ボーイミーツガール

ANNZY

1話完結

 私は空を割る程高いビルが、白けて見える。そんなところに住んでいた。そして、私が住むアパートの一室に言わば、ニートのような居候のようなプー太郎のような穀潰しがいた。ただ彼は猫のようで、別に戯れてくるとかそう言うことはなかったが、家に居たり居なかったりした。家にいる時は決まって西陽が入る窓の側を陣取り、すぐ左手側に壁があるのでそれを背凭れにして、窓についている格子の間から外の人を眺めていた。何故そんな彼をこの一室に住まわせてやってるのかというと、楽なのだ。考える顔をし、腕を組み首を傾げ、体も傾き、地面に頭のテッペンがつくのではないかと思うくらいには考えたのだが、結局行き着く答えはそれだった。何故楽なのか、そう、私はオトコというものを物心がついた時から欲しいと思ったことがない。何故ならオトコと云うのは至って干渉的で女をオンナとして見ているからだ。プラトニックのプの字も持ち合わせていないそんな奴らに私は辟易の二文字しか持ち合わせていなかった。しかし、彼はと云うと彼の非干渉的部分に奴らの影を落とすことなく、楽だと思わせた。まさしく猫といった感じで愛着が持てた。だから多分そういった理由で私は彼を住まわせていた。

