6 煙草
「わあ、真っ暗」
アキラが驚いた声を上げる。
公会堂は平屋で、地区の中央部にある。
真紀たちが住んでいる隣保とは違い、このあたりは昔ながらの街並みだ。道は細く、車は行き違うことができないので、どちらかがかなりバックして空き地を見つけて待機するしかない。
そんな道には当然街灯もほぼなく、夜にこうやって地区の用事で出歩く時は懐中電灯必須だ。
今日は特に曇っていて月明りも星もない。
まだ8時だというのにねっとりとした闇が周囲を支配していた。
「懐中電灯は?」
真紀がポケットから小型のライトを取り出した。
「割と夜目がきくからいいか、と思ったんですが」
失敗だなとアキラが呟くから真紀はくすりと笑った。
「私も昔はそう思っていました。深夜でもあるまいし、って。だけど」
「以外に闇が濃い」
「そうそう」
真紀は笑い、懐中電灯で道を照らしながら歩き始めた。
道を挟んで家はあるのだが、そこから光が漏れるということがない。雨戸を閉めていることもあるし、最近は家に住んでいる人間も減っているので使用している部屋が限られるせいで明かりが漏れない。
そのせいで、公会堂から真紀の家までは一本道だというのに、闇色に濡れて先が見えない。
懐中電灯の明かりだけが白く切り取った画用紙のように道路に浮かんでいた。
「おいくつなんですか?」
無言なのも変かな、と当たり障りのない話題を振る。
「24です。ヒオは28だったかな。……いや、5つ上だったかな」
「じゃあ、息子や娘たちと同じぐらいねぇ。うちも早く誰か連れてこないかしら」
「将来的にお子さんは事業を継がれるんですか?」
「まさか。ふたりとも今の会社で満足らしいから」
継ぐわけないわよと手をひらひらさせながら、ふと、どうして彼女は山下家が呉服屋を営んでいることを知っているのだろうと気づいた。
「え……っと」
誰かから聞いたの、と尋ねようとした真紀の耳は。
ひたひたひたひた、と。
近づいて来る足音に気づいた。
ひたひたひたひたという音に混じり、アスファルト上の小石を靴が噛む、じゃっという音が割と近くで聞こえて肩を震わせた。
首だけねじって振り返る。
だが。
そこにあるのは濃密な闇だけ。
それなのに。
ひたひたひたひたひた、と。
確実に足音はすぐそばまで来ていた。
「山下さん」
いきなり腕を掴まれ、危うく真紀は悲鳴を上げかけた。手に持っていた懐中電灯を取り落とし、カランとそれは地面に転がってあらぬ方を照らす。
「な、なにをするんですっ」
真紀はアキラに怒鳴る。
だが「しっ」と彼女は命じた。ぎらり、と。月光もないのに彼女の瞳は強く輝き、真紀を射すくめる。そして真紀の腕を引っ張った。
「道のわきに寄ってください。そう」
言われるまま、ぴたりとアキラに寄り添った。じっとりと空気が湿度を増すのに、彼女の周りだけはまるでさらりと乾いている。
ひたひたひたひたひたひた。
足音はすぐそばまで来ていて、思わず逃げようともがく真紀をアキラはがっしりと抱きすくめる。
「じっとして」
耳元でそう囁かれると、まるで催眠術にでもかけられたように真紀は動きを止めた。
ひたひたひたひたひたひたひたひた。
足音はもうすぐそこだ。
ひたひたひたひ、た、ひ た ひ た ひ た
徐々に速度は緩み、その足音は真紀とアキラのところで止まろうとしたのだが。
「どうぞお先に」
アキラが冷淡に命じる。
まるで誘導されたかのように。
足音はふたたび速度を戻した。
ひ た ひ た ひた ひた ひたひたひた
そうして、懐中電灯が白く伸ばす光を飛び越え、ひたひたひたひたひたひた、と歩き去る。
「……行った?」
足音が消え去るまでじっと息をひそめていた真紀は、上目遣いにアキラを見上げる。
「みたいですね」
にこりとほほ笑まれ、ようやく自分がアキラに抱きついていることに気が付いて真紀は顔を赤くして飛び離れた。
「す、すみません」
「いえ、なんてことないですよ」
アキラは言い、腰をかがめて真紀が取り落とした懐中電灯に手を伸ばす。
そのとき、こちらに向かって駆けて来る足音が再び聞こえて真紀は身を竦めたが、
「アキラー! いる?」
ヒオだ。
呼びかける声にアキラが懐中電灯を向けると、公会堂の方から手を振りながらヒオが走ってやって来た。
「よかった、間に合って。ぼくも一緒に帰るよ」
人懐っこく笑うヒオに、アキラは仏頂面のまま告げた。
「煙草ある?」
「あるよ。使うの?」
「吸いながら後ろからついてきて」
それだけ言うと、アキラは真紀に懐中電灯を差し出した。おずおずと受け取ると、アキラは少しだけ微笑む。
「たぶん、一体じゃない。まだいるから煙草で追いやろうと思って」
「煙草で……ですか?」
「煙、大丈夫ですか?」
訝しむ真紀に、ヒオが尋ねる。もうすでに煙草を指で挟み、ジッポライタ―を持っていた。
「いえ。あの……主人も昔吸ってましたから」
「そうですか。あ、携帯灰皿も持っているのでご安心を」
にっこり笑ってヒオが見せたのは、真紀がイメージしていた袋タイプではなかった。懐中時計のような金属製で、ベルトにカラビナでつながっていた。
