第3話 もう一度
――ふっと瞼を持ち上げる。元々薄暗かった室内が、ますます暗くなっていた。東向きの間取りのこの部屋は、午後になるにつれ徐々に暗くなっていくのが特徴だ。
「……あれ? 私……あっ!」
ばっと枕から顔を上げて、私はスマートフォンを手繰り寄せる。表示された時刻は、まさにあれから三時間に差し掛かろうとしていて。
『ゆき、ゆき! あの人ね、エンディングで肩をぷるぷるさせてね』
『はわぁ、夢みたいだった……!』
『ちゃんと間に合ったから、顔も見られたよ! 写真撮れたらよかったのに!』
連投されているそれらの報告も、二十分程前だ。これでは鉢合わせるのも時間の問題かもしれない。
そうなんだ、よかったね――いつも通りの返事を素早く打ち込み、乱したベッドを整える。預けられていた鍵をポストへ入れると、新たに懐から取り出ししっかりと施錠した。
『後でまた来てよ! 話したいことがいーっぱいあるの!』
『しかたないなぁ。夜ご飯は何がいいの?』
『コールスローサラダ!』
「それは副菜でしょ、はなったら……」
近さ第一で物件を選んでおいてよかったと、心から思う。寝転んで乱れた髪も僅かに滲んだ汗も、夕食の材料を買いに行く時間として誤魔化せば整えられる。
コールスローサラダに合う主菜はなんだろうと考えながら、私は素早く服を脱ぎ落としシャワーを浴び始めた。
――次からは、枕を抱いて眠るのはやめておかないと。
そう反省してみるけれど――きっと私は、またやってしまうんだろう。
――彼女が費やした時間は、半年を超えていた。
幼い頃からの運動だとか、ダイエットだとか、肌や髪のケアを入れれば年単位になるだろう。だから私がいつもカウントするのは、彼女がこの世界のあの人を見つけ出し、少しずつアプローチ――本人がそう思っているかどうかが、基準ではあるけれど――を始めた時期からと決めている。
初めは見つけた瞬間に我慢出来なくなったり「こんなにかわいいから大丈夫!」と数日で終わったりと忙しなかったというのに、回数を重ねる度に、彼女は慎重になっていった。今度こそ、今度こそ――そう願う彼女の気持ちが日を重ねる度に強くなっていることも、わかっていた。
ふわふわと揺れ動く髪を撫で付けると、彼女は不意に大人しくなる。いつも賑やかな彼女が見せる、小さいけれど、確かなサイン。
それは、私が待ち侘びていた瞬間。
半年間、ずっとずっと待ち侘びて――ようやく訪れた日。
「――それで、今日はどうだったの」
身を乗り出して顔色を伺おうとすれば、明後日の方へ向いてしまう彼女。それでも強引に肩を引き寄せれば、「うわっ」という間抜けな声と共に、翡翠の瞳がこちらを向いた。
『……』
絡まる視線。櫛になっていた指先をそっと離し、その滑らかな頬へと触れて。鼻と鼻が擦れあいそうなくらいに顔を近付けて、ようやく――彼女は、ひくりと喉を鳴らした。
「……わたし、……また、だめだった……っ」
――待ってたよ。ずっと、待ってた。翡翠から零れ落ちていく雫を、私は指先でそっと拭う。
「こんなに、綺麗な髪になれたから……きっと好きになってくれるかなって、思ったのに」
「……私は前の髪も好きだけどなぁ」
「やだよ、巻いても巻いても戻っちゃうんだもん」
「あの時のはな、かわいかったね」
「かわいかったら失敗なんかしてないよ!」
両拳でぽふぽふと膝を叩く幼い仕草に、頬の緩みを抑えられない。――こんなにもかわいいこの子を好きにならないなんて、彼女の好きな人はどんな神経をしているのだろう。
「はなは自分のこと、かわいくないって思うの?」
「そうだよ。だって、まただめだったもん」
「かわいくないからとは限らないじゃない」
「限らなくない! もっとかわいくなきゃだめなの!」
「もう、欲張りだなぁ」
思わず笑ってしまえば、彼女の頬はぷくぅと膨らむ。頭から爪先まで全部がかわいいのに、彼女の欲求はやっぱり止まらないらしい。
「……ね、はな」
「なぁに? ゆき」
