【2】――助けて。

夫であるルシウス様の命令に従い、私は彼と共に王都のサロンへと出向いている。


でも私はパーティが始まってすぐ、社交場の熱気にあてられてしまった。吐き気を催して、今は会場の隅の椅子で休憩している。一方のルシウス様は、私を気遣うそぶりも見せない。


パーティが始まるや否や、彼は私のそばから離れてしまった。今はきらびやかな美貌を一層輝かせて、他の参加者たちと談笑している真っ最中だ。


(……それなら、連れて来なければいいのに)

体調不良を押して夜会に参加したのに。こんな目に遭うなら、屋敷に閉じこもっていたかった。


(どうして私を呼び出したのかしら? もしかして、疎外感を味わわせて嫌がらせをするため……とか?)

流石にそんなくだらないことはやらないわよね……と思いつつ、あながち外れでもない気がしてきた。


この夫は、非常に陰湿な性格なのである。


表向きはニコニコしていながら、二人きりになったときにだけ、ねっとりした声で私の悪口を言う。『カラスのような黒髪が汚らしい』とか、『貧乏の匂いが染み付いている』とか。

子供の嫌がらせでもあるまいし、大の大人が……しかも公爵家の当主ともあろうお方がそんな暴言を吐いてくるなんて。最初は自分の耳を疑った。


(ルシウス様は最初から、王命で取り決められたこの結婚を嫌がっていたものね。弱小貴族であるノイリス家と縁づくメリットなんて、何もないから……)


ノイリス伯爵家の経営状況はもともと厳しかったが、災禍の竜の被害によって今や破綻寸前だ。他家や商会などから多大な借金をして、なんとかやりくりしているのが現状である。そんな家との縁談を押し付けられれれば、たしかに迷惑には違いない……。


とはいえルシウス様の私への扱いは、あまりにひどい。


結婚初夜の晩に『君のような田舎者を愛する気はない』と宣告されたことを、私は生涯忘れないだろう。彼はそのとき、『クラーヴァル家と縁付けて、さぞや嬉しいだろう? せいぜい今のうちに喜んでおくといいよ』とも言っていた。


ネズミをいたぶる野良猫のような、ルシウス様の冷たい瞳。今思い返してもぞっとする。


(本当に……とんでもない人と結婚してしまったわ)


すっかり疲れ切っていた私は、椅子にもたれて夜会を眺めていた。――そのとき。




「ごきげんよう、ヴィオラ奥様」

と、張りのある女性の声が響く。


深紅のドレスを纏った妖艶な女性が、私に話しかけてきた。彼女はこの夜会の主催者、ローザ・フラメ女伯爵だ。


国内有数の大商会の会長として名の知れた人物であり、彼女が営む商会と夫は懇意にしているらしい。……『商会だけではなく、ローザ様自身とも懇意にしている』という噂を、屋敷の使用人たちが話しているのを耳にしたことがある。



「ごきげんよう、フラメ女伯爵閣下」

「あら、お顔の色が悪いみたい。無理をなさらず、楽になさって頂戴ね?」

大輪のバラのような笑みを咲かせて、フラメ女伯爵は介抱するようなしぐさで私に近寄って来た。……そして、私に耳打ちしたのだ。


「あなたのようなには、都会の空気は合わないでしょう? そろそろご実家が恋しいのではなくて? 瘴気に汚染された土地でも、やっぱり故郷は恋しいでしょう?」

「……!?」


私は、顔色を変えた。

フラメ女伯爵は、にっこりと笑っている。


「単刀直入に言わせてもらうけれど、あなたとルシウス様ではあまりに不釣り合いだわ。いい加減、ルシウス様を自由にして差し上げなさいな。ルシウス様も、それを望んでいるわよ?」


「いきなり……何を」


フラメ女伯爵は気さくそうな笑みを浮かべ、私にしか聞こえないような声で辛辣な言葉を吐いてきた。周囲の人から見れば、ただ談笑しているように見えるかもしれない。


ハッとして、私は会場内のルシウス様を見つめた。

彼は意味ありげな笑みを一瞬私に向けてから、すぐに目をそらしてしまった。



(――まさか本当に、嫌がらせをするため呼びつけたの!? 恋人主催のパーティに?)