 彼と出会ったのは3年前の蒸し暑いクーラーの欠かせない日だった。その日は仕事を終え、重い身体を足で支えながら会社の外に出た。ニュース通りに昨日から降り続けている雨はまだ飽きることを知らないらしい。傘を差し、アスファルトの匂いに季節を感じながら帰路についた。会社から家までは15分程度かかった。帰りも雨が降るであろうことは知っていた。その為、ベージュの革でできた長靴を履いてきており、嫌な気分にはならず、帰るまでの間に冷蔵庫の中にあるもので何を作ろうかと考えていた。そろそろ家に着くであろう道に差し掛かり、そこで私は発見した。雨の中、潰れた八百屋の店の前で踞る男の姿を。私はボーイミーツガールのような展開は好きではないし、何よりも他人の問題に関わりたくもなかったので、見えないモノとして考えようと思い、歩みを進めた。一歩一歩と靴を踏みしめた。そして、男との距離が段々と近付き、男の前を素通りしようとした時、ぐぎゅうとその男の方から聞こえてきた。私は気を張り詰めていたのだろう。その小さな空腹の音に心底驚き、体がビクつくと共に歩みを止めてしまった。一息分の間の後、音がした男の方に目をやると、彼は遠くで見た時よりも小さく纏まり、寒そうに震えていた。考えるよりも先に「お腹、空いているんですか。」知らぬ男にそう問い掛けていた。その男は肩を驚かせ、俯きながら小さく頷いた。「有り合わせで構わないのならついてきてください。」聞いてしまった手前、見捨てることは出来ず私はそう言って、歩き始めた。心臓が口から出そうになりながら傘を貸すことも忘れ家路を急いだ。速脈になっていた所為か、足取りが早く、後ろの男は私から離れないようにできる限りの力で歩いていたようだった、しかしそれでも遅かった。その足音のリズムが私と男とで混ざり、不気味に打っていた。アパートの下に着き、私の部屋は2階だったため階段を上がった。かこんかこんと階段を上り切り、アスファルトでできた廊下をふと見ると濡れていた。その為、他の住人は部屋に帰り着いたようだと分かった。自分の部屋の前まで行き、鉄でできた扉の鍵を開け、中に入り男にも入るように「どうぞ」とだけ言った。男は玄関に入った。私はその時初めて身形を視た。黒いフードのついたナイロンベストに黒の長袖Tシャツ、黒色のズボン、黒いランニングシューズという組み合わせだった。その時なんだか私は男を家の中まで招き入れたことを半ば後悔した。雨に濡れていた所為も有り、体のラインが見えた。最早、力勝負では私に軍配が上がりそうな細さだった。そして、私が発見した時から今迄、終始男は俯いていた。濡れた体と俯く顔がマッチしていて何か、何かに絶望しているように見えた。「お風呂に入ってください。」と声をかけた。男は気不味そうにそして律儀に靴を脱ぎ、私に誘導され脱衣所へと向かった。「服を乾かすので先に入っておいてください」と伝え、脱衣所の扉一枚外で脱ぎ終わるのを待ち、男が浴室に入ったのを音で確認し、服を洗濯機へ放り込み、スイッチを入れた。服が乾かないであろうことは明白だったので男に断りを入れ、私が昔ネットで間違って買ったオーバーサイズのスウェットを置いた。シャワーの音と洗濯機の回る音を背にして冷蔵庫を開けた。明日買い物をしようと思っていた為ご飯の具材など無いに等しかった。心許ない材料で焼きそばを作ることにした。フライパンに刻んだ野菜、それから豚肉を入れ下味をつけた後一度取り出し、麺を入れ、ウスターソースを上からかけた。そのソースを絡めている頃合いに、シャワーの栓を閉める音が聞こえ、そして間も無く男がスウェットを着て脱衣所から出てきた。どうすることもなく、またどうして良いのか自分の居所が掴めない様子で立っていた。「好きなところに座ってください」と男の方を向いた時に目が合った。その目は切れ目であったが不思議な魅力があり、鼻筋は綺麗に真っ直ぐ通っていて、唇は薄くそれでいて触れずとも柔らかさが伝わってくるような、そんな顔立ちをしていた。私は私の身体が男の方へ向き直ろうと、向きたいとしているのがわかった。男の目はすぐに逸れ、食卓の椅子についた。焼きそばも丁度出来上がり、男の前と私が座るであろう椅子の前にお冷と共に並べた。「マヨネーズとからし、ありませんか」と男が言った。何故だろうと思うか思わないかのところで、その調味料の用途に気がつき、ムッとした。嫌悪感を多少なりとも覚えたが、マヨネーズと辛子を男の前に置いた。「すみません、ありがとうございます。」伏目な男が頭を下げ、縮れた髪しか見えなくなった。「まあ、食べましょう」と催促し、食前の挨拶を行った。男は合わせた手を離したかと思うと、マヨネーズと辛子を取り、皿の端の方でその2つを調合しているようだった。調合し終えたものを焼きそばの上に広げ混ぜていた。何か絵の具の茶色を絞ったところに、白い色を少しずつ混ぜていくように焼きそばが白くなっていった。茶色が淡く白色を帯びたくらいで男は手をつけ始めた。男の食事には音がなかった。麺を啜る音も、箸と皿がぶつかる音もなく時間が過ぎた。おいしいですか?と聞こうと思ったが何故か躊躇った。箸を置かずに食べている姿をまざまざと見せつけられているからだと直ぐに気がついた。男は夕食を食べ終え、手を合わせて食事の終わりの挨拶をした。食器を手に取り、流し台へ持って行き、かちゃりと置いた。私は「良いですよ、私が洗うので」と言い、男は一回頷きさっきと同じ席についた。何とも気不味い空気だった。黙りこくる男の前でご飯を食べるのは品性でもチェックされているのではないかと思わせ、不快であった。急いで食べるのにも、この緊張を悟られてしまいそうで嫌だったので、平然と何事もないように食べた。それでも独りで食べる時よりは早く食べ終えた。男は家具の一部になったように一寸たりとも動かなかった。夕食後、珈琲を飲むことが日課であった私は日常に従い飲むことを決めていたのだが、一人で嗜むのも折角の珈琲が不味くなると思い、一応男にも要否を聞いた。男は「砂糖とフレッシュはありますか」と返してきた。どうやら何にでも何かを混ぜ込まなきゃ気が済まないらしい。