9 解呪

◇◇◇◇


 庭でトマトの苗を確認していた中村日和なかむらひよりは、「こんにちは」という声に顔を起こした。


 家には門と呼べるものや目隠しはない。


 西と東には隣家の敷地と区別するためのコンクリ塀はあるが、正面には設置しなかった。


 ただ中村が植えたハーブや野菜、果樹を植えているため、家の中が丸見えということもない。


 しかし、仕切りはないのである意味誰でも入り放題。無法地帯だ。


 このときもご近所の高齢者が声をかけて来たのだと思った。『トマトの塩梅はどうだい?』と。


 だが。

 外灯そばに立ってこちらを見ているのは見慣れないふたりづれだった。


 年は中村と変わらないように見えた。

 男はまるで芸能人のように目鼻立ちが整っていて、高身長。女はくたびれた気配をしていたが、中村と目が合うと人懐っこく笑った。


「ご精が出ますね。野菜苗ですか?」

「ええ。今年、種から育ててみたんです。ようやくしっかりしてきました」


「寒かったり温かかったりで、なかなか育てにくかったのでは?」

「本当に。ですがようやくさまになりそうです。あの、ご覧になります?」


 中村は外仕事用のエプロンをはたいて立ち上がる。ふたりは「それでは失礼します」と断りを入れて敷地内に入ってきた。その様子を見るからに、やはりこのあたりの人間ではないような気がする。


「わあ、まだ小さい葉っぱだ。見てごらん、アキラ。かわいい」

 膝を曲げて座り、屈託なく男が笑う。


「本当だね、ヒオ」

 アキラと呼ばれた女が男に頷く。


「ここからちゃんと実ができるか心配ですがやってみようと思って」


 中村の言葉を受け止め、アキラとヒオというふたりは興味深げにトマト苗を見ている。


 だがふと、アキラの方がなにかに気づき、視線を巡らせた。


 アキラが指さしたのはどうみても枯れているとしか思えない樹木。


「ああ。もいま手入れをしているところです。昨日あたりから新芽が出てきましてね」

 中村は目を細める。


「芽吹いたばかりの葉はほんのりピンク色をしているんですよ」

「へぇ。なんの木なんですか?」


 ヒオが立ち上がり、不思議そうに見やる。アキラが答えた。


だよ」

「よくご存じですね」


 中村は驚いた。


 葉を茂らせている初夏から、実を垂らす秋ならともかく、冬から春にかけてのブドウは一見ただの枯れた木だ。


 冬に葉を落とし、枝やツルも剪定されたブドウの木を、中村は老人のようだと思って眺めていたのを思い出す。


もそうですよね」

 アキラが問いかけるが、意味がわからない。


「あの実、とは?」

 小首を傾げる中村に、アキラは続けた。


「イザナギはブドウを投げつけることで危機を脱した。櫛と同じです」

 それを聞き、「ああ」と中村は合点がいった。


 櫛。

 それがなにを意味するか一瞬にして理解する。


「緒方先生がおっしゃってたその道のプロと言われるおふたがたは……あなたたちのことですね?」


 数日前に緒方から連絡があり、女性と男性の二人組が行くから話を聞いてほしいと言われていた。


「申し送れましたが、水地彰良みずちあきらと申します」

「彼女の補佐をしております織部氷魚おりべひおです」


 ふたりはそろって、まるで異国の軽業師のように礼をしてみせた。

 その様子が可笑しくて、中村はふふと笑みをこぼした。


「よかった、間に合って。保険の受取りは昨日、夫……というか、いまはまだ婚約者ですが。彼に書き直したところですし、遺書も書き終えたところです」


 中村が微笑むと、アキラもヒオも揃って訝し気な顔をした。


「保険? 遺書?」

 オウム返しするアキラに、中村は頷いた。


「きっと私のかけた呪いを破ったのでしょう? 人を呪わば穴二つ。呪いが破られると、呪い返しというのがあると聞きます。術はすべて術を発動した者のところに戻るとか。私はそれで死ぬのではないですか?」


 そう伝えると、アキラは苦笑した。


「合点がいきました。それほどの心意気でかけられたのですね。なるほど素人さんでも術が発動したわけだ。いいえ、中村日和さん」


 アキラは首を横に振った。


「術は破っていません」

「破っていない。……ああ、それでは」


 力なく中村は笑い、手に持ったままだった移植ごてを地面に置いた。


「芝浦さんに呪いはかからなかったんですねぇ」

「ある意味、それは正しいと言えます。彼女はあなたの呪いに気づかず、怪異は彼女の周辺ばかりに発生しました。具体的には」


 アキラは肩を竦める。


「営業三課はいたるところに落ちた長い髪に苦労させられています。掃除とか」

 今度は愉快そうに中村は笑い声をたてた。


「それは申し訳なかったかなぁ。後日菓子折りでも送ろうかしら」

「構いませんよ。みな、中村さんに対してはいろいろ申し訳なかったと思っておられるようですから」

「かえって恐縮されるのでは?」


 ヒオにまで言われ、「ではそのように」と目を伏せた。


「なので、あなたの呪具を使ってどのように呪われているのかを芝浦に見せつけたのが四日前です。彼女は現在、アパートに引きこもり、ひたすら般若心経を唱えているそうですよ」

