老婆と箒

1 玲の失敗

◇◇◇◇


「大丈夫かい、れい。眠い?」

 赤城隼人あかぎはやとは視線を一瞬だけ助手席にいる玲に向けた。


「大丈夫よ」

 玲は約二か月前に夫になった隼人に微笑んで見せる。


「最近、夢見が悪いんだろう? 昨日は眠れた?」


 玲は特に返事をせず微笑む。どう判断したのか、隼人は小さく頷いて視線をフロントガラスに戻した。


 玲は顔をドアガラスに向けながら思った。


 この結婚は失敗だったんじゃないか、と。


 隼人の祖母宅は赤城家本宅の近所と聞いていたが、実際は車で30分近くかかっている。


 車窓から見えるのは一面の田んぼや畑の風景で、結婚後2か月を過ごした赤城家本宅とはまるで趣が違う。あちらは徒歩数分圏内にコンビニがあり、イオン系列のスーパーも自転車で行ける範囲だった。


 一級河川にかかる橋を超える。春なのに例年にない冷え込みのため土手沿いの草は一面枯れていた。


 橋を超えるとまた景色が変わる。霜でも降りたのか、田んぼの畔はきらきらと光っていた。


「本当に驚いちゃうよね。田んぼばっかりだ。玲、大丈夫かい? 生活できる?」

「ええ、平気よ。私、高校生までは田舎暮らしだったから」


 意識しておだやかにこたえながら、玲は内心暗澹たる気持ちだった。


 この会話を何度しただろう。

 ふと、思い出したのは幼児教育の話だ。


 子どもと「今日は〇〇しないよ」と「しない」約束をしたのに、その数分後には「ねぇ、〇〇していい?」としつこく尋ねてくることがある。

 それは、「ひょっとしたら親はもう約束を忘れているかもしれない」「しつこく言い続けたら根負けして『いいよ』と言うかも」という期待のために言い続けるのだ、と。


 だから子どもと約束したことは容易に変更してはいけない、という内容だった。子どもは「やっぱり自分の思った通りだ!」と思考を強化させるからだ。


(たぶん、隼人は『本当ね。田舎で嫌になっちゃう。やっぱりあなたの実家に一緒に住もうかしら』と言う答えを期待しているんでしょうね)


 そしてやっぱり思うのだ。

 この結婚は失敗だった、と。


 隼人とは玲の職場で知り合った。

 酔っ払いにからまれているところを見かねて『出禁にしますよ』と料理人である玲が仲裁に入ったのだ。


『まさか女性に助けられるとは。なにかお礼させてください』

 そんなきっかけからのお付き合いだった。


 交際が始まって一年後、隼人の父親が県会議員だということを知った。

 あのとき絡まれていたのも、父親がらみのことで強気に出られなかったかららしい。


 隼人が政治家の秘書をしているとは知っていたが、父親が県会議員であり、かつ世襲議員一家だとは思わなかった。


『二世帯住宅を用意する。新居はそこでいいだろう?』


 両家が顔合わせをした結納の席で、隼人の父親が切り出してきた。

 いずれ隼人に選挙地盤を譲りたいから玲を側においておき、顔を売っておきたいということらしい。


『玲さんも我が家に早くなじむためにはそれがいいと思うの。わたしのことは実のお母さんだと思ってね。わたしもあなたのことを実の娘だと思うから』


 話が違うと玲は狼狽えて隼人を見た。

 玲の両親には『玲さんとぼくで新居を探したいと思います。両親とは別居で』と言っていたのだ。


 玲の視線を感じているであろうに、隼人は何も言わない。ただ思うところはあるのだろう。うつむきがちになって絶対に顔を上げない。


 そこで玲の両親が前面に出ることになった。


『隼人くんが挨拶に来た時、「同居はしない」ということでした。うちとしてはそれで結婚を許したようなものです。もし隼人くんの言葉が一時しのぎの嘘であるのなら、この場で娘を連れて帰ります。結婚も反故で結構』


