訪問者

1 挨拶がまだなので

 その来訪者が最初に山下家のインターフォンを押したのは、真紀の舅が亡くなって四十九日が過ぎた頃だった。


 ちょうど夕食の準備を終え、手を洗ってタオルで水気を拭っているときに。


 ぴんぽーん。

 やけに間延びしたインターフォンの音が屋内に響き渡った。


 真紀はすぐにリビングに移動しながら吐息を漏らした。

 どうせまた夫の信二がネットで買い物をしたのだろう。


 結婚して25年。新婚の頃から頭痛のタネである夫の浪費癖はいまだに改善する気配はなかった。


「はい」

 通話ボタンを押すと、画面に玄関ポーチの様子が映る。


 想像に反して、そこに立っているのは宅配業者ではなかったし、段ボール箱を抱えているわけでもなかった。


 白黒の画面には、ふたりの男が立っていた。

 ふたりとも年恰好は似ている。30代半ばといったところだろうか。


「どうも。橋元はしもとです」「銀杏いちょうです」


 いきなり名乗られたが、顔に見覚えはない。


 夫は自営業をしている。

 自分で興したわけではない。亡くなった舅が呉服店をしており、本店を夫の兄である真一が継いだ年に二号店開店させ、そちらを次男であり真紀の夫である信二に任せた形になっていた。


 主に呉服を取り扱っており、それにまつわる小物なども手広く扱う関係で夫の交友関係は意外に広い。


(業者さんかしら)

 戸惑いながら真紀はインターフォン越しに答える。


「すみません、夫がまだ帰宅していないのですが。なにか御用ですか?」


「いえ、なに」「挨拶がまだのようですので、仕方なくこちらからお邪魔した次第で」


 ふたりの返答に真紀はさらに混乱する。


「挨拶がまだ……とは?」


 尋ねながら頭に浮かんだのは舅が亡くなったことだった。


(うちがいま、喪中のことは隣保長さんにも自治会長さんにも伝えたはずだけど)


 真紀たち夫婦は、二号店の関係でこの辺鄙な田舎町に越してきて20年になる。


 周囲のひとたちはいわゆる「地の人」で、真紀たちのように他地区から越してきた人など稀だった。


 事実「30年ぶり」と地区の総会で紹介されたぐらいだ。普通は「地の人」の娘や息子が結婚し、祝いを兼ねて田んぼを潰して家を建てる。かなり閉鎖的な地区だったのだ。


 よく言えば結束が固く、悪く言えば排他的。

 なので「喪中」「祝い事」は隣近所で共有せねばならない。


 コロナ禍騒動以前は、隣保で葬式がとれたら大騒ぎだ。


 朝から自治会放送が鳴り響き、「〇隣保のだれだれさんが〇才で病気療養の末ご家族の尽力薬効の甲斐なくお亡くなりになられました。つきましては通夜式は〇日○時より、葬儀は〇日○時より実施されます。ぜひみなさま、最後のお別れにご参加ください」と自治会長が呼びかける。


 となると、該当の隣保も大変だ。全員が務めを休んで通夜や葬儀の手伝いに走り、枕経も一緒に参加することになる。


 真紀も何度か手伝いに参加し、疲れ果てたことがあった。真紀の家の場合、自営業である夫はなかなか休めない。そうなると山下家を代表して参加するのは真紀になる。


『ご主人、一日ぐらいどうにかならんもんかね』と嫌味を言われながら、ぺこぺこ頭を下げ、慣れない宗派の、それも他人の葬儀に参加する意味が真紀にはまったくわからなかった。


 だからコロナ禍のとき、「このご時世ですのでご家族だけでお別れをなさるそうです」と自治会放送が流れた時、心底ほっとした。


 そして今回。

 真紀の舅。つまり信二の実父が亡くなった。


 死は突然で、本店の倉庫で発見された時にはもう息はなかったらしい。死因はくも膜下出血だった。


 舅の訃報を受け、真紀は成人し、家を出て生活をしているふたりの子どもに連絡をしながら、さて、この喪中は隣保や自治会に伝えるべきか迷った。


 喪主は長男だ。夫ではない。

 葬儀も他市の会館で行う。自治会員が参加することはほぼない。


 それでも念のため、と真紀は自治会長と隣保長に相談した。あとで「相談がなかった」といわれるのを避けるためだ。


 結果、自治会長も隣保長も「自治会に伝えることは不要」と判断してくれた。そもそも山下家は「地の人」ではない。そんな理由も透けて見えた。


「舅の……葬儀の件でしょうか? でしたらお参りは不要と……」

 真紀が発した言葉の語尾を、軽んじたような笑い声が潰す。


「いえ、そんなことではありませんよ」「そちらの舅さんなど存じ上げませんし」


 なんだかムッとした。

 確かに山下家はよそ者だ。真紀の故郷は関西だし、信二の実家は隣市だ。

 だがこの自治会に住んで20年経つ。

 それなのにこんな扱いをまだ受けるのか。


「だったらなんです。なんの御用なんですか」


「だから言っているじゃあないですか」「そちらが挨拶に来ないから来てやったんですよ」


 男たちの嘲笑じみた声に、さらに神経が逆立った。


「挨拶ってなんです! うちはここに住んで20年ですよ⁉」


「だからなんです」「我々はここに暮らして……はて、何年? 何百年?」


 くくくく、と笑いが続く。真紀は怒鳴りたい気持ちを堪えて、なんとか声を発した。


「とにかく夫が不在なのでわかりかねます。また別の日にお越しください」


 そう言って通話ボタンを押して画面を消した。

 しばらくイライラした気持ちでリビングを歩き回っていたものの、ふと「もし相手が逆上したらどうしよう」と思い至る。


 いま、家は真紀ひとりだ。

 50間近のおばさん相手になにかしようとは企まないだろうが、実質的に暴力を振るわれたらたまらない。


 真紀はリビングのテーブルに置いていたスマホを手に持ち、カーテン越しにそっと屋外の様子を窺った。なにかあればすぐにスマホで警察に連絡しよう。


 だが。

 ポーチに人影はない。


 真紀はほっとしてさらによく確認しようと窓に顔を近づける。


 途端に。

 犬の吠え声がガラスを振動させ、びくりと身体を震わせる。


 この自治会は犬を飼っている家が多い。この隣保でも犬を飼っていないのは真紀の家ぐらいだ。


 犬の声は輪唱のように至る所で続く。

 真紀はもう一度自分の家の玄関ポーチを見た。


 やはりそこにはもう誰もいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る