4 溝掃除

 二週間後。

 回覧板で周知された溝掃除の日。


「え! じゃあずっとその二人組来てるの⁉」

 鈴木はジョレンで溝の泥をすくう手をとめ、顔を上げた。


「……そうなの。最近は怖くなって、インターフォンが鳴っても出ないようにしてる」


 真紀はてみに入れた泥を脇によけると、腰を伸ばして軍手についた泥をはたいた。


「うちのエスが吠えるはずだわ」

 呆れたように鈴木は言い、軍手の甲側で額に浮かぶ汗を拭う。


「で? ご主人はその訪問者を知らないって?」

「そうなの。鈴木さんはなにかご存じ? 最近は三人で来るのよ」


「増えてるじゃん」

 鈴木が顔をしかめる。


「そうなの。なんかねぇ、橋元って人と、銀杏って人と……。山端」


 真紀はため息を漏らした。

 最近では男が三人連れ立ってやって来て「挨拶をしろ」と迫るのだ。


 うちは20年前からここに住んでいる山下というものだと怒鳴ると、「お前の話じゃない」とバカにしたように笑う。


 だったら誰のことなのだと問うと、「そこにいるだろう」というから気味が悪い。


「んー……なんか聞き覚えがあるようなないような……。なんだろうな」


 鈴木は腕を組んで首をかしげていたが、はたと顔を向けた。


「あれじゃない? ほら、この前旦那さん、テレビにも出てたじゃない? その関係かも」


 鈴木はそういうが、テレビに出た、と言ってもニュース番組でコメントを求められた程度だ。


 信二が地元の高校とタイアップして行った着物ショーのことだ。

 現代風にアレンジし、しかも着付けしやすいようにかなり工夫した作品だったため、地域版で扱われたのだ。


「確かに最近売り上げは急上昇なんだけど……。でもねぇ」

 呟くと、鈴木が「うらやましい」と屈託なく笑った。


「うちも言ってみたいわ。売上急上昇」

「鈴木さんのところは大手企業にご主人がお務めだから安泰よ。うちは自営業よ、自営業」


「やりがいあるじゃん。こうほら、努力が実を結ぶっていうの?」


 ふと、鈴木の言葉が胸にひっかかった。


 努力を……したのだろうか、あの人は。


 確かに今回のアレンジ着物は画期的だと思う。だがそれも誰かからの受け売りだったのではなかったか。


「……そうなのかなぁ。努力してたのかなぁ、あのひと」

 ついそんなことを言うと、ばしりと背中をたたかれた。


「そうよう。妻の知らないところでやってたんだって。あ、でもさ。怖がらせるわけじゃないけど。ほら、好事魔多しっていうでしょう? だから、その……なんだ、訪問者? それには重々気を付けるほうがいいわよ」


「好事魔多し、か……」


 そうかもしれない。

 良いことばかりが続くと、あっさり落とし穴に落ちることもある。改めてこのあたりで気を引き締めた方がいいかも。


「一度、警察に相談してみたら?」

 鈴木の提案に首を縦に振った時だ。


「うわ、なんだこれ!」

 野太い声が聞こえて顔を向ける。


「やべぇな」

「おい、誰か自治会長呼んで来い」


 高齢の男性たちが口々に何か言っていた。


「なんだろう」

「橋のほうだよね。あー、あれかな。あそこのお宮の掃除がまだとか? 今年の担当隣保はどこよー」


 鈴木が顔をしかめた。


 ふたりが掃除している溝は、大橋と呼ばれる川から農業用水を流し込むためのものだった。


 そこには古びた祠があり、地域では「お宮」と呼んでいた。祭り時期になると、この大橋のお宮と権現が祀られている神社の境内にあるお宮、それから山の登山口にあるお宮のみっつを掃除することになっている。