 赤城の両親は息子の結納を大々的に宣伝している。

 それを反故にされては体裁が悪いだろうという意識をついての攻撃は功を奏し、赤城の両親は折れた。


 そして空き家となっていた隼人の祖母宅をリフォームし、新居として提供してくれたのだ。


 玲の両親は『新居代』ということでそこそこの金額を赤城の家に持参したようだが、『結構です』と突っぱねられたと聞く。


 そしてとどこおりなく結婚式を終え、そのまますぐに新居に引っ越しする予定だったのだが、『リフォームが間に合わない』と隼人の両親が言いだしたのだ。


 そのため四月にいたるいままで、赤城の実家で過ごすことになってしまった。


『家事はよろしくね。わたしも嫁いできてからいままでやってきたんだから』

 隼人の母親に言われ、玲はその日から家事一切を請け負った。


 それだけではなく来客対応もそうだ。隼人の母親は新しいおもちゃをみせびらかすように親族の前に玲を引き出し、それが済むと今度はお茶やお花の先生に玲を引き合わせた。


 にこにこ笑いながら頭を下げ、客と話を合わせた。客商売をしてきたのでスキルはある。


 それに元料理人であるから当然ながら料理もうまい。

 親族だけではなく後援会の人たちからも玲は大人気となった。


 隼人の母親も父親も鼻が高いらしい。

 玲は顔では笑いながら、内心うんざりしていた。


 結婚式の前夜、隼人の母親は玲のところに来て『あなた、お茶もお花もお免状を持っていないんですってね。いそいで覚えてもらわなくっちゃ。着付けはどうしましょう』と言い、隼人の父親は『隼人が選んできたから仕方ないが……。我が家の格を落とさんでもらいたい』と嫌味をいったくせに、と。


 二か月とはいえ、同居している間にも散々いやがらせを受けた。


 風呂に入ろうと思ったら湯が落とされていた。

 お菓子を買ってきたというからお茶を用意したら玲の分だけなかった。

 トイレに入っていたら「電気が勿体ない」と消された。


 同居初日に家族分の箸を出そうとしたら、「あなたはこれね」と使用済みの割りばしを渡されたときには笑い出したくなったほどだ。


 食器も座布団も椅子も。

 すべて三人分。

 赤城の実家には。

 玲のものはなにもない。


 見かねたのか。

 二週間後、隼人が玲の箸や湯呑、座布団などを仕事帰りに買ってきてくれた。


『これ、買ってきたんだ。使って』

『ありがとう。じゃあ明日から使わせてもらうわね』


 そう言って受け取ったが、次の朝には跡形もなく消えていた。後日、納戸から壊れた食器や破れた座布団が出てきたので、隼人に手伝ってもらってごみに出した。


 そのころから妙な夢を見るようになった。


 内容はいつも同じ。

 老婆がほうきで玲の身体をばしばしと打ち付けるのだ。


 夢のせいなのか痛みはないのだが、その老婆の形相が恐ろしく、玲は毎晩飛び起きる。


 その夢は毎夜続き、昨日もその例外ではなかった。

 おかげで寝不足が続き、疲労困憊していた。


「ついたよ。ここだ」

 隼人は車をとある民家の前で停めた。


 そこが敷地内なのかそれとも私道なのか非常にあいまいだった。

 というのも、門扉というものがない。


 だが、庭はある。

 石灯篭と庭石がきちんと配置され、松の木や低木が植えられている。

 そしてそのむこうに見えるのは『リフォーム済みの祖母宅』。


「すっごいボロ家だろ?」


 隼人の苦笑いを玲はまったく聞いてなかった。

 素早くドアを開けて車から降りる。


「素敵……」


 つい言葉が漏れ、それは呼気となって頬を撫でた。

 まるで昔ばなしの中に紛れ込んだようだ。


 平屋で、軒も縁側もちゃんとあるいわゆる『古民家』だ。

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