「煙草の煙は魔除けになるんですよ」
「煙草が?」
眉根を寄せる真紀を促し、アキラは苦笑いする。
「いまじゃ人間の方が忌み嫌っていますが、昔は動物やあやかしを遠ざけたんです」
真紀を促してふたたび家まで歩きながらアキラは続ける。
「電灯なんてない山道を行商人が通る時、彼等は後ろからの足音に気づいたらいろんな方法でそれをやり過ごした」
「例えば?」
好奇心から尋ねる。
「一番に気を付けたのは、決して走らない、ということ。歩く速度を保ったまま山道を抜けるか、あるいは途中で足を止め、煙草を吸う。もし、追いつかれたら」
「追いつかれたら?」
「『どうぞ先にお越し』と道を譲る。そうやって危険から身を守ったんです」
危険から身を守る。
いったい、どんな危険からだというのか。
きづけばふわりとくもの糸のようなものが真紀の周囲に漂っていた。紫煙だと気づいたのは、その香りからだ。
真紀は懐中電灯でアスファルトを照らしながら、ざくざくと夜道をアキラと並んで歩いた。背後からは、ヒオがふうと長い息を吐く音がして、また煙草の香りが濃くなる。
「不躾で申し訳ないのですが」
アキラの声に目を向けると、彼女は気遣うように真紀を見ていた。
「最近、なにか怪異が起こっていませんか?」
「怪異……」
とっさに頭に浮かんだのはあの来訪者たちのことだ。
「自治会長から相談があったのですが、山下家には頻繁に見知らぬ人が尋ねてくるとか」
「そうなの!」
思わず足を止め、懐中電灯をアキラに向けてしまった。
「あ、ごめんなさい!」
慌ててライトを下げるが、アキラは気分を害したわけでもなく笑って見せる。
「橋元、銀杏、山端って三人なんだけど。あの人たちはいったいなんなの? 水地さんご存じ?」
「アキラでいいですよ。歩きながら話しましょう」
アキラがそっと真紀の背を押す。その手にいざなわれるようにして真紀は夜道を再び家に向かって歩きはじめた。
「いま、山下さんがおっしゃったのは苗字というより屋号なんでしょう」
アキラの声に紫煙が乗る。黙っているがヒオもすぐ後ろからついて歩いているので真紀にとっては非常に心強かった。
「屋号っていうと……お店の名前みたいな?」
真紀が尋ねると、アキラはうなずく。
「企業名だったりペンネームをさしたりしますが、農村部や漁村ではその家々が持っているニックネームのような役割を果たしたりします。地域のほとんどが同じ苗字だった場合、個人を特定するのは難しいですからね。例えば井口という苗字でありながら、地域では別の名前……そうですね。村の入り口にあるのなら、『むらぐち』や『さかい』と呼ばれたりします。それが屋号だったりするんですが」
なるほどと真紀は納得した。この地区でも高齢者たちは屋号とまでは言わないが下の名前で呼び合う。それはやはり同じ苗字が多いというのもあるのだろう。
「山下さんのおうちに訪問する人たちは、橋元、銀杏、山端と自分たちを称した。これも屋号とするのなら」
アキラの言葉は煙草の煙のように真紀をとりまく。
はしもと、いちょう、やまばた。
「このみっつは関連性が高い。山下さん、なにか……」
「祠……」
我知らずにつぶやいた。
そうだ。
橋の下に、権現の銀杏の木の下に、山の登山口に。
この地区にはみっつの祠があるのだ。
「それぞれの祠に祀られているものが山下家に訪問していると考えられます。そしてそれは大変へそを曲げている」
とっさにアキラに視線を向けると、彼女は苦笑いをしていた。
「特に橋の下にある祠の方は大変お怒りのようで取水口をふさぎ、田んぼに水をいれないぞと言わんばかりの勢いだ」
真紀の脳裏に浮かんだのは溝にぎっしりと詰められた枝や葉っぱだ。
「あれは……どうして? いったいなにがその……祠には?」
真紀も当番があたって何度か掃除をしたことがある。
隣保長が手を合わせて祠を開き、内部を水拭きしたこともあった。だが、特にこれといって仏像やお札があるわけではなく、丸い石ころがふたつみっつ入っているだけで拍子抜けした覚えがある。
「実際にこの地にお迎えしたのは神職や僧侶ではなく、この地の代表者のようですね。だから特に『〇〇が祀られている』とは記録に残っていませんが……」
アキラはちらりと背後に視線を向けた。
「ヒオ、もう煙草はいい。大丈夫」
どうやら一本吸い終わったらしい。「はいはい」とヒオの返事に続き、金属製の蓋が跳ね上げる音がした。あの携帯灰皿だろう。
「人に化けたり、こうやって夜道をついてきたり、田んぼにいたずらをするとなると……」
アキラはそこで口を閉じる。
もったいぶったわけではなく、前方から足音が聞こえてきたからだ。
方向は真紀の家がある方向。
最前のような、ひたひたひたひたという足音ではなく、荒々しく騒がしい足音。
そしてそれはすぐに闇を割って姿を現した。
「で、出たー!」
そう言って真紀に抱き着いてきたのは、夫の信二だった。
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