夢の夢

 この日、わたしは悪夢を見て起きた。夢の内容こそ覚えていないけれど、酷く魘される夢だった事は覚えていた。時刻は二一時を過ぎていた。わたしにとっての朝であり、規則正しい人間たちで言うところの夜に値する。部屋の空気は重く、澱んでいて、微かに口の中に胃液を感じたので、ベッドから起き上がると直ぐに、窓を全開にした。マンションの三階からの景色なんてそんな奇麗ではなくて、丁度、カップルからコンビニ袋を片手に歩いていた。

 テレビを点けると、見たことのないドラマが流れて、自分自身が流行に乗っていないことを酷く悔しく感じた。ローテーブルに置きっぱなしになっている凹んだお酒の空き缶はわたしの顔にどこか雰囲気が似ているようだった。窓を開けているせいで、外を歩く人の声や、車の音、自転車の走る音がいつもより鮮明に空気を伝い耳に届いた。剥がれたペディキュアを見ても、もう塗り直そうという気力は湧かなくて、テーブルに置かれていたコンビニのバームクーヘンを食べることにした。しかし、パサパサで喉をスムーズに通らなかったので、冷蔵庫に唯一残っていたワインで流し込むことにした。

 寝起きで飲むワインはとても気持ちが悪く、直ぐに水道水で口を濯ぐ羽目になった。こういった生活のわたしを人は自堕落とか干物女だとか呼ぶけれど、わたしはそんな意識はなくて、自分流の私生活を真っ当に送っていると思っている。クローゼットに掛けられているクリーニング済みの五日分のスーツを見ると、普段わたしは真っ当だし、仕事もできる人間だと、改めて再確認ができるのだ。ので、自堕落でも干物女でも決っしてない。

 女性用の小さめの腕時計がテーブルで不愛想に秒針を鳴らしている。今の仕事は決して給料が悪い訳でも、環境が極端に悪い訳でもないけれど、居心地がいいかというとそんな事はなかった。わたしを嫌っている人も多くいる今の職場では毎日息が詰まる感覚と嗚咽を感じていた。夜に等身大のわたしが影と重なって歩いていた。街灯の明かりのせいで、ぼんやりとした陽炎のようなものが出来ていて、何となく、急ぎ足になっていくのが分かった。東京タワーって何故か好きにはなれなくて、そんなわたしは東京に住んでいるのが嫌味な気がして、家探しのサイトのネットサーフィンをし始めた。東京の少しどんよりとした決していい匂いとは言い難い空気を全身に吸い込んで、深呼吸を繰り返すと、いつもよりも幾ばくかの細胞が動いたのが分かって、途端に恥ずかしくなってきた。

 小川が静かに流れていて、わたしはその小川の流れに沿って足を進めていく。一軒のコンビニを通り過ぎると、小川はコンクリートの下になって、行き場を失ったわたしは当てもなく、いつか聞いた音楽を口ずさんだ。イヤフォンには何か流れていたけれど、スマートフォンを確認すると全曲再生されていて、音楽は止まっていた。月を掴んでみたいと思った事はありますか、高校生のわたしに大学生の男性が聞いた。昔はあります、と答えると男性は直ぐに、でも掴んでしまうとその先には何もないのが悲しいと僕は思います、と返した。男性は確か、宇宙研究会みたいな名前のサークル長だと名乗っていた。そんなにも前の事を何故今思い出したかは分からないけれど、月の出ていない空を眺めてみた。確かに、男性の言う通り、月は掴めない方がいいかもしれない。冷たくなってきた風が皮膚の表面をスキーのように滑っていって、身震いをした。わたしの言葉が誰かに届いて欲しいとも思うのだけれど、届いてしまうとそれ以上に誰かに届けたい言葉はなくて、いつもノートに書いては捨ててを繰り返して、わたしの言葉は一文字も変わる事なくループの中を泳いでいる。

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