私はそう思いつつも「牛乳ならあります」と微塵も相手に不快な気持ちを伝えぬように言った。すると男はまた伏目がちな頭を一層深く下げていた。ポットに火をかけている間に豆をミルにかけ、粗挽きした後ドリップフィルターに入れ、沸かせた湯をコーヒーポットに移し替えた。その間も男は家具に徹しており、不気味だ、とそう思った。珈琲の泡が立ちまた萎んでいくのをじっくりと眺め、少し透明がかった黒い液体がガラスの底に溺れていくのをしっとりと見ていた。この男は何者なのだろうか、溜まった珈琲を目にしながら、無視できないほどの不安が胸を過る。珈琲を淹れ終え、二つのマグカップにそれぞれ注ぎ、男に渡すであろうカップには砂糖と牛乳を丁寧に入れ、撹拌させた。「はい、どうぞ」男の前に差し出すと「香気ですね。」と一言だけ口にした。頭に該当する単語がなかったので何と言ったのか分からなかったが、きっと褒めてくれてるのだと思い込み「どうも」と目を逸らせながらコーヒーを舌半分、口に含んだ。片方は珈琲へ息を吹きかけ、また片方はズズズズと啜る音を立て、そのリズムが小気味良かった。また、そのリズムと鼻の奥の神経を撫でる匂いとで部屋は充実していた。最後の一口を喉に通した後、冷房を点けた。クーラーが数回の呼吸をした後、ひんやりと冷たい空気が足元に流れた。私は先程の洗い物を片付け始め、それが終えた頃、ピーピーと聞き慣れた音を立て、脱水まで終わったと洗濯機が合図をした。男は立ち上がり、脱衣所に行こうとしていた。私はそれを声で制止し「お風呂に入った後に干しておくので乾いたら取ってくださいね」と告げた。ここまできたらもう風邪なんて引かせてたまるか、と謎の母性に駆られていた。男は何歩かに分けて踵を返し、図々しくも直ぐに男の席についた。「家に帰らないんですか」と、そう口に出していた。他意はなく聞いた。男は目を凝らさねば見えぬほど短く、軽く、首を横に振っていた。「もしかして、帰る家がない、?」と言うと、男はこっくんと頷いた。「しょうがない、じゃあ、泊まっても良いですよ。でも、寝るのはそこのソファーでお願いします。」そう私は言った。男はソファーに視線を送るでもなく頷き「ありがとうございます」と一言だけ言った。アホだな自分。と思っていたが、雨の中独りで外に放り出す事は出来なかった。そして変にこの男は大丈夫なのでは無いかと、そう手前勝手に思っていた。リビング奥にあるソファーに座り、テレビを点けた。この辺で殺人未遂があったと言うニュースが流れており、物騒だなあと思いつつもドキュメンタリーがないか探した。番組表にもその手の番組予定は無かった為、テレビを消した。就寝前の身支度を整え、ついでに男の服を浴室に干した。男は歯磨きをしなくても気にならない様でずっと椅子に座ったままだった。心なしか男の顔がほんの少し上がっている様に思えた。身支度を終え、リビングの横にある和室に行き布団を敷いた。「もう寝ますよ」と男に投げかけ、男が頷くのを見送った後、襖を閉め寝床に就いた。5分くらいした後、リビングの電気が消えソファーの方へ足音が連なった。ソファーのギィと軋む音が聞こえ、男は横になったと感じた。私はと云うと勿論眠れる筈もなく、頭の中で闇を彷徨っていた。1時間近く経った頃だろうか、私はふと男が何の音も立てずにいる事に気付き、少しの不安と多くの好奇心から音を立てぬ様に体を起こし、襖を目が入る程に開けて、リビングを覗いた。驚くことに男はソファーに体育座りの様な座り方で腕の上に頭を寝かせていた。「どうかしましたか」と体をひとつも動かさずに男はそう言った。体がびくつき、固まった。「いえ、トイレに行こうと思って」全く身に覚えのない尿意を訴え、トイレへ向かい少しの用を足した。そそくさと胸が破裂しそうな思いを抱えながら寝床に戻った。いつもであれば直ぐに夢の世界へ入ることができるのに、私は高鳴る胸の所為で中々に寝付けなかった。体をあれよこれよと向きを変え、眠れないことに苛立ちを覚えた。そうこうしている内に朝が来た。体の中心に響く時計の音にハッと目を覚ませ、いつのまにか寝ていたことを自覚した。時計を直ぐに確認し、体を起こして襖を開けた。男は「おはようございます」と昨夕の椅子に座り、見向きもせず挨拶をした。私は肩を驚かせつつも「おはようございます」と返した。やはり慣れない。異質な空気を漂わせる部屋で出社の準備をした。出社するにはいつもよりか充分過ぎる程、時間に余裕を持って家を出た。道半ばまで来て、ふと見知らぬ男を家に一人にさせ、金品等々奪われはしないだろうかと今更ながら思い出した。しかし、いま家に帰れる程、時間に余裕は持ち合わせてはいなかった。私は確実に起こるリスクの方を結果よりも重んじるものなのだなあ、と他人事の様に思っていた。会社に着き一抹の不安を覚えながら手に付かない仕事を何とか終えて往路と同じ道を通り、スーパーで食材と男の生活用品を買った後、家の前に着いた。一呼吸し、心を落ち着かせ、玄関を開けて中に入った。男は窓辺に座り、外を眺めていた。部屋は特に何かされた痕跡はなく、その家具だけが移動しているだけであった。男はちらとこちらに目だけをやり、いつもの様に頭を下げた。「ただいまです」と言い、夕食の準備をした。その夜はハンバーグを振る舞い、男は例外なく調味料を要求した。食後のルーティーンの後、風呂に入らせ買ってきた歯ブラシで歯磨きをさせた。私の妙なイタズラ心でパンツはピンクの派手なものを用意したのだが、男は何ら反応はなく、それを履いている様だった。逆に何も動揺せずに堂々と履いている事を考えると笑ってしまった。男は勿論、仏頂面だった。私も就寝前のあれこれを行い寝床に就いた。その日は、昨夜寝ていなかったためか変な安心感のもと直ぐに寝入った。こうして数日、数週間と時は流れた。その間では、僅かなスキンシップ(?)があった。掃除する時にどいて欲しいと伝えるとすぐに立ち上がり、食卓の椅子に座る。掃除が終わるとすぐにまた窓の方へ向かう。とか、たまに家から出ている時もあるが夕食には帰ってきてたり。とか、偶にご飯を作ってくれていたり、決まって焼きそばだったけど。外面だけが貧相な建物みたいな、そんな時期だった。