 アキラが言う。


「そうですか」

 中村の言葉は素っ気ない。


「呪いをかけるということは、呪いを解く条件もあなたは決めたはずだ」

 中村は視線をアキラに向けた。そしてはっきりと首を縦に振る。


「ええ。そうです」

「その条件については……なんとなく察しはついています。ですが芝浦凛がそこにたどり着くことはないでしょう」


 悲しそうにアキラが言う。

 中村はそんな彼女を眺め、確かにそうだろうと思った。


 芝浦にかけた呪い。

 その解呪は簡単だ。


 自分に謝罪に来てほしい。


 ただ、それだけ。

 なにもかも押し付けて悪かった。見下して悪かった。反省した。二度とあのようなことを誰に対しても行わない。


 そう頭を下げてくれれば。

 呪いは解こう、と。

 最初から心に決めていた。


「あなたたちは、私に芝浦を許せと仰りにここへ?」

 中村は首を右に傾げてアキラとヒオを見た。


「いいえ。少なくともしばらく彼女は怯えて暮らせばいいと思っています」

 即返答され、中村は呆気にとられる。アキラは顔をしかめた。


「それぐらいのことをあなたはされた。彼女は反省すべきだ。だけど」


 アキラは言葉を探すように宙に視線を彷徨わせ、腕を組んだ。うううん、と唸った後、中村を再び見る。


「彼女にそんな感覚というか……意識はない。自分は絶対に正しいし、自分以外の感覚や感情は認めない。自分は尊重され、大事にされるべき存在で、みんなは自分を支えるためにあるとさえ考えている。だから、絶対に呪いは解けない。だから、私は交渉しに来たんです」


「交渉?」

「ある程度で彼女のことを忘れてくれ、と」


 びっくりするぐらい鮮烈な色を孕む瞳を、アキラは中村に向けた。


「許してくれとは言わない。ただ忘れてくれればいい。あなたの感情を揺さぶるほどの存在でもないのです、あの芝浦凛という女はね。だから、囚われてはいけない。そう伝えようと思ったのですが……」

 アキラはくすりと笑った。


「あなたは……きっともう、前を向きかけている。だって、新芽をそんなに慈しめるのはその証拠だ」


 アキラに指摘されずとも、自分でも気づいていた。


 働いていた頃。

 中村はなににも興味を抱けていなかった。


 あれほど大切に育てていた鉢植えはすべて人に譲り、休日には菓子を作っていたのにオーブンレンジに触れずにどれぐらいの日にちが経っただろう。


 円形脱毛症になって初めて「恥ずかしい」という意識だけは取り戻したが、他の感覚は非常におぼろげだった。


 そんな中、唯一強烈に願ったのは。

 芝浦が、私と同じ目に遭えばいい、ということだった。


 夜は眠れず、食欲は失せ、髪は抜けて肌は荒れ、痩せ衰えればいい。


 そのときに思い出したのは母の言葉だ。


『櫛は拾っちゃいけない。苦労と死を拾うからね』 


 これだ、と思った。 

 そこでいろいろ調べ、つげ櫛を手に入れた。


 願いというよりも最早呪いを込めて芝浦に手渡した時。

 ほんの少し後悔をしたのは確かだ。


 だからこそ。

 だからこそ、自分に対して謝る気持ちがあるのならすべて許そうと思った。


 だが。

 中村は見た。

 芝浦がその櫛をあっさりと破棄したのを。


 そのとき、中村は思ったのだ。

 もうなんの心の残りもない、と。

 呪われればいい、と。


「このブドウの幹に、新しい芽が生えて……。それより先にトマトの芽が土からこう……にょきっと出た時に」

 中村は知らずに微笑んだ。


「なんて可愛いんだろうって思ったんです。さっきのヒオさんみたいに。それと同時に、絶対この芽を守らなくっちゃって強く感じて。だから」

 急に可笑しくなって中村は吹き出した。


「遺言の中身なんですけど、夫に『トマトとブドウをよろしく』って書いているんですよね」

「なんと」


 アキラとヒオは顔を見合わせて笑った。


「きっと私……もう、回復途上なんだと思います。……うーん、回復とは違うかな」

 中村は晴れ晴れと笑った。


「もう、忘れかけているんです、あんな女のこと」

「それが最も正しいことです」


 アキラは深く頷いた。


「だけど、彼女は罰を受けねばならない。夏までは私が面倒を見ます。で、頃合いを見計らってあなたに葉書を送りましょう。『もういいですね?』と。そのときに、心で思ってください。『はい』と。そうすれば解呪するように呪いのシステムを私が組みなおします」


 アキラは気遣うように中村を見た。


「それで……どうでしょうか?」

「異論はありません。ご配慮ありがとうございます」

 中村は深々と頭を下げた。




 三か月後。

 夏の盛りに芝浦凛は呪いから解放されて会社に復帰した。

 業務から数か月離れていたため、現在彼女自身に‶指導係〟がつけられ、再教育が行われている。


(送別の品編、了)

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