2 老婆
築100年はあるのではないだろうか。
屋根はさすがに萱ではなく、リフォームされてスレートになっているが、家屋に合うように渋い色合いのものが使用されてるため一見スレートとはわからない。
軒や縁側はまだいけると踏んだのか。あるいは見えないところが補強されているのか。古い木材はそのままだ。雨戸も戸袋に入れていくタイプで、玲はわくわくした。実際動くかどうか試してみたい。
あの縁側の前には収穫した野菜を干して、軒には一夜干しをつってもいいし、来年には干し柿をつるそう。
気づけば小走りに家に引き寄せられていた。
格子戸にすりガラスがはめられた横引きの扉も、当時のままだ。鍵だけが違和感あふれるほど近代的だった。
きっとこれもいやがらせのつもりなのだろう。現に車から降りてきた隼人はため息ついてズボンのポケットから鍵を取り出している。
「なんで鍵だけ……。ドアも変えてくれればいいのに」
いまじゃあこのすりガラスも手に入らない貴重品であることを知らないのだ。
「開くかな……」
隼人は鍵穴に鍵を差し込む。開錠自体はスムーズにできたが、玄関扉はどうだろう。
期待に目を輝かせる玲の前で、隼人は把手に手をかける。
がらっ、と。
予想以上の軽さで扉は開いた。
「うっわ。……寒いな、これは」
隼人がなにか言っているが、玲は気にならない。
無言で中に入る。
土間だった。
コンクリうちされているわけではなく、昔からずっとそこにあったように土を踏み固められたもの。
農家だったのだろう。土間の真上にはロフトのように中二階がある。収穫物を保存したり、普段は使用しないものを片付ける場所なのだが、縄梯子も収納式の梯子も見当たらない。少しがっかりした。
土間にあるはずの農具や家事道具は撤去されているようだが、
(あー……だけど)
竃に火を入れてみたかったが、空気孔だったであろうところには、はめ殺しの窓がいれられている。これでは煙が抜けない。
正面玄関と真向かいには、少し小さめの横引扉がつけられていた。勝手口だろう。上下させて開閉するタイプの鍵なので開錠し、開く。
途端に寒風が吹きつけてきた。
本来ならそこには便所と風呂があるのだろうが、完全に撤去されて整地されていた。
井戸だけはさすがにつぶせなかったのだろう。封はされているものの息抜きを入れられ、ちゃんと祀られてそこにあった。
一歩外に出る。
すぐに左手側に無理やり建屋にくっつけたような建物の一部が見えた。あれがたぶんトイレとバスだ。
「あ。でも家電は全部取り付けられているみたいだ」
ふたたび土間に戻ると、隼人は靴を脱いで式台に上がり、障子を開いた。
ぷんと鼻先をくすぐるのは真新しいいぐさの匂い。畳はすべて新品にされている。
隼人は真新しいエアコンのリモコンを手に取り、作動させているがコートを脱ぐ気はないらしい。日本の昔の家屋はとにかく寒い。
(だいたい田の字型がおおいけど……。外見から見る限り、真横に続く感じかしら)
いわゆる〝うなぎのねどこ〟といわれる建て方だ。
部屋が横一列に並び、それぞれを区切る障子やふすまを取っ払えばひとつの大きな広間になる。
玲もブーツを脱いで式台に上がった。
最初の部屋に入る。
エアコンの風が顔を撫でるが、玲も上着を脱がず、ショールも肩に巻いたままだ。
薄型テレビとエアコンだけが近代的だが、畳の上に敷かれたじゅうたんやソファ、天井から下がる照明もレトロ調。玲が選んだわけではないが好みだ。
寒い寒いという隼人を置いて、ふすまを開いて次の間に進む。
こちらも畳の上にじゅうたんが敷かれ、ダイニングテーブルが置かれている。
左手側は縁側。右手側から冷気を感じる。見ると、さっき勝手口から見えた建物につながっていた。
やはりトイレと風呂が廊下をはさんで設置され、一番奥にあるのは随分と手狭ではあるがキッチンだ。
玲はさらに次のふすまを開く。
ここは寝室だ。
