3 担当医の緒方
「………信じられない……っ」
実里は市松人形を抱き上げ、詰め所に戻ろうとして足を止める。
すえには待つように伝えているが、廊下で鉢合わせては大変だ。
悩んだ結果、「ごめんね」と市松人形に声をかけ、自分のポロシャツの中に入れて抱きしめた。
そのまま素早く詰所に駆ける。
「動画を保存してる。生活相談員にもいま概要を報告した。そっちはどうだった?」
前田がPHSを握ったまま実里を振り返る。
実里はポロシャツの中に隠し持った市松人形を取り出す。
手が震えた。
明るいところでみるとさらにその惨状が目の当たりになる。
「……ちょっともう、あいつ……。なにやってくれてんのよ」
前田が呟く。
利用者様への暴言を注意するつもりは実里にはない。
実里だって罵詈雑言が胸に渦巻いていた。
実里は、小学生の時にいじめられたことがある。
クラス替えが行われるまでの1年間、別室登校をした経験があった。母親も父親も『子どものうちだけだから。いじめなんてこんな幼稚なことをするのは』と言っていたが、大学を卒業し、社会福祉士と介護福祉士の資格を活かして高齢者をケアする施設で務めて見れば……。
年老いてもいじめるやつは他者をいじめる。
デイサービスもグループホームも。
人が集まる場では「仲間外れ」など普通に存在する。
ターゲットを決めて無視をしたり、その人にだけお土産を渡さなかったりする。隣に座ったらあからさまに離席して「あのひとと一緒はイヤ」と職員に訴えたり。
人間なんて変わらない。
実里はどこか達観した気持ちでそう思っていたが、今日は腹が立って仕方がなかった。
「おはよう。眠気覚ましに来たんだけど……。コーヒーとかどう?」
言葉もなく前田とふたり、机の上の市松人形を見つめていたら、呑気な声とともに詰所の扉が開いた。
前田と同時に振り返る。
そこにはコンビニのビニール袋をぶら下げた医師の緒方がいた。
フリーランスのこの医師はこの高齢者専用住宅の担当医師だ。
「2階の利用者が急変したらしくてさ。さっき処置をして救急車で運びだしたところ。ちょっと休憩してもいい?」
いろんな企業の産業医も掛け持ちしているという緒方は、人当たりがいい。実里が知るなかでこんなにフランクな医師は他にいなかった。
「せ……先生」
穏やかな緒方の姿を見たら、なぜだか涙がこぼれた。
「どうしたの」
丸眼鏡の向こうで緒方が目を丸くする。
「良子ちゃんを助けてください」
気づけば前田も号泣していた。
そんな前田と実里に缶コーヒーを握らせて落ち着かせると、緒方は静かになにがあったか尋ねた。
ふたりは今さっき起きたことを順に説明をしていく。緒方もそれを黙って聞いてくれていた。
「良子ちゃんは入院していると思い込んでいるんだっけ」
緒方が自分も缶コーヒーを飲みながら首を傾げる。実里は頷いた。
「その付き添いで自分もここにいると思っておられます」
「なら、昨晩急変して転院させたことにしようか。で、その間にこの市松人形の汚れを落とそう」
「マジック……落ちるかな。髪はどうしよう」
前田が不安げに呟き、また涙ぐむ。
「頭の状態がわからないようにぼくが包帯を巻いておくよ。着物は……仕方ないから誰が病衣っぽいのを縫って着せて。マジックの汚れが落ちないところは絆創膏を貼ろう」
緒方は説明した後、缶コーヒーをテーブルに置いて立ち上がる。
「重松節子さんについては、生活相談員と上で対処してもらおうか。とにかく広川すえさんに説明に行くから。どっちかついてきて」
「広川さんなら実里ちゃんのほうがいいね。私はその間に重松さんのところに行ってみる」
「重松さん?」
「だってなんで離床センサーが反応しないのか確認しないと」
指摘されて今更ながらにそう思った。
故障なら業者を呼ばないといけないし、なんらかの細工がなされたのであればその対応が必要だ。
三人は一緒に詰め所を出た。
途中重松の居室前で前田が立ち止まり、軽いノックのあと「おはようございます、重松さん」と平静を装った声で呼びかけを行っている。実里は怒鳴りこみたい気持ちを堪え、足早に進んだ。
「失礼します。広川さん」
ノックして扉を開くと、すえは心配げに立ち上がった。よかったと実里はほっとする。すえは指示されたとおりベッドで待機してくれていた。
「医師の緒方と申します。すみません、なにぶん良子ちゃんの状態が一刻を争うものでしたから、お伝えせずに病院に搬送してしまって……」
緒方は白衣の前を合わせ、首にかけた聴診器を意味なく触って自分が医師であることをアピールする。
うまいなぁと実里は思った。
白衣や聴診器の効果は高齢者に絶大だ。
介護福祉士の言うことは聞かなくても、看護師や医師の説明には無条件に頭を下げる。
「いえ、そんな……! それで良子は……」
すえが前のめりに尋ねる。
