2 離床センサー

(……どういうこと)


 内心焦りながらも、実里は笑顔を浮かべてすえをベッドに座らせた。


「ひょっとしたら私の勘違いで検査のオーダーが入っていたのかもしれません。良子ちゃんが検査室にいるかどうか確認してきますね」


「お願いします。どうしたのかしら。あの子、最近歩けるようになったから……。だから目が離せなくって、ベビーベッドで寝かせて……。柵もしっかりしていたんですよ?」


 すえがどんどん不穏になる。組み合わせた指は震え、せわしなく室内を歩き回り始めた。実里は安心させるようにうなずいた。


「そうですよね。良子ちゃん、私がまだここに来たときは、はいはいしかできなかったのに」


「ああ、そうでしたね! 看護婦さんはあの子を乳母車に乗せて散歩させてくれたんでした!」


 足を止めたすえが、嬉しそうに言う。


 すえが市松人形を抱え、不安そうに実里のところに来たのは、転職して間もないころだった。


 がんからくる体調不良のために安静にしなくてはならないのに、日中ほとんど市松人形を抱えて立ち歩いていたすえをいかに「座らせるか」が当時、職員たちの頭痛の種だった。


『ぐずって大変なんです』

 というすえから市松人形の良子を預かり、実里は老人車と呼ばれる手押し車に乗せたのだ。


『うちにも小さな子がいるんですが、ベビーカー……じゃない、乳母車が大好きなんですよ。こうしていたらすぐ眠っちゃうんです』


 老人車を乳母車に見立て、市松人形を乗せてしばらくすえと施設の廊下を歩いていると、驚いたようにすえが言った。


『本当だわ! 眠っちゃった……』

『ね? さ。いまのうちにベビーベッドに寝かせましょう。すえさんも、お子さんが寝ているうちに眠って体力を回復してくださいね』


 こうしてすえを休ませることに成功した実里は職員からもすえからも信頼を勝ち得ることに成功したのだ。


「じゃあちょっと確認に行ってきます。ベッドに座ってお待ちくださいね」


 すえの足腰はしっかりしている。転倒などの危険はないがいまは非常時だ。パニックになって走り回ることも考えられる。


 以前勤めていた特別養護老人ホームでは、恐慌状態に陥った利用者が『家に帰る!』と叫び、エレベーターにたてこもったことがあった。


 職員四人がかりでその利用者をエレベーターからおろしたのだが、男性職員は殴られて頬を腫らし、女性職員は髪の毛を引っ張られて千切れ、実里は腕をひっかかれてその後、傷が化膿した。


 あのときは夕方だったのでまだ日勤帯職員がいたが、いまは実里ともうひとりの職員しかいない。なにかあれば対応に限りがある。


 すえの個室を出て、足早に詰所に向かう。


「なんだった? 広川さん。というかそろそろ離床センサーを解除する?」

 同僚の前田は巡回ワゴンの準備を整え、次の作業に移っていた。


「広川さんの良子ちゃんがいないんだけど」

「え。なんで」


 ぎょっとしたように前田が目を見開く。


「前田さん、さわってないよね」

「触んないよ! ちょっとやだ。誰かが部屋に入って盗んだの? え……でも昨日離床センサー、誰も反応してないよね」


 慌てて前田がセンサー履歴の確認のためパソコンにとりついた。


 実里も記憶をたどる。

 夜9:00に就寝前のトイレを促し、一斉に消灯したのは10:00だ。

 そこから昨日はナースコールもセンサーも鳴らなかった。


「反応してないんだけど……」

「カメラは?」


 ふと思いついて実里が言う。


 三階廊下には防犯カメラがついている。利用者を見張るのではなく、利用者を守るためのものだ。


 そのため、目に付くところにカメラはない。利用者の中でも知らない人が大半だ。


 中にいる利用者がベッドから離れればセンサーが鳴るが、外から中に入って来る侵入者に対して警告をするようなものはなにもない。そのための録画カメラだった。


 前田はソフトを起動させ、早送りで録画映像を回していく。


「なんか嫌な予感してきた。あれだよね。広川さんだよね。ってことはさ」


 前田はさらに倍速にしながら呟く。嫌な予感は実里だってしている。


 広川すえは利用者からも職員からも愛されている。


 このフロアは女性専用なので、広川すえが「以前失った子を育て直している」と説明すると、誰もが同情し、共感を示した。もし自分が彼女の立場なら同じことをするかも、と涙ぐむ利用者もいるほどだ。


