怪異2
アキラとヒオ
弐
◇◇◇◇
数年前のこと。
そのときのヒオは、というと。
(『進撃の巨人』みたいだ)
自分を取り囲むレンガ塀を眺めてそんなことを考えていた。
どこか呑気に。
ヒオは学校に通ったことがない。
必要な知識や教育、教養はすべて織部西條が用意した家庭教師から学んだ。『進撃の巨人』は、その家庭教師の大学生が持って来てくれたマンガ本で知った。
壁の向こうからやってくる巨人に対抗する主人公たち。立体機動装置というのにも心が踊り、ドキドキしながら読み進めたが、最終回をヒオは知らない。家庭教師が変わったからだ。
主人公たちがいた都市は、大きな壁に取り囲まれていて、それは巨人から身を守るためであった。
いま。
ヒオは四方を煉瓦にふさがれていた。
天井近くに少しだけ明り取りと空気抜き用に穴が開いていたが、180㎝のヒオが跳躍したとしても届きそうにない。そもそもここに閉じ込められたとき、ヒオは跳躍しようとも思わなくなっていた。
そんな体力は残っていなかった。
織部西條が死亡した時から絶食させられていて、ヒオは畳一畳ほどしかないところで、ただ蹲っていることしかできなかった。
(エレンやミカサはどうなったんだろう……)
目の前で織部の信者たちが煉瓦を積み、出入り口をふさぐのを見ながらヒオはそんなことを考えていた。
あの壁で守られた城塞都市。
彼等は無事生き延びたのだろうか。
壁の中で、生きているのだろうか。
そんなことを考えながら何度もまどろみ、ふと目を醒ました時には、煉瓦のなかは真っ暗だった。
外はもう夜になったのだろうか。
明り取りから闇が液体のように侵入してくる。
ドロドロドロドロと。
闇はコールタールのように粘度を持ち、絶え間なく煉瓦でつくられた密室に注がれる。
ヒオは膝を抱えて座っていたが、次第に息苦しくなって顎を上げた。
ドロドロドロドロと。
闇はヒオを飲み込み、身体を沈めようとする。
『ヒオ。美しいヒオ。
死んだはずの織部西條の声が足元の方で聞こえて来た。
そればかりではない。
しっかりとヒオの足首を掴み、地底へと引っ張り込もうとする。
ずぶり、と。
ヒオの身体が沈んだ。
底が抜けた。
どぶり、と。
身体が落ちていく。
苦しくなって更に顎を逸らすが、抵抗する気はない。
ああ、死ぬんだ。
そう思った。
このまま織部西條と共に自分は地底へと向かうのだ、と。
『ヒオ。美しいヒオ。妾のヒオ』
西條の声を聞きながら考えるのをやめた。もうなにも感じないほうがいいと脳が判断した気がした。
ドロドロドロドロと。
このまま闇に飲まれてしまえ、と。
「ヒオ! いるのか!」
だが突如、それは空気を震わせてヒオを覚醒させた。
同時に轟音とでも呼べそうな音に身を竦ませる。
ドロドロドロドロと。
下降していた身体が止まった気がした。
「ヒオ!」
何度かの破壊音ののち、頭上に一筋の光がさした。
煉瓦が、破られたのだ。
そこから誰かが覗き込んでいるが、逆光でよく見えない。というより闇に慣れた目には眩しすぎた。
「ヒオ! 飲まれるな、手を伸ばせ!」
ぐい、と自分にむかって身を乗り出し、腕を突き出しているのはアキラだ。
数週間前に香取という議員を介して出会った異能者。
織部西條が嫌悪してやまない若い娘。
「アキラ……?」
問うために開いた口から闇が流れ込む。ごぶりと吹き出し、ヒオは激しく咳き込んだ。
咳き込みながら、やっぱり徐々に身体が沈み始める。
口からどんどん闇が注ぎ込まれる。それが胃に入り、身体を鉛のように重くする。
「ヒオ、来い! 腕を掴め!」
「無理……。このまま西條と
話すと、こぷり、と口の端から闇が漏れた。もう首までヒオは地に沈んでいる。身体が重い。喉まで闇がせり上がる。足首には織部西條を感じていた。
「どうせ西條なしではぼくは生きられない」
舌がもつれる。とぽり、と闇を吐いた。織部西條の言葉は、彼女が死してなお残響になってヒオをとりまく。
妾がいるからお前は生きられるのだ。
妾がいてこそ、お前は価値があるのだ。
そもそも。
ヒオは外の世界を知らない。
外と内の仲介者である織部西條がいなければ。
ヒオはどうやってモノを買うのかさえもわからない。
ドロドロドロドロと。
粘度を増してヒオを捕らえる闇。
それに包まれ、安穏とした絶望に沈もうとしたヒオの耳を。
アキラの声がつんざいた。
「たった今から、お前の生きる意味は私だ!」
