市松人形
1 広川すえと良子
大きく伸びをして詰所の壁時計を見る。
5時30分。夜勤が終了するまであと2時間だ。
このあとすることといえば、6時に三階フロア利用者の起床を促し、身支度を整えてもらう。それから順に体温と血圧を計測してタブレットに打ち込んでいくぐらい。
この高齢者専用賃貸住宅は、以前勤めていた特別養護老人ホームとは比べ物にならないぐらい夜勤がラクだった。
入居者の介護度が軽いこともあり、夜間のおむつ交換も起床後のおむつ交換もない。
車いすの利用度も低いため、トイレへの誘導もそれほど手間はかからないのもいい。
すべてのベッドには離床センサーがついており、入居者がベッドから離れたら詰所のナースコールや常時携帯しているPHSが鳴るため、離席していても対応できるようになっていた。
以前の特養では夜間徘徊する利用者はひとりではなく複数人だったし、ナースコールは頻繁になって紙おむつを抱えて走ったり、『家に帰りたい』と泣き続ける利用者をなだめたり、昼夜逆転していて外に出て行こうとする利用者を追いかけているうちに夜が明けていた。
そこから手書きのカルテ記入が待っていた。
勤務あけの時間などとうに過ぎているのに、詰め所で紙のカルテに記録を書き続けていることなどざらだった。
ここではカルテも電子化されており、定められた項目に数字を打ち込んだりタッチすることで業務の効率化や看護師との共有ができていた。
空いた時間で、利用者と会話をすることも増えたし、なにより自分自身ゆとりをもって仕事をすることができる。
おもいきって転職してよかったと実里は巡回ワゴンに血圧計や体温計など必要物品を乗せながら気づく。
(あ。そういえばそろそろ離床センサーをオフにしないと……)
いまから利用者を起こしに行くのだ。『ベッドから離れる』ことが前提なのだから、オフにしないと一斉に鳴ってしまう。
手を伸ばした瞬間、ナースコールが鳴った。
なんだと目を瞬かせると、302号室の広川すえだ。
本人がナースコールを押した、というより離床センサーが反応している。
奥の休憩室から同僚の前田が顔をのぞかせるから、片手をあげて見せた。
「対応してくる」
「了解。珍しいね、広川さん。いつも起こすまで寝ているのに」
前田がナースコールの解除ボタンを押し、つぶやく。実里もうなずきながら、詰所を出た。
足早に廊下を歩くと、シューズの靴裏がキュッキュと鳴る。
スタッフに配給されているシューズで、これも以前勤めていた施設ではなかったことだ。制服もジャージではない。ポロシャツにチノパン。配膳時にはおしゃれなカフェ風のエプロンをつけることが決められていて、実里がいままでいた『高齢者施設』とはまるで様相が異なる。
(広川さんか。どうしたんだろう)
実里は広川すえのことを頭に思い浮かべる。
彼女はこの高齢者専用住宅利用者ではかなり特異な存在だった。
比較的介護度が軽い入所者が多い中、彼女は要介護度が4だ。
身体的に、ではない。認知機能の問題だった。
現在81歳なのだが、彼女の中では「25歳」だった。
そして「良子」という3歳になる女児を育てていた。
キーパーソンである広川すえの長男が言うには、「生後8か月で亡くした長女」なのだそうだ。
広川すえは、長男や次男のこともすでにわからなくなっている。
毎週誰かが差し入れを持って実母を見舞うが、当の本人は「どちらさんでしょうか?」と市松人形をあやしながら首をかしげている。
すでに60歳になっている実子が頭の中で理解できなくなっていた。
それはそうだ。彼女の中ではいま自分は「25歳」。当時長男は4歳で、次男についてはまだ生まれてもいない。
目の前にいるこの60歳の男たちは誰だ、ということになる。
普通であれば実子たちは変わり果てた母の姿に絶望したり、拒否感を抱くのだろうが、広川すえの実子たちは非常に理解が深かった。
『どちらさま?』と問われるたびに、『康夫さんの上司です』と答えていた。すでに亡くなったすえの夫であり、自分たちの父親の仕事場の上司のふりをしてくれていた。
『そうですか。それはいつもお世話になっております』と頭を下げる母と半日一緒に過ごし、そしてまた次の週、同じ挨拶を繰り返すのだ。
本来であれば利用者の妄想に付き合うのは避けるべきことだ。他人の対応で妄想がどんどん強化されるからだ。気分をそらしたり、別ごとを提案してその考えや思考から離すのだが、広川すえの場合ご家族の意向により彼女の妄想はそのまま受け入れられている。
『母がぼくたちを忘れているというのは、もう「育て切って思い残すことはない」からなのでしょう。代わりにどうしても気になったのは一歳にならずに亡くしてしまった唯一の娘なのかもしれません。母は末期がんで余命宣告を受けています。亡くなるその日まで、思う存分娘を……ぼくたちの妹であり、弟にとっては姉を育てさせてやってください』
長男の意見はそのまま生活相談員から職員に伝えられ、そして受け入れられた。
広川すえは、高齢者専用住宅で「良子」という市松人形を育て続け、その子は死んだ年を越えて3歳になっていた。
「広川さん、どうされました?」
ノックをした後、個室のスライドドアを開けた。
ぷん、と鼻先をかすめるのはシップや薬液がまじった匂い。これは以前の特養とあまり変わらない。
「あ、よかった。看護婦さん。良子がいないの。検査かなにかがあってどこかに行っているのかしら」
末期がんのせいで枯れ木のようにやせ細ったすえが、戸惑ったようにベビーベッドのそばに立っている。
彼女の中では、ここは「小児病棟」で、長女の良子は病気のために入院していた。
そして介護福祉士の実里は、「看護婦」だった。
「え。そんなはずはありませんよ?」
慌てて実里がベビーベッドに駆け寄って中を覗き込む。
本来であればふかふかの赤ちゃん用布団のなかで、市松人形が寝かされているはずだった。
だが。
掛け布団は乱雑にめくられ、頭の変形を防ぐためのドーナツ枕はベッドの隅に寄ってしまっている。
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