忘れないでいようと思う

 

 ソファに座っている彼女の背中は少し丸まっていて、僕は彼女の背中に顔を当てた。

「どうしたの? 寂しくなった?」

 彼女の背骨で僕の頬は少し凹んで、彼女の少しだけ温かい体温に耳を澄ませた。寂しくなったわけじゃない、と告げると、彼女はいつものように、そっか、とだけ言って、木製のローテーブルからコーヒーカップを手に取り、少しだけ音を立てて飲んだ。彼女の喉をコーヒーが流れる音を僕は静かに聞いていた。また会えたら何をしたいかと聞くと、彼女は直ぐに花を育てたいかな、と答えた。何の花? うーん、分からないけど青い花がいい。コーヒーを飲んだせいか、彼女の背中は先程より暖かくて、僕の頬も熱を帯びてきていた。騒ぎ出しそうな心に反して僕の身体はとても冷静で、心臓の鼓動一つ一つを取っても、僕は息をしていないと感じる程に落ち着いていた。アロマの匂いに交じって苦いコーヒーの匂いがして、確かに僕は彼女の隣にいると実感が湧いた。彼女の胸元まである茶髪は石鹸のような香りがして、一本一本が細く、少し頬がくすぐったかった。

「また会えたら、何したい?」

 今度は彼女が僕に聞いた。僕は考えてみたけれど、思いの外何も思いつかなかった。彼女としたいことなんて沢山あるはずなのに、僕の脳裏には彼女との思い出ばかりがよぎって、未来の想像はできなかった。数十秒後に僕は、僕はせめて君を忘れないでいようと思う。また会えたら、の話なんだから、思い出すでしょ。それともわたしのことなんて忘れる? 彼女は笑いながら僕に聞いた。忘れないでいようと思う。僕はそう答えることしかできなかった。背中からは彼女の感情は読み取れなかった。どんな表情をしているのかも、どんな目をしているのかも、僕には何もわからなかった。僕が左手を彼女の左の方の腰から出すと、彼女は小さな右手でその手を握った。やっぱり少しだけの温かみだけがあって、僕の冷たい手はジーンと痛んだ。

「いようと思う。か。忘れないよ、とは言ってくれないんだね」

 今度も彼女は笑いながらそう答えた。彼女はよく笑う人だけれど、表情は読み取れなかった。できない約束はしない、とかそういう話ではなくて、忘れないでいることよりも、忘れないでいよう、とそう思う事の方が僕は大事だと思うんだ。君らしいね、好きだよ、そういう君。僕らは常にくだらない日常の途中を行き来していて、彼女の指にはシンプルなシルバーのリングが光っている。ソファの横に堂々と置かれた観葉植物は小さな葉を緑と橙に色づけている。

「あのお皿、結局使わなかったね」

 彼女の言うお皿とは、一年ほど前に彼女がインテリアショップで気に入って購入したものだ。パスタが似合いそうな、中心が少し深くなっている真っ白なお皿は結局もったいなくて、飾られたままだった。

「でも、使われなかったものは使われないままでよかったんだよ」

 彼女は一呼吸おいて言った。彼女から香る柑橘系の匂いも僕はどこかで忘れていって、多分今しか覚えていることはできないのだ。彼女のしているネックレスのチェーンを右手で少し触ると、彼女はくすぐったい、と一言言って、少し笑った。僕のなぞった彼女の輪郭はぼやけていた。けれど、ぼやけているのが鮮明で、鮮明であることが僕にとってはぼやけになるのかもしれない。

「君は変わらず変なこと言うよね」

 そうかな? そうだよ、ずっと、わたしも忘れないでいようと思うよ、そういう君を。

 暖色のライトで覆われた部屋は少し薄暗くて、夕日が沈む頃に似ていて、彼女が夕日をみて、あれはね、沈んでいるじゃなくて上がっているんだよ、と言った事を思い出した。

 わたしたちも、同じ、上がっているんだよ、きっと。

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夜の話 香里天翔 @kosato-tensyo

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