2 犬
次の日。
「おはよう」
生活ごみを指定のごみ置き場に置いていると、背後から声をかけられて振り返る。
そこにいたのははす向かいに住む鈴木だ。
片手にゴミ袋。片手にはパピヨンという犬種の小型犬を抱えている。
「おはよう、エステールちゃん。今日も可愛いねぇ」
真紀は鈴木の腕の中でしっぽを振っているエステールの頭を撫でる。人懐っこい犬種のせいか、それとも子犬の頃から知っているからか、真紀に対してまったく警戒をしていない。
「あらなに、エス。あなた反省していい子になってるの?」
片手に持ったゴミ袋を捨て、エステールを抱えなおした鈴木は苦笑いを浮かべている。
ふとその顔に疲れが見えているようで、真紀は小首を傾げた。
「お仕事忙しかったの?」
鈴木は在宅ワークだと聞いている。仕事内容までは詳しく聞いていないが、会計士の下請けで数字や必要項目の打ち込みかなにかをしているのだそうだ。
「納期はまだ先なんだけどねぇ」
鈴木は真紀のひとつ下だ。隣保では珍しく同世代ということで引っ越してすぐに仲良くなった。
彼女自身がいわゆる「地の人」で、入り婿をとっている。「家付き」とよばれる女性だ。
その場合、この地区にはありがちだが、やたらとPTAや自治会で幅を利かせているのだが、鈴木にはそんな横柄なところはなかった。
『私は一度この地区を出てるからさぁ。「家付き」とはいいつつ、ちょっとあっちのひとたちとは違うのよ』
鈴木はからからと笑って「地の人」と真紀の間をとりもってくれたりもした。
互いの子どもの年も近く、結婚して以来初めて「友人」と呼べる関係性を築いている貴重な人でもあった。
「昨日、エスが夜に吠えまくって。久しぶりに帰省してた息子もびっくりしてたよ」
うんざりだとばかりに鈴木は口をへの字に曲げる。
「あら。たぁくん、戻って来てたんだ。きっとそれで興奮しちゃった……」
興奮しちゃったのよね、とエステールに言いかけて口を閉じる。
思い出したのは昨日の奇妙な訪問者のことだ。
通話を一方的に切って訪問を固辞したあと、近所の犬が一斉に吠え始めた。
「ひょっとして8時前のこと?」
「やだ。ごめん、うるさかった? 小型犬だから吠え声が甲高いのよね」
「ううん。違うの。その時間帯さ、うちに変な人が来て……」
「変な人?」
鈴木とエステールが同時に首を傾げるから思わずくすりと笑い、真紀は続けた。
「なんかね、男の人二人組なんだけど、『そっちが挨拶に来ないから、こっちが来てやった』って言うのよ」
「なにそれ。え。仕事のトラブル?」
鈴木が眉根を寄せて心配げに言うから、はっと気づく。
「……え。私、てっきり舅の葬儀のことだと思ったのよ。やだ……。主人の仕事関係のなにかなのかな」
「台詞の内容からするとそんな気もするけど……。えー……。いま、俊君もセリカちゃんもいないんでしょう? なんかちょっと不安よね」
俊もセリカも真紀の子どもの名前だ。長男の俊は東海地方へ、セリカは都市部に就職していた。最近では盆暮れになっても帰ってこず、無料通話アプリさえ既読スルーされている。
「主人、もう仕事に行ったんだけど。帰宅したときにでも詳しく聞いてみるわ」
「犬飼えば? 防犯にもいいよ」
真面目な顔で鈴木に言われ、真紀は心底悔しい。
「主人がアレルギーじゃなかったらなぁ……。私だって犬、大好きなのよ」
真紀の実家では犬は普通に家族としていた。だから結婚しても犬は飼いたい。だが肝心のパートナーと子どもたちにアレルギーがあったのだ。
「特にこの地区、犬飼っている人多いじゃない。良い環境なのになぁ」
中には犬嫌いの隣人に遠慮して飼えないという人もいるぐらいなのに。
「まあ、このあたりが犬飼うのはいろんな意味があるんだけどね」
苦笑いしながら鈴木が言う。
「いろんな意味って?」
「まあ……防犯よ」
鈴木が肩を竦める。
「田舎だからさ。昔は普通に外飼いだったし。あ、でもいまはダメよ」
慌てたように付け足すから、真紀も頷く。
「温暖化だもんねぇ」
「それもあるけど、野生動物にやられるのよ。イノシシとか熊とか」
「熊はわかるけど……イノシシ⁉」
「猪突猛進って言うでしょう? 突っ込んでくるし、噛むのよ、あいつら」
あれは襲うのか、と目を丸くする。鈴木は顔をしかめる。
「私の知り合い、リードが外れて山に犬が入っちゃったんだけどね。戻って来た時、イノシシに突っ込まれたみたいで牙でお腹を裂かれちゃってて……。知り合い、犬の腸をお腹に押し込みながら車を運転して獣医のところに駆け込んだの。あ、ちゃんと今も元気よ、その犬」
「それは……よかった……のかしら?」
