2 芝浦凛という女

◇◇◇◇


 フロアで昏倒してから1か月後。

 芝浦凛しばうらりんは職場の廊下を歩いていた。


 産業医の緒方おがたから指定された会議室2は、4階フロアの東端にある。

 会議室と呼ばれるが主にチーム内で打ち合わせをする小規模な部屋だ。


(きっと復職許可の件ね)


 胸を張り、久しぶりに袖を通したスーツの上着の端を引っ張る。そうして自分に気合を入れ、ちらりと営業二課のフロアに視線を向けた。


 正確には営業二課ではなく、フロアと廊下を仕切るガラスを、だ。

 鏡面化したガラスに映るのはメイクもヘアセットも完璧な自分の姿。

 休職中も美容系のYouTubeでしっかりと春先のトレンドを学習していた。


(間に合って本当によかった)

 ほっと胸をなでおろす。


 なにしろいまは5月。本社で合同研修を終えた新人がそれぞれの部署に配属されるのだ。


 28歳の芝浦はここ数年、所属している営業三課の新人補佐を任されていた。

 がちゃりと扉が開く音がし、営業二課のフロアからふたりの女性職員が打ち合わせをしながら出てきた。


 ふたりのうち、若い女性のほうが芝浦を認めて目を丸くする。


「あ! 芝浦先輩!」

 タブレットを胸に抱えて、胸の社員証を揺らしながら小走りに近づいてきた。


「大丈夫ですか? 話を聞いてびっくりしたんですよ」


 眉根を寄せて上目遣いに芝浦を見上げる。

 初めて芝浦が営業三課で補佐を担当した三橋だ。


「ぜんぜん平気! ぜいたくにお休みもらっちゃった気分だよ!」

 芝浦は笑い、腕を曲げて力こぶを作って見せる。三橋は唇の両端を上げた。


「なら、よかったです」

「それよりほら。いつも言ってたでしょ? もう忘れたの?」


 芝浦はぴんと人差し指を立て、三橋の前で揺らして見せた。


「み・だ・し・な・み! 私たちは営業なんだよ? いわば会社の顔なんだから。社員証がゆがんでるし、服も一色じゃなくて差し色を意識して」 


 言いながら、三橋の社員証を直し、それからメイクについての指摘も続けようとしたのだが、その芝浦の口をふさいだのは、三橋と一緒にフロアから出てきた女性社員だ。


「芝浦さん、あなた正式にはまだ復職が認められていなんでしょう?」


 硬い声に顔を上げると、30代前半の女性職員と眼鏡越しに目が合う。

 その瞳は冴え冴えとしていて、表情もまるで能面のようだ。


(あーあ。せっかく私が三橋さんを教育しても異動先の担当がこれじゃあねぇ)


 営業は対人関係重視だ。笑顔は基本。いつでも元気溌剌に自己管理しておかねば仕事にならない。


「いまから産業医の緒方先生と面談なんです。たぶん許可がおりるでしょうから、午後から正式に出社になると思います」


 芝浦は女性社員に見本をみせてやろうと、とびっきりの笑顔を浮かべた。


「なのでまたよろしくお願いしまぁす!」


 見よう見まねの敬礼もつけたのだが、返ってきたのは小さなため息。


「あなたうちの課じゃないでしょう? 私に言われても」

「えー! でも私たちは同じ会社のチームでしょう?」


 こういう時こそまた笑顔だ。

 芝浦は両こぶしを握り、女性社員ににっこり笑って見せた。


「そんな顔は、い・け・ま・せ・ん! なにがあったかしりませんが、自分の機嫌は自分でとってくださいね!」


 じゃあ失礼します、と芝浦は軽やかにヒールで廊下を歩きだす。

 ちらりと横目で背後をうかがうと、女性社員に対して三橋がなにか言っている。なだめているようだ。芝浦は肩をすくめた。


 かわいそうな三橋さん。あんな偏屈な先輩にあたるなんて。


 先輩たるもの後輩には優しく。業務指示は丁寧に出し、何回同じ質問をされても表情を変えずにつきあわなくっちゃ。


 それが先輩の役割であり、ひいては会社のためになるのだ。


「あ、ちょっと。ねえ、あなた」


 最初はその声がけが自分に対してのものだとは気づかなかった。背後から肩を叩かれ、ようやく振り返ると作業着姿の男性が立っている。首から下げているのは「入館許可証」なので取引業者の方なのかもしれない。


「落としましたよ」

 にこりと笑って差し出されたに、芝浦は身を堅くする。


(ちょっと、やめてよ。また?)


