3 箒

◇◇◇◇


 隼人がそのふたり連れを祖母宅に連れてきたのは、玲が倒れてから五日後のことだった。


「香取先生にご紹介いただいたんだ。高名な……その道のプロフェッショナなんだよ」

 オットマンにもなる簡易椅子に座っている隼人は仰々しく、まじめな顔で言った。


「まあ、そうですか。それはご足労おかけいたしました」


 玲はローテーブルの上にお茶を出し、両膝をついたその姿勢のままソファに座るふたりの客に頭を下げた。


「いや……。あの」

 なんだか気まずそうな声にふと顔を上げる。


 ふたりの客は女性がひとり、男性がひとり。

 女性は水地彰良みずちあきら。男性は織部氷魚おりべひおと名乗った。


 年は二十代後半ぐらい。玲とそう変わらない。

 ヒオは芸能人だろうかと思うぐらいの美麗な顔立ちをしており、着ている服もそつがないし、一見自然体に見えるが、客商売の第一線にいた玲には、仕草や表情までも細心の注意が払われていることがわかる。


 アキラはというと。

 長い髪をただ束ね、顔には最低限の化粧しか施されていない。着ているものも無難でこれといって特徴のない容姿なのだが。


 どうにも目が離せないというか。

 なんだか特異な雰囲気をまとっていた。


「あの……。よろしければ奥さん、こちらにお座りになっては?」


 アキラが労わるような視線を玲に向けた。そのあと隣のヒオに視線を走らせる。彼も頷いて立ち上がろうとするから慌てた。


「いえ。わたしは」


 ローテーブルやソファから少し離れたところに置いている座布団を示した。


 この祖母宅に引っ越してまだ五日と少し。

 ふたりで過ごすには十分だが客が来るともてなす準備をなにもしていなかった。

 それになにか重要な客が来るなら実家で対応するだろうと考えていたので、隼人が『その道のプロフェッショナル』という方を祖母宅ここに連れて来たから驚いたのだ。


「顔色が悪い……。大丈夫ですか? 私たちが床に座りますが」


 アキラが腰を浮かすと同時に隼人が身を乗り出した。


「そうなんですよ、水地先生‼ 五日前に倒れてから玲は……妻はずっと寝ついていて!」


 隼人の勢いに驚き、ぎょっとしたようにアキラがソファにお尻を落とした。


「これも霊障というやつでしょうか! 母も頭痛と肩こりがひどいみたいで……っ」

 必死の形相で尋ねている隼人を、玲は他人事のように見つめた。


 あの日。

 初めてこの家に来て隼人の祖母の幽霊のようなものを見て玲は倒れたが、幸いにも数分もせぬうちに意識を取り戻した。


 救急車を呼ぼうという隼人を制止し、玲は起き上がる。これぐらいで救急車は呼ぶべきでない。現に不調ではあるが命がどうこうというほどではない。


『しばらく横になって休みたい。あなた、怖いのなら実家に帰ったら?』


 玲はそう伝えてベッドに横になって目をつむった。


 隼人はそれでも寝室をうろうろしていたようだが、しばらくすると車のエンジン音が聞こえて来たから実家に戻ったのだろうと玲はうつらうつらしながら考えた。


 祖母の霊が怖くない、といえばうそになる。


 だがひとりになりたかった。

 本当は街にでも戻って安いホテルにでも泊まりたいがそれさえ億劫だ。


(ごめんなさいね、隼人のおばあちゃん。私のことを気に入らないでしょうけど、行くところがないの)


 まどろみながらそんなことを繰り返し伝えていた。


 実家には戻れない。

 そもそも戻らない覚悟で家を出たのだ。これ以上両親や兄弟を心配させたくなかった。


 玲はそうやってこの五日間、眠ったり起きたりを繰り返して過ごした。

 結婚以来いつも側に誰かがいる同居生活だったせいか、久しぶりにのんびりできた気分だ。人の目にさらされるとこんなに疲れるのだと初めて知った。


 食事は、コンビニで買ってきたと思しき菓子パンやジュースを隼人が昼間持って来てくれたものを口にした。


 食欲はないが、せっかく買ってきてくれたのだから、ともそもそと食べていたら、隼人が「実家にもおばあちゃんの霊が出る」「お母さんは半狂乱だ」と青い顔で言っていて可笑しかった。