なんて馬鹿げた嫌がらせなの!?

怒りと屈辱で、体が震えだしそうになった。


ふるえを必死にこらえながら、私はまっすぐフラメ女伯爵を見つめた。


「夫と私の婚姻は、国王陛下がお決めになったことです」

「そんなこと、もちろん知っているわ。とっても有名な話だもの。『救国の英雄』への褒賞の一つとして、この婚姻が取り決められたのよね?」


承知の上で、わざと離婚を申し出るようにと促しているのね……本当にたちが悪い。


ルシウス様は私を酷く嫌っているが、自分から離縁を申し出たりはしない。国王陛下の取り決めた結婚を、「気に入らないから」と言う理由で反故にするわけにはいかないからだ。

だから、「離縁してください」と言わせたいのだろう。


(私だって、ルシウス様なんて大嫌いよ! 別れたくてたまらない。……でも、私から離縁を申し出るのは無理だわ)


当然ながら、王命に背くのはとんでもない非礼だ。王の不信を買い、他家からの信頼失墜も免れない。私が離婚を申し出たりしたら、実家がどれほどの害を被るか……!


お家取り潰しまでは行かないかもしれないが、多方面に実害が生じるのは間違いない。ノイリス家は他家や複数の商会からの借り入れで何とか破綻を免れている状況だから、信頼を失えばあっという間に没落してしまう。


だから私は絶対、離婚を申し出たりできない。


ぎゅっと拳を握りしめて口をつぐんでいる私に、追い打ちをかけるようにフラメ女伯爵は言った。


がいたというだけで、ステキな旦那様のもとへ嫁げたんだもの……本当にあなたって、運が良いのねぇ」


――飼い犬?


彼女の言わんとすることを理解した瞬間、血が沸騰しそうになった。


「……飼い犬ですって?」

「ええ。もちろん『救国の騎士エデン・アーヴィス』のことよ。王国騎士団に入る前は、あなたが飼い主だったんでしょう?」


侮蔑の言葉に、呼吸が乱れた。


「彼、平民の孤児だったんでしょ? それを拾ったのがあなたのお父様で、躾けてあなたの護衛騎士にしたのよね? お父様は審美眼をお持ちなのねぇ、まさか平民の孤児が国一番の騎士になるなんて!」


まるで、子供向けのおとぎ話みたいよねぇ……と、彼女は意地悪な声音で言った。


「王立騎士団の竜伐隊に召集された彼は、災禍の竜との戦いで目覚ましい戦果を挙げ――そして、最後は名誉の戦死。死んだ彼に代わって、飼い主だったあなた達ノイリス家が国王陛下から褒賞を受けた。そうでしょう?」



――やめて。

そう、怒鳴りたくなった。



「良いタイミングで死んでくれて、良かったわね? 没落寸前の貧乏貴族の名を挙げて、あと腐れなく死ぬなんて、なんて忠実な飼い犬だったのかしら。しかも彼、すごく美形で有名だった。私にもあんな犬が欲しかったわぁ」


「いい加減にしてください!」


ついに声を張り上げてしまった。

周囲の人の目が、一斉に私に集まった。人々には、私が一方的にフラメ女伯爵に絡んでいるように見えるかもしれない――でも、かまわない。

エデンを侮辱する人を、私は絶対に許さない。


「救国の英雄への侮辱は許しません。エデン・アーヴィスやその他大勢の犠牲の上に、今のセルマ王国は成り立っているのですよ!? 『災禍の竜』による直接的な汚染被害を受けたのは、私の故郷を含めた南部六領のみですが……あなた方にとっても対岸の火事ではなかったはずです。この国を救った彼や、その仲間たちへの非礼を詫びてください!」