 男性が差し出しているもの。

 それは、つげ櫛だ。


 形状は日本髪にも挿せそうなものだ。長方形をしており、上部には細工彫りまでされている。歯も細く、初見では工芸品だと思った。


 だが、これをくれた中村は『あくまで解き櫛ですから。普段使いにどうぞ』と言っていた。


『同じものを私も使っていますが、髪がさらさらになるんです。芝浦さん、いつも髪に気をつかっておられたから、よかったらどうぞ。いままでお世話になりました』


 同期でもある中村はそう言って3月末をもって退職した。


「この櫛、ちゃんと手入れされていてすごいね、お若いのに素敵だ」


 男性にそう言われ、芝浦はぎこちない笑みを浮かべた。

 気持ち悪く思いながらも、男性の掌に載せられたそのつげ櫛を摘まみ上げる。


「うちの母もつげ櫛を使っていたんですよ。手入れが手間だろうからブラシにすれば、と言っても髪がなじむんだって言ってました。あ、歯が折れやすいから。なにか専用ケースに入れておくといいかも。それじゃあ」


 にこやかに立ち去る男性を会釈で見送り、芝浦は露骨に顔をしかめてつげ櫛を見た。


(なんで捨てても捨てても戻ってくるの?)


 中村から受け取ったものの、その直後、芝浦はこっそり社内のゴミ箱に捨てたのだ。


 どうせ利用なんてしない。自分の髪は専用のスタイリング剤とお気に入りの美容師に任せている。こんな古臭い櫛は趣味じゃないし、使い方すらわからない。


 だが。

 その日の夜、ひとり暮らしのアパートに帰宅すると「かたん」と郵便受けになにかが落ちる音がした。


 玄関に行き、扉下部にある郵便受けを手前に引いて中身を確認する。


 そこには。

 捨てたはずのつげ櫛が入っていた。


(え。なんで?)


 慌ててアパートの廊下に飛び出すが、そこには誰もいない。

 だがきっと自分が捨てたのを見ていた誰かの仕業に違いない。芝浦はつげ櫛をビニール袋に入れ、他の生活ごみと一緒にアパート一階にあるごみ置き場に放置した。


 次の日。

 仕事場の自分のデスクに行き、引き出しを開けると。


 そこにはまたつげ櫛が戻ってきている。


 芝浦はもう何十回、何百回とそんなことを繰り返していた。

 フロアで倒れて緊急搬送されたのち、入院もしたのだが、そこでもつげ櫛を捨て続けた。見舞いに来てくれた母に頼み、実家の生活ごみと一緒に捨ててもらったというのに、次の日には入院ベッドの枕元に戻ってくることを繰り返している。


(今日だって、これ、コンビニのゴミ箱に捨てて来たのに)


 イライラしながら近くの給湯室に入り、ゴミ箱に叩きつけるように捨てる。

 そのまますれ違う社員に会釈をしながら東端まで進み、『会議室2』と無機質なプレートが貼られた扉の前に着くころにはすっかり気分も治っていた。


(こうやって自分の機嫌は自分がとらなくっちゃ。それが大人の女性よ)


 芝浦は軽く咳ばらいをし、三回ノックする。


「はい、どうぞ」


 室内から応じられたものの、芝浦はおやと思った。

 聞いたことのない声だからだ。


「失礼いたします」


 扉を開き、顔を差し込むようにして中をうかがう。


 入室に合わせて立ち上がったのは男性。

 かなりのイケメンだ。

 服の趣味もよく、身長も高い。年齢は30になるかどうかといったところだろうか。


 スーツの前ボタンをとめながら、芝浦と目が合うとやわらかく微笑んでくれる。

 誰だろうと思いながら入室をためらっていると、男性はまた人好きのする笑みを浮かべた。

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