 そして市松人形をすえの代わりに抱いてやり、その成長をともに喜んだり見守ったりしてくれていた。


 ただひとり。

 重松節子をのぞいて。


『こんな気味の悪いおばあちゃんがいるなんて施設説明会で聞いてないんですけど』


 二か月前に入所してきた節子とその息子は、入所して二日目には生活相談員と主任看護師に食ってかかった。


『おばあちゃんに言って人形を捨てさせて』


 節子は10歳以上年上のすえをしきりに『おばあちゃん』と呼び、嫌悪感も露に顔をしかめた。その息子も『入所前と話が違う。詐欺だ』と大騒ぎしたが、最終的に施設の顧問弁護士がやってきたらもう何も言わなくなったという。


 誰も何も言わないが。


 節子は大騒ぎをして退所したかったのだろう。もともと入所に納得していない。

 その息子は粗をついてもっとよい施設に安く母親を入所させたかった。


 だが息子の目論見は当然叶うことはなく、あっさりと母を施設に残して去り、節子は振り上げたこぶしを下せないのだ。


 重松節子はことあるごとに広川すえを攻撃し、職員も利用者もすえをなんとか守ろうとするからさらに節子はヒートアップしていた。


 大事になるまえになんとかせねば、と生活相談員が頭を抱えていたのは昨日のことだ。


「あ!」


 前田が声を上げる。実里はパソコン画面をのぞき込む。

 そこには、そっと廊下に忍び出て来た節子がうつっている。


「嘘でしょ。センサーは⁉」

「ってか、見て! 広川さんの居室に!」


 前田が指摘している間に、白黒の映像では節子がすえの居室に入った。


 各居室には鍵がない。

 男女が一緒のフロアなら絶対に鍵は必要だが、ここは女性専用フロアだった。


 もちろん各居室には鍵がかかる金庫はある。貴重品はそこで管理することになっているが、基本的に部屋は施錠しないことになっていた。


「やっぱり……。ちょっともう勘弁してよ……」


 前田が呻く。

 すえの居室から出て来た節子の手はぞんざいに市松人形を掴んでいる。そして自分の居室に戻って行った。


「私、重松さんの部屋に行って来る!」

 ふたたび詰所から出ようとした実里だが、前田が制止する。


「なんて言うの⁉ 盗んだでしょう、って⁉」

「離床センサーが反応しない部屋があるからって。それでベッド周りを確認してくる」


 まさか誰もが目に付くところに人形を置いているとは思えないが、それでも「こっちは分かってんだぞ」という警告にはなるに違いない。


「待って! ……また出て来た」


 パソコン画面では、自分の居室から節子が忍び足で出て来る。

 その手には市松人形が握られているのだが。


「なんてこと……」


 前田が愕然と呟く。


 白黒の粗い画像でもわかるぐらい、市松人形の着物はボロボロにされ、髪はざんばらになっていた。


 節子はそのまま廊下の突き当りに行き、カメラから姿が消えた。


「トイレだ!」


 言うなり実里は走り出していた。

 廊下の突き当りにはトイレがある。そこには汚物入れもあればゴミ箱もある。


(まさかまさかまさかまさか……)


 実里はトイレに駆け込む。

 自動センサーでライトがついた。


 短い通路を挟んで六つあるトイレ。

 個室をざっと確認するが、人形はない。


 次に手洗い場の脇に設えてある用具入れのドアノブに手をかけた。

 中には掃除用具やディスポ、ビニール袋などの消耗品がいれてあった。


 嫌な予感に急かされるまま用具入れを開く。


 棚の上を見た。

 消耗品と洗剤しかない。


 棚の下を見た。

 汚物入れのポリペール。


 ペダルに足をかけ、踏む。


 ぱかん、と間の抜けた音がしたあと、ポリペールがあっかんべーをするように口を開いた。


 そこに。

 着物をむしられ、髪をめちゃくちゃに切られ、顔を油性ペンで落書きされた市松人形が捨てられている。


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