そっと頭を引き寄せるようにして抱きしめたら、彼女は何の違和感もない様子で擦り寄り返してくれる。今日は金木犀のコロンかな。好きな人の好きな匂いを模索して、変わっていく彼女の香り。
「また、繰り返すの?」
「うん」
「……どうしても?」
「もう、今更だなぁ」
――そう、約束したでしょ。
僅かに震える語尾。彼女を抱きしめる私の腕にぽつりと落ちて、じんわりと滲む熱。どんなに強く抱きしめても、どんなに優しく囁いても、この熱は増えるばかりで消えてくれない。
いつまでも消えなければいいのになぁ――なんて思う私の気持ちは、喉の奥にそっと仕舞い込んだ。
「……今度は……どうやるの?」
「お薬、買ってきたんだ。いくつくらいかな」
「うーん……一箱は要るんじゃないかな」
「そっか。じゃあまず、全部出さなきゃ」
「念の為、二箱目も出しとこっか。失敗したら苦しいもんね」
「ゆきがいるんだから、大丈夫だよ」
ぷち、ぷち。震える手で一つずつ取り出しては、からん、と皿の中に落ちていく白い粒。空っぽのプラスチックを持ったまま、こちらを見上げた彼女がへらりと笑った。
「さいごまで、見ててくれるもんね」
――今日も彼女の瞳は、眩しいくらいにきらきら輝いてる。思わず目を細めてしまいそうになるのをぐっと堪えて、私は小さく、首を縦に振る。
「うん。さいごまで、一緒に居るよ」
――温もりは、残っている。けれどそれは身体の芯の部分だけで、そっと絡めた指先は氷のように冷たい。
「はな」
全部の指を交差させて、冷え切ったその手を握り込む。
「はな?」
ぴくりとも動かない唇を、ゆっくりとなぞった。
「――はな」
こんな風に近付いても、彼女の
「ねぇ、はな」
ぴくりとも動かない体をベッドに引きずりあげて寝かせるのには、いつも苦労する。でも、最近はなんとなく慣れてきたから、苦ではなかった。
仰向けの彼女に重なり合うように、そっと抱きしめる。どんどん冷たくなっていく彼女の身体から、ほんの少しの温もりも取り逃がさないように、ぴったりと身体を重ねる。
「前の桜も、今の金木犀も……どっちも素敵だけど」
首筋に鼻を埋め、すん、と空気を揺らす。どんな花に隠されても、やっぱりそれは滲み出してくる。
「はなの匂いが、一番だよ」
なんでそれに気づかないのかなぁ。呟くようにそう口にしながら、私は隅々まで彼女を味わい尽くした。匂いも、味も、感触も。はなの好きな人は知らない。
私だけが知っている、はなの全て。
一体何時間そうしていたのだろう。締め切ったカーテンから光は差し込まないし、忌々しい
彼女の内側の温もりはとうに消え去って、私の温度をいくら移しても足りなくなってしまった。
――また、終わっちゃった。
唇から溢れるその声が、何だか幼稚に聞こえて。思わず私は、からからと笑い声をあげてしまう。
「……はな。次も楽しみだね」
残しておいた半分と、はなが残した水を手に持って。さっきはほんの少しあたたかかった唇を、もう一度ゆっくりとなぞった。
ああ、気持ち悪いなぁ。お腹の中がぐるぐると渦巻いて、血の気が引いていく。
はなも辛かった? ――そんなことないよね。私と一緒だったから、辛くなかったよね。
だって、はなの顔、こんなにも綺麗だよ。
小さなベッドに二人きり。繋いだままの手を、またそっと握りしめて。痺れる様に失われる力が抜けきってしまう前に――震える唇を、そっと耳朶に近づけた。
「愛してるよ。――花」
「――みてみて、ゆき! わたし、もっとかわいくなれたよ!」
きらきらと輝く
これじゃあ今度こそ成功しちゃうなぁ。まだ上手に動かせない小さな子どもの手で、私は彼女の手をそっと握った。
「つぎも、がんばろうね」
「うん!」
次は何のお花にしようかなぁ。うきうきと考えを巡らせる彼女の手をふわふわと揺らしながら、私もまた、考える。
ああ、はやくあの日のきらきらを――もう一度見たいなぁ。
いちばんきらきらの日 黒詩ろくろ @kuro46ro
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