「あと、〇市。ほら、うちより北の」
「うん」
「あそこは熊が出るんだけどね、そのうちの一頭が犬を襲うことを覚えちゃって」
「えええええ……?」
「外飼いだとリードでつながってるから逃げられないのを知っているのよ、熊。だからそんな犬ばっかり狙って食べるの。だから熊の出る時期になったら自治会放送が流れるんだって。『熊にやられるから犬は絶対屋内に』って」
「うわあ……。なに? これも森林破壊とかで野生動物の居場所がなくなって、ってやつなの? 人がどんどん自然動物のいた場所に乗り込んでいった的な」
「まさか」
と鈴木は笑った。
「〇市なんてうちより田舎じゃない。人の数より鹿の数の方が絶対多いって。逆よ。人が減って里と山の境が崩れてるの。野生動物がこっちに侵略してきてんのよ。昔はさ、人と動物が生きる場所って別れてたのよ。里に下りて来たとしても、犬を飼って警戒させたり。それがどんどん曖昧になってきちゃって……。って、そんなことより、とにかく真紀さんはちゃんと旦那さんに相談した方がいいよ」
話が脱線したことに気づいた鈴木は大慌てで訂正をし、真紀も真面目な顔で頷いた。
「あ」
ちょうどそのとき、デニムのポケットに入れていたスマホが軽やかな着信音を鳴らした。
「じゃ、またね」
気を利かせたのだろう。鈴木はエステールの前足をとってバイバイさせると、足早に立ち去って行った。真紀も手を振りながらデニムパンツのポケットからスマホを取り出す。
道の脇に移動しながらパネルを確認すると、美恵とあった。義姉だ。
「おはようございます。お義姉さん」
「朝早くにごめんね、真紀ちゃん」
聞こえてきたのは本当に気遣うような声だ。
「いえ、こちらこそ。葬儀以来なんのご連絡も差し上げず……。あの、お疲れではないですか?」
喪主は美恵の夫であり、信二の兄である真一だったが、実質取り仕切っているのは美恵だった。
「大丈夫大丈夫。それよりね、確認したいことがあって」
「あ……。法事の日取りとかでしょうか」
しまった、だとしたら一度家に帰ってからかけなおすほうがいいかもしれないと小走りに駆けだしたのだが、「違うの」と美恵に遮られた。
「信二さんにも確認したんだけど『うちのはいいんだ』の一点張りで……。ねぇ、形見分けの件、聞いている?」
「形見分け?」
足を止め、思わず聞き返す。
「そう。お
促されて思い出す。
そうだ。
10年前に姑が亡くなった時、義兄と義姉に言われて葬儀のあとに形見分けをしたのだ。
もちろん声がかかったのは真紀だけではない。姑の実妹、従姉妹なども集まり、思い思いのものを持ち帰った。
いや、持ち帰ったという表現は生ぬるい。
奪い合いだった。
その浅ましさに真紀は早々になにももらわずに部屋を退室し、同じくうんざり顔の義姉とふたり、『いる?』『いりません』と会話をしたのを覚えている。
「やっぱり伝えてないんでしょう。まったくもう……」
スマホからため息交じりの恵美の声が漏れ出てきた。
「動産や不動産については生前にすべて片付いてたでしょう?」
真紀はうなずく。
舅は姑が亡くなった時になにかを察したらしい。
自分が亡くなったあとのことをちゃんとしておこうと、遺産を生前にすべて整理していたのだ。
「だから他の形見については、お舅さんの部屋を四十九日まで開放しているからお好きになんでも持ち帰ってくださいって、葬儀の後に言ったのよね。もうそっからよーいどんって感じで来るわ来るわ有象無象が」
忌々し気な恵美の言葉に真紀はうんざりした。姑のときと同じ風景が繰り広げられたのだろう。
「信二さんも来てね、持って帰ったんだけど」
「え? うちもですか?」
驚いて尋ねると、返ってきたのはため息だ。
「やっぱり伝えてないのねぇ……。でね、お姑さんのときの感じをみると真紀ちゃん、特になにもいらないって言うとは思うんだけど。ほら、形見分けに来なかったから念のために連絡したの」
「いえ、私はなにもいりませんが……」
「わかったわ。あ、でも真紀ちゃんが好きそうな絵画は何点かおいてるから今度いつでも来て頂戴」
「ありがとうございます」
「それじゃあね」
失礼します、と言いながら真紀はスマホを切ったが。
(あの人……。いったい、なにをもらったのよ)
家には持ち帰っていない。
と、思う。少なくとも真紀は見ていない。だとしたら店に置いているのだろうか。
(まったく……。とっちめてやらなくっちゃ)
真紀はスマホを固く握りしめた。
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