――胸が、苦しい。

ぜいぜいと息を荒らげていると、フラメ女伯爵は大げさな身振りで私を気遣うそぶりを見せた。


「あらあら、落ち着いてくださいな! 少しからかっただけなのに……ヴィオラ奥様って、本当に可愛らしいわ! 体調もすぐれないようだし、少しお休みになったらいかが? 休憩室にご案内しますわね」


フラメ女伯爵は給仕の男性を呼びつけ、私に休憩室へ行くよう促した。


(……何なのかしら。私を怒らせたり、会場から追い出したり。本当に不愉快な人)

 

動悸がひどい。

このままここに居たら、本当に倒れてしまいそうだ。

悔しさでいっぱいになりながら、私は給仕係に案内されて休憩室に向かって行った。




案内された休憩室で、ソソファに腰を下ろして息をつく。そのとき――。


かちゃり。

と小さな音がした。給仕係の男が、休憩室の内カギを閉めている。

「……なぜカギを?」



男はニタニタと嫌らしい笑みを浮かべて、私を振り返った。――その笑みに、生理的な嫌悪感を覚える。


ルシウス様が私を夜会に呼びつけた理由。わざと煽るようなフラメ女伯爵の発言。

それらへの答えを、私はようやく理解した。



(まさか……この男に私を襲わせる気なの!?)


単に「気に入らない」という理由でルシウス様から離婚を申し出たら、王の不信を買ってしまう。しかし妻の不貞が理由なら、話は別だ……。


(私の【不貞行為】をでっちあげるために!? そんなバカげた理由のために、私を夜会に呼びつけたの!?)


耳ざとい貴族が大勢集まった、王都の社交場で。

私を酷い目に遭わせてから、でっちあげの不貞の現場を誰かに見つけさせる……そんなバカげたことをする気なの!?


男は下卑た笑みを顔面にこびりつかせ、わたしの前までやって来た。悲鳴を上げる前に、口を押さえらえてしまう。


(――いやっ、やめて!)


絶望と恐怖が迫る。

無理やりソファに押し倒されて、どろりと欲望の色に濁った眼がすぐ目の前に。

汚らわしい手が伸びてくる。



助けて。


涙があふれて、体がカタカタふるえ出す。

きつく閉じたまぶたの裏に、なぜかエデンの姿が浮かんだ。銀の髪を風にそよがせ、凛々しく笑う彼の姿が。

……でも、だめだ。

エデンはいない。死んでしまった。

でも、でも、



(――助けて、エデン!!)



次の瞬間。

私の体は

意識がぐいっと心の奥底に引きずり込まれ、同時に体は勝手に動く。全身のバネを使って大きく屈伸、男のみぞおちに強烈な膝蹴りを加えた。


(……え!?)


悶絶する男を蹴り倒し、私の体は勝手にソファから起き上がる。――勝手にだ。


(いったいどうなっているの!?)


私の体を、誰かが勝手に動かしている。


「下郎が。ヴィオラ様に触れるな!!」

……と勇ましく叫びながら、『私』は男に強烈な殴打を加え、躊躇なく蹴りつけていた。手足がじんと痺れたが、それでも『私』は攻撃をやめない。


体の感覚があるのに、なんだかフワフワした感じだ。

私は今、真っ白な空間から自分の眼を通して世界を眺めている。映像は少し靄がかっていて、なんだかいつもより遠い。悲鳴を上げて逃げまどう男の襟首を、『私』が掴んで引きずり倒しているのが見えた。


「よくもヴィオラ様にこんな無体を……!」


男は、ついに白目を剥いて気絶してしまった。


「地獄で悔いろ、下郎が。このエデン・アーヴィスの目の黒いうちは、ヴィオラ様に指一本触れさせはしない」


エデン・アーヴィス?

『私』は男を踏みつけながら、はっきりとした声でそう言った――。

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