ベッドと箪笥が置かれていた。
さらにふすまを開け。
立ちすくんだ。
真正面に仏壇があったからだ。
(仏間か)
いまの新築ではまず見かけない部屋だ。
そっと入る。
電気はつけなくても障子から差し込む光だけで十分な明度だ。
立派な黒塗りの仏壇。扉は開かれ、箔押しの
立ったままではあるが仏壇に手を合わせ、それからふと視線を感じて顔を上げた。
左側。
いずれも白黒のものばかり。
「ああ、なんだ。これはそのままか」
隼人が入ってきた。
「ぼくが小さなころからあったよ。おばあちゃんから教えてもらった。えっとね。一番古い写真から……」
何代前の〇〇さん、と隼人がそらんじていく。
玲も素直に聞いていたのだが。
「で、あれがぼくのおばあちゃん」
最後に指さした遺影を見て玲は動きを止める。
あの老婆だ。
夢に出てくるあの老婆。
「すっごくかわいがってくれてさ。うち、母親が厳しかったもんだから昔はよくおばあちゃんがかばってくれてたんだ」
にこにこ笑って隼人は言うが、玲は硬直したまま身体が動かない。
「……どうしたの? 玲」
不思議気に尋ねられた時、がたん、となにかが倒れる音がした。
びくりと肩を震わせる。
隣の間からだ。
いぶかし気な顔をしているが隼人は動く気がないらしい。
玲は隣の間に行く。
「……え?」
寝室には、柄の長い
こんな箒、いまではもうサザエさんのアニメでも登場しないのではないだろうか。
(だけど。こんなの……あったっけ?)
寝室にはベッドと箪笥。それだけではなかったか。
不審げに持ち上げると、ばたん、とまた次の間から音がする。
玲は箒を持ったままダイニングテーブルの置かれた部屋に入る。
そこにも。
箒が一本。
倒れていた。
ばたん、と音がしたということは、この箒は吊るされていたり、どこかに収納されていたわけではない。きっと「立て」られていたのだ。掃く部分を上にして。
(箒が立てられている、ということは……)
その意味に気づき、玲の気持ちは暗く澱んだ。
「わああああ!」
拾い上げた箒の柄を強く握りしめていると、背後で隼人が悲鳴を上げた。
反射的に振り返る。
仏間だ。
隼人は仏壇に相対し、尻餅をついていた。
その彼の前に立っているのは。
老婆。
いや隼人の祖母だ。
夢と同じ。
紺の
こちらを睨みつけていた。
す、と。
隼人の祖母は顎を上げると。
次の瞬間には姿を消していた。
「れ……玲!」
隼人が這うように仏間から出てきた後、機械仕掛けの人形のように飛び上がった。
そのまま玲の両腕を掴み、引っ張った。
「ここは危ない! 逃げよう!」
次の間に向かって引っ張ろうとする隼人に抗い、玲は箒の柄を両手で握りしめて踏ん張った。
「逃げるってどこに」
「安全なところだよ! うちの実家に戻ろう!」
断言する隼人に。
玲は思わず吹き出した。
「安全? それはあなたにとってでしょう?」
「玲……」
真っ直ぐに隼人の目を見据えると、途端に彼の表情が揺らいだ。
「ち……違う。ぼくもなんとかしようとは思っていたんだ」
「思っていた」
「そう、思っていたし……」
「じゃあどうしようと思っていたの」
「その……君がうまくやれるようにもっと手伝おうと……」
おろおろと言葉を連ねる隼人を見て、玲は重い息を吐いた。
誇りある料理人としてのスキルを手放して。
店を持つという夢をあきらめて。
親兄弟や友人たちと惜別し、住み慣れた土地から離れたというのに。
(この男の覚悟はこの程度か)
落胆は貧血に似た眩暈を引き起こした。
ぐらりと身体が揺れる。
「玲⁉」
異変を感じたのか、隼人が抱きすくめようとするから渾身の力を込めて突っぱねる。耳鳴りがひどい。音がなにも聞こえない。
「お前がそんなやつだとはね。根性なしが」
最後に見たのは、隼人のぽかんとした顔だった。
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