 ある日の夜、私は仕事から帰ったときに彼は部屋に居なかった。まあ、夕食には帰ってくるだろう、とご飯を作っていた。だが、料理を作り終えても帰ってくることはなく、また帰ってくる気配のない彼に多少の苛立ちを覚え、ご飯にラップを包み冷蔵庫に仕舞った。先にご飯を食べて帰りをぼうっと待っていた。するといきなりインターホンが部屋に響いた。夜の8時であった。彼かと思い、鍵と扉を開けた。そこに立っていたのは180cmばかりあるであろう細身の男警であった。慣れた笑顔で「こんばんは、警察のものなのですが、少しお時間よろしいでしょうか」と体を少し屈ませ、警察手帳を片手に言っていた。「何の御用でしょうか」と彼じゃなかった苛立ちをぶつける口調で言った。「最近あった、殺人未遂の事件のことなのですがこの辺で容疑者の目撃情報がありまして、この男なのですが」サイドポケットに手を入れ、一枚の写真を出してきた。彼であった。紛れもなく、寸分違わず彼の写真であった。私はかなり動揺し鼓動が一気に強く速く打つ。それと同時に猜疑心が胸を過った。「いいえ、知りません。」と白を切った。しかし警察は「ここ数週間、スーパーで2人分くらいの材料をいつも買われてますよね、なぜですか?部屋の中を見る限り2人で暮らしているようには見えませんが」と詰めてきた。私はドアをすぐにでも閉めたい衝動を抑え「女性1人が食べる食事を2人分って言うなんてデリカシーのかけらもないですね。」と言ってやった。まあ、嘘だが。すると警察はまた表情を慣れた反省の顔に組み替え「踏み込んだことを聞いてしまい、申し訳ございません。そうですか、分かりました。この男に見覚えがないと見えますので私は他の住人に当たってみます。」と隣人の部屋の方をチラと見て言った。「ああ、はい」警官にそんなこと言われたら返事はそれ位しか出てこなかった。「では」と頭を下げたので私も頭を気持ち程度下げ、ゆっくり玄関と鍵を閉めた。すぐに階段と靴がぶつかり合う音がしたために窓の方へ足音を立てぬように忍び、いつも彼がいる位置に座り、ナメクジが動くスピードくらいゆっくりと窓を開け外を覗き見た。先程と同じ警察が立っており、周囲を見渡した後こちらの方へ顔を向けた。暗くてよく見えず、その所為もあってか、目が合ったように思えた。しかし、今動くと逆に気付かれてしまうのではないかと思い、息を殺し体を凍らせた。たった2〜3秒のことがずうっと長く感じさせられ、蛇に睨まれた蛙の気持ちに心底同情した。警察は気付かなかった様子で、踵を返し道路の向こうの方へスタスタと歩いて行った。段々と闇に紛れるその背中はこの世の者じゃない様に思えた。警察が見えなくなった頃私は全身の力が抜け、床に砂の様に覆い被さった。心臓の激しい音が床を伝って耳に流れ込んでくる。段々と意識が遠のき、緊張と緩和とやらでそこに私は寝たらしかった。