緒方は彼女の前に進み、穏やかに説明を続けた。
「危険は脱しましたが、まだPICUで経過観察が必要です。いましばらく搬入先の病院で診てもらいましょうか」
「ぴー………? 先生、なんですって?」
「PICU。小児集中治療室です」
不安そうなすえに、緒方が一般的な説明をしていく。
そのとき、居室の扉が開いた。前田だ。手招きされるから扉へと移動する。
「自分でセンサーを切ってた。私には『寝返り打った時にあたったのかも』とかとぼけてたけど」
忌々し気に眉根を寄せて前田は言う。
「今日、マットセンサーも用意してもらう。床に足着いたらわかるように」
「お願いします」
ふたりが顔を見合わせて力強く頷き合うと、見計らったように緒方が声をかけた。
「それで良子ちゃんの転院日なんだけどね」
「はい」
実里は返事をして振り返る。
「明後日ぐらいには広川さんのもとに帰ってこられるようにぼくの方からも指示しておきますから諸々よろしく」
市松人形の修復のことだろう。「わかりました」と返事をする。
「ありがとうございます! よろしくお願いいたします!」
広川すえは深々と頭を下げた。
◇◇◇◇
夜勤明けの次の日は休日になり、実里が出勤したのは二日後になった。
「え。入院ですか? どうして」
詰所で実里は生活相談員からすえが入院したことを聞いた。
もともと末期がんで余命宣告を受けている。
高齢者専用住宅での看取りを家族は希望していて、もしそれが本当に実施されるならこの施設初の看取りとなることが予想された。そのために職員は研修や打ち合わせを何度も行っていたはずだ。
「すえさんのご家族がね……。施設に迷惑がかかるでしょうから、と」
タブレットへの入力作業の手を止め、生活相談員が実里を見上げる。
「市松人形の良子ちゃんのこととかを説明したら、ご家族で話し合いがなされたみたいで……。『誰かに嫌がられてまでいる必要はないから』って」
実里は言葉を失う。
いままで広川すえは他の利用者や職員とともにこの高齢者専用住宅で生活を続けていた。
そこにあったのは「共通理解」という名の「見守り」だ。
誰もが広川すえの世界観に共感し、広川すえもそこにうまくなじんだ。
だが。
「そんなのおかしい」と誰かが言い始めたら壊れる世界でもあった。
そしてその声はたったひとりなのに大きく世界を揺らし、強烈な悪意と暴力で破壊されていく。
「わ……悪いのは重松さんじゃないですか!」
つい大きな声が出てしまって、生活相談員から「しっ」と命じられた。
「もちろんこちら側としても録画した映像をご家族に見せたよ? 注意を促そうとしたら『盗撮だ!』って騒ぎ始めて……」
生活相談員は頭を掻きむしる。
「『だいたいすべての居室を施錠しないのがおかしい』とか言いだすし……」
以前は居室に鍵をかけていたときもあったが、不慮の対応に遅れる事態があり、ご家族や入居者本人に説明して『鍵はかけない』ということになっているはずだ。
もちろんプライベートスペースを確保したい時は事前に職員に言ってもらえば居室を施錠して利用することはなんの問題もない。
「広川さんのご家族の方がなんか察してくれたんだろうねぇ。緒方先生が調整してくれて良子ちゃんと一緒に入院したよ。たぶん、そこで看取るんだろうね」
重い吐息を生活相談員が漏らす。
「広川さんの息子さんたち、すっごく感謝されててさ。ここでの対応を。昨日、居室のみなさんにも挨拶されて帰ったよ」
「……重松さんにも?」
「謝ってたよ。母が迷惑かけたって。重松さんも『いえもう、気にしてませんから』だってさ。どっちが加害者だよ」
信じられないと実里は拳を握りしめる。
「……とにかく、うちとしては広川さんはもうここを退所した元利用者さん。重松さんは現在進行形の利用者様だから」
実里の表情を読んだのか、生活相談員が念を押す。実里は曖昧に首を振った。
「あ、そうだ。その広川さんの息子さんたちが昨日居室を片付けて帰られたんだけどさ」
生活相談員が顔をしかめた。
「なんか、
「塗の箱?」
実里は首を傾げたものの、ふと思い当たるものがあった。
「ああ、そういえば良子ちゃんのベビーベッドに一緒に入ってましたね。……ん? でも」
言いながら徐々に記憶がよみがえる。
「確か数日前から広川さんご自身もおっしゃってませんでした? 塗の箱がないって」
「そうなんだよ。広川さん、良子ちゃんの件でだいぶん不穏になってたからな。どこかに自分で隠しているのかも。もし施設のどっかから出てきたらすぐ僕に知らせて。広川さんに返すから」
「わかりました」
返事をしたと同時に詰所のドアが開き、一斉に日勤帯の職員が入ってきた。
「じゃあ、朝礼をするよー」
生活相談員の声に実里は気持ちを切り替えた。
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