 実はあれ以来祖母の霊をこの家で見ないのだ。

 毎晩見ていた夢さえも。


 実家は安全だと言っていた隼人が震えながら言うのだからたまらない。

 そして、隼人の父親が国会議員でもある香取先生に頼み、「その道のプロフェッショナル」を紹介してもらったらしい。


「あなたのお母さんについては霊障ですが、奥さんは違うでしょう」

 怪訝そうな顔の隼人に、アキラは突き放すように言った。


「あきらかに疲労ですよ。私は医者じゃないが、どう考えてもストレス性障害だ」

「え?」


 ぽかんとする隼人に、アキラは淡々と言う。


「この奥さんの障りになっているのは夫であるあんただ。とんだとんちんかんだな」

「アキラ。口が過ぎる」


 ヒオが静かにたしなめるが、隼人を見る目はアキラと同じぐらいに冴え冴えとしていて。


 両膝立ちでお盆を前に抱えていた玲はぎょっとしたままアキラを見た。

 アキラはひょいと肩を竦める。


「変な男に捕まったね、奥さん。こりゃ大変だ」

「アキラ。言葉を選んで」


「世の中、こんなとんちきばっかりで嫌になるね。これが将来政治家になろうとしてるんだから……。適正考えろよ、自分で」

「アキラ」


 ずけずけと物を言うアキラをポカンとみつめていたが。

 次第にふつふつと笑いがこみあげてきて、慌てて顔をそむけた。


「笑っていいんですよ、奥さん。どうせ理由なんてわかりゃしないんだから」


 アキラの言葉が端緒となった。

 玲は大きな口を開けて笑い声を弾けさせた。


 笑いを迸らせ、肺を大きく動かし、表情筋を動かしていると。

 不思議と身体がほかほかしてきた。


 知らずに目の縁に涙まで浮かんできて、身体の奥にある芯のようなものが緩んでくる気がする。


「どうぞ奥さんこちらへ」


 ヒオが立ち上がる。玲は目元の涙を拭いながらようやく笑いをおさめて首を横に振った。


「いいえ。お客様にそのような……。それはわたしが許せませんから」

「では、みんな床に座ろうか。ここ、毛の深そうなじゅうたんがあるし」


 アキラの提案にヒオも頷き、結局隼人以外の全員が床に尻を下した。


「……その、霊障の話なんですが」


 ようやく空気を読んだのか隼人もじゅうたんに座り直し、アキラに再度切り出す。


「アキラさんの手を煩わせることはありません。たぶん、わたしが出て行ったらまるくおさまるんでしょう?」


 玲が誰より先に口を開いた。隼人がぎゅっと眉根を寄せる。


「そんなことはない! おばあちゃんの霊をアキラさんに祓ってもらえば……」

「どうして奥さんはそのように思われるのですか?」


 アキラはきれいな仕草で湯呑を持ち上げ、一口飲んでから視線を玲に向けた。


 その黒い瞳は。

 息を呑むほどに鮮烈な光を放っている。


 この目だ、と玲は感じた。

 なぜか人を惹きつける理由。それはこの強烈な光を内在させている瞳のせいだ。


「あなたの怪異を、語ってもらえますか?」


 釣り込まれるように玲は話していた。


 結婚以来、夢に老婆が出てきて箒で叩かれること。だけど痛みはなく、怖いのは老婆の形相であること。


 この古民家で老婆が隼人の祖母であると知ったこと。

 古民家に入った時、長箒などどこにもなかったのに、いきなり現れて倒れたこと。


「わたしと隼人さんとの結婚について、隼人さんのご両親はあまりよく思っておられませんでした」


 玲の言葉に隼人は身を小さくする。


「お前な。そこは否定されても『そんなことないよ』とか『でもぼくが守る』って言うところだろ」


 アキラに喝を入れられ、さらに隼人は身を縮めた。玲は苦笑する。


「わたしも覚悟を持ってこの結婚に臨みました。隼人さんは『どうにかなる』と楽観的でしたが、どう考えても……」


 玲ははじめてあっけらかんと言えた。


「無理でしょう」

 と。


「隼人さんのご両親。特にお母さんはわたしに意地悪をすることがなにかの通過儀礼だとでも思っているのでしょう」


「玲、そのあの……」


「男はみんな、自分のお母さんが同性に意地悪するなんて想像もしないからな」

 割って入ろうとした隼人にアキラが言葉の礫を当てた。


「これは私の持論だけど『実の母だと思ってね。あなたのことは実の娘だと思うから』というやつは距離感おかしい」


 アキラは肩をすくめる。

 玲も無言で見つめたことで隼人は唇を閉じた。いつの間にか正座し、彼はひざの上に置いたこぶしを見つめるようにしてうなだれている。


「ご両親が私に対して敵意を向けるのは予想していましたが……。まさか亡くなられたお祖母ちゃんまで私を嫌うとは。これは想定外でした」


「なぜお祖母ちゃんまで玲さんを嫌っていると感じているのですか?」


 ヒオの静かな声に、玲は逆に驚いた。


「だって、夢の中で……箒で私をたたくんですよ? 怒ったみたいな顔で」

「でも痛くない。玲さんはさっきそうおっしゃった」


 ヒオが指摘するが、玲はうろたえる。


「それは夢だから……痛みはないんでしょう、きっと。それに、箒が立てかけてあったんですよ、この家に」


 結局あの箒はその後どこを探しても見当たらないのだが。


「箒が倒れた、ということは立っていたってことでしょう? これって」

「客が早く帰るように、ですか?」


 アキラが言うので玲は力強く頷いた。


「え。どういうこと」

 隼人が怪訝そうに目を細めて三人を見回す。


「そういうおまじないがあるんです。長居する客が早く帰りますように、と箒を逆さにして立てかける。すると客が帰る」


 アキラの説明にそれでも隼人は納得しないように首を傾げた。


「なんで箒を?」

から」


 アキラは柄を持って箒を動かすしぐさをしてみせる。「あ!」と隼人は声を上げた。


「箒はごみを掃き出すから⁉」

「そう。日本人は言葉遊びが大好き」


 くすりとアキラは笑うと、黒曜石のような光を宿す瞳を玲に向けた。


「ですが、私が思うに、お祖母ちゃんに玲さんを〝掃き出す〟意図はないように思います」

「それなら……」


 どうして、と口の中で小さくつぶやく。


「先ほども説明したように、箒は不要なものやごみを掃き出す。それはなんのためかというと……」


 アキラの視線を受け、ヒオが答えた。


「清めるためです」


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