 肩をトントンと叩かれ、体が驚きで跳ねて目を覚ました。「大丈夫ですか。体が痛くなりますよ」彼であった。その事に2度目の驚きを味わった。その私の姿を見て彼は肩半分、僅かに重心を低くした。そう見えた。伏し目がちな所は変わらなかったが伸びきった縮れ髪の間から眼がしっかりと私を捉えていた。「さっき、警察が来て、殺人未遂の容疑をあなたがかけられていると知ったのですけど、どういうことですか。」と、緊張していたためか、言葉はポツポツと歯切れ悪く、声色がやや低くなっていた。彼は表情、姿勢を一つも変えず「そうなんですね、少し、僕の過去の話を聞いてくれませんか」妙な話の切り口に私は類推を立て、話を聞いた。昔彼は幸せな3人家族であったそうだ。ひとりっ子であった為か、とても可愛がられ育てられた。小学五年生のある日、家に帰るといつも居る筈の母の姿は無く、彼は探し回った。リビング、台所、自分の部屋、物置、クローゼット、どこにもおらず、何処をとっても綺麗に整理されている事に不安を覚えながら隈なく探し、最後に風呂場へ行った。脱衣所に入った時に白い封筒が浴室のドアの前に静かに物言いたげに置かれてあった。宛名に父の名前が書かれていた。中身を恐る恐る見ると中から写真が数枚と便箋が入っていた。写真には父が母以外の見たことのない女と腕を組んで歩いている姿や、キスをしている姿、どこか綺麗な電飾があるビルから一緒に出て来ている姿が写し込まれていた。便箋には「貴方の愛を貰えないのなら、私はこの世に居られる意味は有りません。梓勇ごめんね。元気で居てね。さようなら。」と一部滲みながら震える文字で書いてあったそうだ。そうして、浴室から漂う気配を感じ、ドアに手を掛けた瞬間から記憶がなく、リビングで警察やら救急隊がバタバタと足音を喚かしている所で目を覚ましたとのことだった。結局彼の母親はアルコールと睡眠薬を多量に煽り、入水して自殺したらしい。父親に育てられないと考えた親戚は彼を養子に取り、大学卒業まで育ててくれたらしい。社会人になった後父親を見つけてそのまま衝動に駆られ殺そうとしたが、人の命を奪うことに怯えてしまい未遂になった様であった...。話を終えても男は俯いたままであった。「そうだったんですね、そんなことが、」「すみません、同情を引くつもりじゃなかったのですが、明日、出頭します」俯く彼は言い知れぬ後悔の念に押しつぶされそうであったと共に、どこか何かをまだ伝えられていない様なもどかしさをも抱えている様であった。私は彼の名前を初めて知ったと同時に時計に目をやると日付は変わっている事に気付いた。「遅いですけど、晩御飯食べてないなら有りますよ。」男は少し間を開け「もらいます」とだけ言った。ご飯を温め、彼の前に出した。漏れなく調味料を求める。私はその求めにすんなりと応じた。時計の針の音だけが鳴り、ゆっくりと時は過ぎた。就寝する時になり、明日は警察署の前までついて行ってあげようと思っていた。寝床に入り、今日感じた気持ちを吐き出す様にゆっくりとそして深く深呼吸をした。眠っていたこともあってか、今日の出来事の所為か、寝付けず、目を閉じたまま、あれこれと考えていた。1〜2時間経った頃であろうか、リビングの方から彼の足音が聞こえて来てゆっくり襖が開いた。今思えばその時私は彼が何をしようとしているのか分かっていたのかも知れない。彼は息を吸い「今までありがとう、僕を救ってくれた事、一生忘れません。」と言った。縋り付きたくなる程優しい声だった。少しの沈黙があり、彼は音が出ぬ様に着替えて家の玄関を開け、鍵を閉めた。ポストに鍵が入るかちゃりという音と共に静寂が訪れた。その時私は家を出ていった事を理解した。しかし彼を止めようとはせず、私は頭の中でとても少ないけれど、掛け替えのない彼との記憶を目一杯に広げていた。気付くと雫が頬を伝い、ボロボロと溢れ落ちていた。何の涙かは分からない。初めての感情に私は枕を濡らしていた。もっと何かとしてあげられたら良かったと都合よく思っていた。

 これが私の体験した夢だったかも知れない記憶だ。儚げだけれど鮮烈で大切な記憶。こうして、彼の座っていた窓辺で彼とのことを書くのはなんだかこそばゆく、木陰に休んでいる様な温かい気持ちになる。驟雨の中、郵便屋が私のポストに何か投函したらしい、音からするにハガキ程度の物だろう。そして私は、彼は猫じゃなかったのだと気付き、微笑んだ。

                    fin.

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