
小動物的な愛らしさを持つ小柄な女子――
彼女はマネージャーの車に乗り込んで、大通りの一つ裏に入ったところにあるアパートの前に降りた。マネージャーに明日の予定を聞いてから階段を登って、彼女が一人暮らししている三階の角部屋に入る。
彼女ほどのアイドルならもっといい部屋を借りれるが、彼女は登り降りの面倒や引っ越す手間など利便性の問題からここに住んでいる。妥協するような言い方だが、このアパートの条件が極端なほど悪い訳では無い。都心で周辺の治安も悪くない。防音防熱設備は充分で築5年いや、彼女がアイドルを始めた頃に引っ越したためほぼ新築と言ってもいい。隣近所の人間との関係も良好。つい先日大家のお婆さんから可愛がってもらったばかりだ。都心の建物らしく家賃は高めで狭いが、それは今の彼女にとって大した問題ではない。
「たっだいまーっと」
鍵を開け、返事の帰ってこない挨拶をする。サンダルを脱ぎ捨て、左手の電気をつけ、彼女の目の前にある洗濯機に靴下を投げ入れる。荷物をリビングに置いて手をシンクで洗う。
ふと思い出したように厚い布地のカーテンを捲り、リビングのベランダに面する窓際にある植木鉢の土を触る。ガジュマルが植わった植木鉢だ。ほっそりとした白い指に土が付いた。彼女は、数ヶ月も水やりをしてない植木鉢の土だ。彼女は指先を布団の端や、壁に擦り付けてそっと誤魔化した。
布団に転がり、コンセントに刺さる小さな一口タップに、充電器のコンセントを差す。電源が再び点いたスマホにはマネージャーやアイドル業を通じて知り合った友達なんかから届いた大量のメッセージがずらりと並んでいる。
『明後日一緒に映画いかない』
『?』
『今日の収録、新曲のラスサビ良かったよ』
『ゆず明日一緒に歌おー』
『(おかえりなさいのスタンプ)』
『これかわいい!お土産これね!』
『間違えてた〜』
『(ごめんなさいのスタンプ)』
いくつかのメッセージを見ていくらか不本意なものも混じっていたのだろう。それに彼女は怪訝そうに眉をひそめる。しかしそれもいつもと変わらない調子の仲間たちに感化されたのか次第に画面の前で笑みに変わる。
それに混ざる仕事の連絡も、それを通じて出会った友人達との時間も、彼女にとっての生きがいであり、つまりは天使のような笑顔を誘う餌に過ぎない。
彼女は一通りのメッセージを確認し終えて、軽くネットサーフィンをしてから、布団から離れる。棚からバスタオルと部屋着の入った箱を持ち、玄関横にある台所に立つ。床に箱を置き、水を入れた鍋をコンロに置く。それに戸棚から出した昆布を浸し、しゃがんで冷蔵庫の中を覗き込む。
「ほうれん草が増えてるな、、、」
彼女は小さく呟いて、眉を顰めた。彼女はあまり鉄分を含むものを取らないからか、たまに意識するようにほうれん草を摂るが、気分では無かったのだろうか。
それはともかく冷蔵庫の奥から人参、キャベツ、戻した大豆のボウルを出した。作る前に全ての材料を出す彼女のいつもの癖である。
そして人参は薄い輪切り、キャベツはざく切りにして、人参と大豆を鍋に入れて火にかけた。
火が付いたことを確認して、彼女は服を脱いだ。風呂に入るためだ。このアパートに脱衣所が付いていないからには洗濯機に近い台所で脱いだほうが一応合理的だ。
太いベルトと花柄のシュシュ、そしてピアスはリビングと台所の間にある部屋着の入った箱にいれ、肩を見せる形のシャツに太ももがよく見えるほどのマイクロミニのスカートは洗濯機に入れる。
そうなるといよいよ彼女の魅惑的な体を隠すものは下着しか無い。
紺色のストラップレスブラに同色のショーツ。
紺色という暗い色が彼女の傷一つ無い白く内側から輝く玉のような肌と対比となって、輝かせている。そして、そこからしなやかな四肢がのびのびと伸びている。
