ノイズレスから遠く離れて
紫鳥コウ
ノイズレスから遠く離れて
八月下旬、下宿先に帰ると、郵便受けに管理会社からの注意事項を書いたチラシが投函されていた。騒音トラブルが起こったらしいが、こうしたチラシは入居者全員に配るものだというから、特に気にも留めなかった。むしろ、僕も迷惑している隣の住人への苦情だと決め込んだ。
下宿でゆっくりする間もなく、僕は母方の実家の苺農家に一週間滞在することになった。大学生の夏期休暇は長いわりに、課題というものが全くないので、僕のような友達のいない奴は、なにかと暇を持て余す。ことさら、下宿に閉じこもるのは苦行に近い。だから、色々なところへ遊びに行くことにしていた。
母の弟の
一樹さんの妻である
そして、夏休みということもあって、愛ちゃんも遊びに来ていた。愛ちゃんは親類ではない。ここの隣の家に住んでいて、いまは実家を離れているけれど、ちょうど帰省しているところだった。
僕は一方的に、愛ちゃんに恋をしていた。キュートな笑顔、心優しい振る舞い、気遣いができて、どこか子供っぽさもある。そして胸も……と、どうか彼氏がいないようにと、祈っていた。だけど、ストレートに訊くわけにはいかないので、愛ちゃんのそぶりに、ずっと注意を向けていた。
「あの……もしよかったら、一緒に花火大会に行きませんか?」
愛ちゃんからそう切り出されたのは、ここに来て五日目の昼で、一駅先のところで祭りが開かれる日だった。断る理由なんて、もちろんなかった。その肩まである、陽の光に輝く美しい黒色の髪を、
* * *
浴衣姿の愛ちゃんを見たとき、二人きりで祭りに行けるなんて、いまが僕の人生のピークだと実感した。もうこの瞬間に、今日、愛ちゃんに告白をしようと決めた。
「どうかな……? 似合ってる?」
「似合ってるよ」
もっと気の利いたセリフが出ればいいのに、いままで女の子と付き合ったことがないから、オウム返しのような返答しかできなかった。
「ならよかったっ」
そのキュートな微笑みを、僕だけのものにしたいと思った。
一体、どうすれば告白への流れに持って行けるのか。屋台を周りながら、そればかり考えていたせいで、愛ちゃんの話についていけないことが何度もあった。
だけどそれを責められはしなかったし、愛ちゃんもどこか、よそよそしいように見えた。まるで、別々のシリーズの人形がひとつの舞台にいるかのような、ぎこちなさを感じていた。
「ねえ……矢嶋くん」
「どっ、どうしたの?」
「えっと、その……花火を見る、特等席があるんだけど、そこに行かない?」
「うっ、うん! もちろんだよ!」
愛ちゃんの声は、いつもよりハキハキとしていないし、一方のぼくも、ヘンなところにアクセントが付くことが何度もある。
花火会場から少し離れた高台に、ぼくたちはいた。
後ろは鬱蒼とした森になっていて、中には神社があるらしく、その向こうには斜めに墓地が広がっているという。灯りがなく、賑やかな声が聞こえてこなかったら、絶対に近寄ることはできなかったであろう。
ひゅううううという音のあと、夏の夜空に華が咲いて、一瞬で儚くも散っていく。ふたり並んで、静かに、色とりどりの花火をじっと見ていた。僕の左手は、愛ちゃんの手を探った。その手は、愛ちゃんに探り当てられた。ぎゅっと結ばれた。解くことは大罪であるかのように、優しく強く。
しかしそのとき、この場に似つかわしくない、着信音が鳴り響いた。
折角繋いだ手を解き、愛ちゃんから離れたところで、電話に出た。音量を最大にしないと、聞き取れない声だった。
『夜遅くに申し訳ございません。先ほど、こちらの方に苦情が届きまして、いま上の階からドンドンと物を落とす音がずっと続いていて、吐き気がしてきたとのことで、もう少しお静かにして頂きたいのですが……』
花火が終わったら、暗やみに勇気をかりて、告白するつもりでいた。もしかしたら、うまくいくかもしれない。そういう予感さえあった。
しかしいま、僕の頭の中を占領しているのは、あのアパートのことばかりだった。何者かが、なにか物を落とす音まで、聞こえてきた気がした。
〈了〉
ノイズレスから遠く離れて 紫鳥コウ @Smilitary
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