「あ。違うみたいよ? なんか取水口がどうとかこうとか」


 男性たちは、その取水口のあたりでなにやら騒いでいるようだ。

 真紀は鈴木と顔を見合わせ、それから一緒に騒ぎの方に近づいて行く。


「おっちゃん。どうしたの?」


 鈴木が声をかけると、色黒の70代男性が振り返る。こういうときは真紀が話しかけるより、「地の人」である鈴木の方がいいことを経験で知っていた。


「お。さっちゃんかい。いや、それがさぁ、こいつはやべぇな」


 身をかわすようにして溝を見せる。

 真紀も鈴木と一緒に覗き込んだ。


 取水口にもなる溝は、そこだけ鉄板とコンクリで覆い蓋がしてある。

 いま、男性たちの手によってそれが取り除かれると。


 木の葉や枝、小石でいっぱいになっていた。

 とてもじゃないが、これでは川から農業用水は入ってこない。


「誰かのいたずらですか?」


 20年ばかり溝掃除をしてきたが、こんなのは初めてだ。おっかなびっくりに高齢男性に尋ねると、首を横に振られた。


「俺もガキの頃以来に久しぶりにみたが……。こりゃあやべぇな」

「やばいって?」


 鈴木が尋ねると、高齢男性は口をへの字に曲げ、眉間に深い皺を作った。


「怒ってる」

「怒る? 誰が」


 きょとんとした顔で問う鈴木に、高齢男性が何か言おうとしたとき、慌ただしく近づく一団があった。


 先頭にいるのは自治会長だ。首にタオルを巻き、長靴を履いた格好ではあるが、真剣な表情で駆け寄って来る。


「おう。どいてやってくれ。自治会長、これ見ろ!」


 80代と思しき男性が取水口付近で声を上げる。真紀は鈴木に腕を取られて端に寄る。自治会長とその一団はその横を通り過ぎ、溝の状態を見て愕然とした。


「これは……まずいな」

「だけどなんもしてないぞ」


「そうだ。ちゃんと神事は行っている」

「コロナ禍のときでさえ、ちゃんと説明したらわかってくれていたのに……」


 額をつき合わせるようにして男たちが話し合っている。


「なあ、あんた。えっと山下さんかい?」


 名前を呼ばれて視線を向けると、鈴木を「さっちゃん」と呼んだ高齢男性だ。

 ジョレンの柄にもたれかかるようにして真紀を見ていた。


「そう……ですが?」

「あんた、ここんところ羽振りがいいんだってな。この前、車の営業マンも来ていたし、テレビにも出たって。呉服屋が儲かっているんだって?」


 少し白濁した目で見つめられ、真紀は居心地の悪さを感じた。


 だから田舎はイヤだ。

 誰かがずっと監視の視線を向けて来る。そしてそれが噂となり、ひいては娯楽になるのだ。


「ちょっと」


 真紀が黙ったままだったからだろう。鈴木が非難口調でつっかかると、高齢男性はあっさり引き下がった。


「いや、悪い。あれなんだ。その羽振りがいい原因や理由をあんたが知っているんなら問題ないんだよ」

「どういうことよ」


 鈴木が幼い頃からの知り合いなのだろう。口ぶりに容赦がない。


「なんも努力してないのにさ、いきなり大量のカネが入ってきたってんなら、これ……」


 薄く靄をかけたような高齢男性の瞳が細まる。


「あんたんところ、なんかを呼んだんじゃないのかい?」

「呼ぶ……?」


 なにを、だ。


「あ、そうだ。ねえ、最近さぁ、山下さんのところに変な人たちが来るんだって。おっちゃん、なんかわかんない? えっとね。橋元に銀杏に……なんだっけ?」

「山端」


 鈴木に促されて真紀が答えたとき、高齢の男性は目に見えて狼狽した。


「まずい! おい、かっちゃん……じゃねぇ、自治会長!」


 高齢男性は自治会長のところにすっ飛んでいくと、何事か耳打ちしたようだ。自治会長も目を見開き、周囲に対して大きく手を振った。


「悪いが今日は解散だ! 使った道具は水道で洗って道具入れに戻してくれ、そっちは源ちゃん、頼んだぞ!」


 源ちゃん、と呼ばれたのはさっきまで真紀たちと話していた高齢男性だった。「おうよ!」と片手を上げてさっさと水道場の方に行ってしまった。


 そのまま、なんとなくお開きになった。

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