ヒオは目を開く。
虚空を見上げた。
そこには。
鮮烈な光を宿すアキラの瞳があった。
「西條じゃない! お前の生きる目的は私だ! 私のために生きろ!」
アキラの声は空気を震わせ、闇を破裂させた。
ヒオにまとわりつく剣呑な闇はすべて飛沫となって散り、身体を侵食していた汚泥のような闇は駆逐される。
気づけばヒオは。
泣きながらアキラに対して手を伸ばしていた。
「助けて、アキラ」
と。
そうして、ヒオは目を醒ました。
むくりとソファから起き上がる。周囲を見回した。アキラのマンションだ。
数時間前、書類の整理をしていたら終電を逃した。
散々『駅前にビジホがあるだろう』とアキラに言われたが、『最近ストーカーみたいなのがいるから夜道は歩きたくない』と言うと、しぶしぶ宿泊を許してくれた。
嘘じゃない。いまだにヒオは織部西條の信者につきまとわれていた。
(……でもそれは数か月前の話だけど)
なんとなく、今日はアキラと離れたくなかったのだ。
織部西條と過ごしている時は、相手が誰であろうと触られるのが嫌だった。いつもひとりになりたいと思っていた。
だけど。
アキラに救われ、アキラと共に生活をし、アキラと一緒に仕事をこなすにつれて。
時折『今日はひとりになりたくない』と思う日が来るようになった。
アキラの隣に座り、アキラの体温を感じ、アキラの吐息にふれる場所で眠りたいと思うようになったのだから不思議だ。
性欲など自分にはかけらもないと思っていたのに。
無防備に着替える彼女を見てドギマギするし、あっけらかんと身体を押し付けてくる彼女をどうかしてしまいそうな自分がいる。
ヒオはアキラのことを『ぼくの生きる目的』と他人に紹介する。
最近は『愛しい人』と憚らずに言ってアキラに叱られることはあっても、否定されたことはない。
アキラも自分のことを憎からず思っているはず。
だから。
強引に泊った今晩。
一緒のベッドで眠れるのかと思ったら、毛布とクッションをヒオに押し付け、アキラは冷淡にソファを指差した。
そこで眠れ、と。
つまらない、寂しい、と散々訴えたがそれは聞き入れてもらえなかった。
(……随分と昔のことだと思ってるけど……。たかだか数年前か)
織部西條から解放され、いまはアキラと一緒にいる。
その時間はとても濃密で大切だから随分と長い気がしていた。
ヒオは立ち上がった。
クッションを抱え、壁の時計を見る。三時。
そのままそっとアキラの寝室に向かう。
音をたてないようにドアを開けたのに、「なに」とベッドからは不機嫌そうな声が飛んできた。
「怖い夢を見たんだ」
嘘じゃない。
生きたまま壁に埋め込まれたときの記憶を思い出したのだから。
「はあ?」
アキラが不機嫌そうに問い返すが、ヒオはお構いなしにベッドに近づいた。
「西條の夢」
ベッドサイドでそれだけ言うと、大きなため息が聞こえてきた。
「ほれ」
イヤそうに。だけど、掛け布団を上げてヒオを迎えてくれる。
「ありがとう」
ヒオはクッションを抱きしめたまま、ベッドにもぐりこむ。
アキラがいたからとても暖かい。もぞもぞとすり寄る。
彼女は舌打ちし、ヒオに背を向けた。
ヒオは抱えていたクッションを枕代わりにすると、彼女を後ろから抱きしめた。
「おいっ」
途端に怒られたが、小さな彼女はヒオの腕の中にすっぽりと入ってしまった。
「大好きだよ、アキラ」
彼女の首元に唇を寄せて囁く。彼女からは花束のような香りがした。良い匂いに惹かれるように鼻先を近づけると、アキラは「黙れ」と怒った。
「私は西條じゃない。お前にそんなことを望んじゃいない」
「知ってる」
ちゅ、とリップ音を鳴らして彼女の首元にキスをする。「やめろ!」と真剣に命じられたので仕方なくヒオは身体を離した。
織部西條はヒオに夜伽を望んだ。
信者の前では優秀な覡であることを命じ、資産家や政治家の前では愛人としてヒオを連れまわした。
美しく賢く、完璧なヒオ。
西條はヒオのすべてを自分に捧げることを命じた。
だけど。
アキラがヒオに望むのは。
生きる、というただそれだけ。
「おやすみ、アキラ」
「寝ろ。明日は仕事で早い」
「愛してるよ」
「わかったって!」
ぶっきらぼうな声にくつくつと笑いを漏らしながら。
ヒオは今度こそやわらかな眠りについた。
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