彼女の華奢で柔らかな手が形の良い胸を撫でると、胸元の茶色のほくろもあって可愛らしい見目に反して妖艶で妖しげな魅力を放っている。
彼女は永遠とも思えた一瞬に頓着することもなく下着を脱ぎ捨てて、浴室に入る。白い湯気が充満している浴室のドアを閉めて右側にある鏡を見ながら軽く髪を梳く。櫛を置き、横からシャワーヘッドを取って髪を濡らし、シャンプーボトルのポンプを押す。洗面台から水を取ってシャンプーと一緒に泡立て、彼女はそれで手早く髪を洗い、泡をシャワーで流して、トリートメントまでやってしまい水気を切る。そして、髪を上げてクリップで止める。
体をシャワーで流してからタオルでボディソープをよく泡立てて、手足からよく洗っていく。そして髪を下ろして背中と一緒に軽く流してから全身の泡をよく洗い流す。
浴室の扉を開けて、箱からバスタオルを取り出して髪を挟むように優しく拭く。その後に体を拭いて、洗面台の下に置かれている白い瓶に入った化粧水や青いラベンダーの描かれた容器に入ったクリームを塗っていく。
そして浴室から出て、足を拭き、下着を着て、パジャマに着替える。
今日のパジャマは水色の生地に白で模様の描かれた涼し気なワンピース。胸元が広く空いていて、ギャザーの寄った縁の部分にはリボンとフリルが付いている。可愛らしく、どことなく童話の世界のアリスを連想させるデザインだ。それは一切の忖度無しに彼女によく似合っていた。
着替え終わって、火にかけた鍋が沸騰し始めたことを確認して、鍋から昆布を取り一玉分も切ったキャベツを入れた。そのままドライヤーのコンセントを延長コードに刺して鍋の様子を見ながら髪を乾かし始めた。
髪を掻き乱すように風の通り道を作って根元から乾かす。ある程度乾くと髪の形を整え、押さえつけるように風を当てる。最後に冷風で仕上げる。
彼女は特別髪が長いということもないので、数分も掛からずに乾かし終えた。
手持ち無沙汰になると彼女の関心は再びコンロの上の鍋に向けられた。まだキャベツは火が通っておらず、彼女は妬ましそうに睨みつける。
テレビを点けてニュースを見ながら、時折アクを取り、コンロの火力を調節し、火が通るのを待っている。テレビはちょうど彼女の興味を惹く内容をやっていたようでほとんど釘付けになってしまっている。それでも何とか吹きこぼれるまでに顆粒だしとオリーブオイルで味付けと風味付けを終わらせた。
作ったスープを器に盛ってスプーンとフォークと一緒に机まで持っていく。鞄をガサゴソと漁り、ペットボトルを取り出した。ペットボトルにはもうほんの少ししか水は入っていなかった。彼女は黄緑色のキャップを外して桃の味のする水を全て飲み干した。ペットボトルの溝を持って潰すように遊んでいたが、すぐに飽きて流しに入れようと狙いを定める。
そして具沢山のスープをスプーンに取って口に運ぶ。よく咀嚼しながら少しずつ食べていく。彼女は特に猫舌というわけでもないので、出来立てのスープでもあまり気にせずに食べ進める。そう量も多くないので、すぐに食べ終えた。
全て食べて空になった器を流しに置く。そして、水を流して浸けておく。余分に作った分は明日の朝食や夜食になるので鍋ごと冷蔵庫に入れてしまう。
流し台の側に置かれた歯ブラシの入ったコップを取って歯ブラシを水で濡らす。彼女は歯ブラシを咥えたまま充電したままのスマホを手に取りツイッターを開く。著名人のアカウントの投稿を回りながら、自分のアカウントでもつぶやく。
その反応を待つことなくYouTubeを開いて動画を再生する。数曲聴けば歯も磨き終えたのか洗面所に戻って口をすすぐ。糸ようじをして、もう一度口を濯ぐ。
戸締まりを一通り確認して、電気を消した暗闇の中、ベットに入る。
これは彼女――アイドル雪芽柚の日常のほんの一欠片。
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