3 形見の品
その日の晩。
「ただいま」
信二の声が聞こえるや否や、真紀はリビングから飛び出して玄関に向かった。
「ちょっと。今日お義姉さんから電話があったんだけど」
腰に両手を当て、革靴を脱ごうとしている信二を睥睨する。
「形見分けでなにをもらったの」
「え? お前には関係ないよ。お父さんと約束していたものだよ」
信二はきょとんとした顔で答える。
「俺が死んだらやるよって言われてたやつ。お守り的な」
「金目のものじゃないんでしょうね」
「違うよ」
びっくりしたように目を丸くするが、逆に真紀は目をすがめた。
「今日、ポストに営業マンからの名刺とカタログが入ってたんだけど」
「……え? 車の?」
戸惑う信二に、真紀はゆっくりとうなずく。
「そんなお金、どこにあるのよ。『先日はありがとうございます。ぜひ色よいお返事を』ってメモがついてたけど」
「いやあ……ほら。最近、業績いいからさ」
「ちょっと待ってよ! だったら家のローンを先に返したんだけど!」
なぜ車なのか。
いやそもそも、なぜ自分に相談もせずそんな大きな買い物をしようとするのか。
頭を掻きむしりたくなるのを必死にこらえていると、ごまかすように信二が回覧板を突き付けた。
「それよりこれ。郵便受けに入ってた」
「車は買わないわよ」
「……も、もちろん。なにかするときはお前に相談するしな」
真紀は大きなため息をついてから回覧板を受け取った。
「……ありがとう。広報はこの前入っていたから……。なにかしら」
二つ折りになった厚紙を開く。クリップに留められているA4のコピー用紙には『一斉清掃のお知らせ』と書いてあった。
田畑の引水で使用する用水路を掃除するらしい。
「用水路の掃除ですって。二週間後」
「へえ」
信二は気のない返事をしてスーツを脱ぎ、真紀に押し付ける。
「あなた、今度こそ出てよね」
「なんで俺が。仕事だよ」
目を丸くする夫を真紀は睨む。
「ちょっとぐらいどうにかなるでしょう? だいたい、朝7時からなんだから。溝掃除してからお店に行けばいいじゃない。開店は10時なんだし」
「仕事前に力仕事なんて嫌だよ。だいたい自治会のひとなんて知り合いいないし。お前の方が適任だろう?」
「男の人ばっかりなのよ? 私だけ毎年肩身が狭い思いしているのに!」
「鈴木さんの奥さんは出てきてくれるんだろう?」
「それは鈴木さんが気を使ってくれているのよ!」
イライラしながら真紀は答える。
用水路の清掃や、盆暮れに行われるみっつの御宮の掃除は自治会員全員で行う。
掃除用具や農具を持って参加するのはほぼ男性だ。
最初、真紀が参加した時自治会のみんなは驚き、「母子家庭なのか?」と問うたぐらいだった。
状況を察した鈴木が「私も行くよー」と声をかけてくれてようやく肩身の狭い思いをしなくはなったが、「やっぱりよそ者は違うなぁ」と面と向かって言われることも多い。
「他の家はみんな男性だ」と訴えても、信二は「仕事」を理由に全く参加するつもりはない。それは20年以上たったいまもそうだ。
「とにかくお前が参加しろよ。専業主婦なんだしさ」
「だったら、仕事をしているあなたがあの訪問者を対応してよね!」
怒鳴りつけると、信二は不思議そうに目をまたたかせる。
そこで真紀は、昨日夕飯前にやってきた男性ふたり組の話をしてみせたのだ。
「橋元と銀杏? 知らんなぁ」
だが信二はネクタイを外しながら訝し気な顔をするばかりだ。
「どんな奴だった? 年恰好とか」
ほどいたネクタイを無造作に放り出し、ソファに座る。そもそも自分で片付けようとしないのが腹立だしいが、結婚してからずっと注意してもなおらない。最近はもうあきらめていた。
「30代半ばかしら」
「顔とかは? なんか特徴は?」
言われて、真紀はふと動きを止める。肘に夫のスーツの上着をかけ、ネクタイを摘まみ上げたまま記憶を手繰るが。
インターフォン越しに見た男たちの顔はやけにぼんやりとしている。
白黒画面だったからだろうか。記憶の中にあるふたりの顔はのっぺらぼうのように凹凸がない。
「……これといって特徴はなかったような……」
そう言ってごまかすと、バカにされたように鼻を鳴らされた。
「それじゃあわかんないな」
「わかんないな、じゃないわよ。私の知り合いじゃなかったらあなたでしょう?」
ムッとして真紀は言い返す。
「挨拶がまだだからわざわざ来たんだ、って言ったのよ? あなた、なにか業務でのやり取りをすっぽかしたんでしょう? 仕事があなたの役割ならちゃんとやりなさいよ」
ハンガーにスーツをかけ、とりあえず部屋の隅にあるアンティークのハットラックにかけた。
「このところ仕事が上向きなんだって言ってたじゃない。新規の顧客かなにかじゃないの?」
この一か月。珍しいことに信二からは景気のいい話しか聞かない。
舅が亡くなる前は肩を落として帰ってきたり、展示会を開いても閑古鳥が鳴いたりと散々だったのが嘘のようだ。
「いや、でも橋元も銀杏も知らんな……。橋元はともかく、銀杏なんて珍しい苗字はそうそう忘れんだろう?」
信二に言われ、真紀も頷かざるを得ない。
「あ。そうだ。あのインターフォン。録画機能がついているはずだから、再生してみる?」
真紀が手を打つと、信二は立ち上がった。
「それが早いな。早速」
見てみようと続けかけた信二の口をふさいだのは。
妙に間延びをしたインターフォンの音だった。
信二と真紀は顔を見合わせる。
次の瞬間に、真紀はインターフォンの通話ボタンを押した。信二もその画面をのぞき込んだ。
「どうも橋元です」「銀杏です」
昨日の二人組だ。
白と黒の画面には30代の男二人が並んで映っていた。
「あの……昨日もいらっしゃいましたが、ご用件はなんでしょうか」
真紀は信二を一瞥しながら尋ねる。昨日と同じ男たちだと暗に示したせいか、信二も食い入るように画面を見ているが「あ。〇〇じゃないか」と言うことはない。
「挨拶がまだのようなので」「こちらから来たんですよ」
どこか呆れたような、バカにするような雰囲気をにじませて男たちは言う。
「なんの挨拶ですか。君たち、無礼だな」
唐突に夫が画面に向かって言い放った。
今日は男性もいる、と怯めばいいがと真紀は思ったが、男たちはけらけらと笑い始めた。
「無礼はどちらか」「挨拶の仕方もしらないようだから来てやったのに」
そうしてひとしきり笑うと、ずいっと画面に顔を近づけて来た。
「我々には境界がある。それを犯しているのはそちらだろう」「今度は
その言葉を最後に。
ぶつりと映像が切れた。
「え? ちょ……え? なんで」
なぜ映像が切れたのか。真紀は慌てて再度通話ボタンを押す。
画面はふたたび表示されたが、そこにはもう例のふたり組の姿はない。
ただ。
けたたましく犬が鳴いた。
それは昨日と同じく。
まるで輪唱しているようにすべての家から犬が吠え始めた。
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