ティアリス殿下と季節の魔法

mafork(真安 一)

ティアリス殿下と季節の魔法


 遠い遠い国のさらに向こう、壁に囲われた敷地に、エルフと呼ばれる種族のお姫様が住んでいた。

 名前はティアリス。とても古く貴い血筋であり、壁の内側で『殿下』と呼ばれたら、特に断りがない限り彼女のことである。

 見た目は十代半ばの少女だが、その十倍以上の時を生きていた。

 殿下はふわふわの銀の髪をもち、水晶のような目をしている。エルフの中のエルフと、お屋敷の外にいた頃には称えられていた。


 しかし今は、表情が変わることは滅多になく、精巧で美しい人形のよう。

 実際、時計の針が何周しても、たいていお屋敷の奥にある玉座で人形のようにじっとしている。瞬きしなければ、生きているとはわからないだろう。

 そのティアリス殿下は、純白のクロスが敷かれたテーブルについていた。玉座から移動する数少ない時間である。

 古びた長テーブルは、十数名が列になって食事ができるほど。置かれているのは、灰色のスープと、色あせたサラダ。味気ない食事を終え、ティアリス殿下は無表情に告げた。


「お屋敷の外へ出てみたいわ」


 壁際には従者がずらりと控えていた。全員が顔を布で隠している。

 耳がピンと顔の横に張り出しているので、ティアリス殿下と同じ色白長寿のエルフ族とわかる。

 顔を隠した気味の悪い従者にもティアリス殿下は慣れていた。数え切れないほどの日々を、こうして過ごしている。

 ようやく、一人が進み出た。


「殿下は、このお屋敷の外に出ることはかないません。お父上が、あなた様を守るため我々にそうお命じになったのです」


 ティアリス殿下は顎を引く。それで会話が終わるのも、いつものことだ。


「なら、お庭にいきます」


 従者が椅子を引き、殿下は立ちあがった。

 食事と同じく庭もまた色あせていた。芝生は豊かで、木々も葉をつけているというのに、煤けたように全てが灰色がかっている。

 誰からも色あせて見えるよう、お屋敷には魔法がかかっていた。

 春の緑も、夏の花も、秋の落葉も、冬の雪も、このお屋敷ではすべて色あせている。ティアリス殿下の銀髪も、お屋敷の鏡には色あせた灰色に映るのだ。

 ティアリス殿下は今日も決まったコースを歩き、思案する。

 もう何十年も、毎日きっと同じことをやっている。本当なら、おかしくなってしまうのだろうか。


「永遠の魔法――」


 おぼろげに覚えている魔法の名前。

 従者達は何も応えない。いつもと同じペースで進んでいく。

 同じ毎日を送るにあたり、ルーチンに存在しない言葉は異物として無視される。

 しかし今日は、殿下に応じるように遠くですうっと灰色の煙があがった。


「あれは」


 ティアリス殿下は平坦に問う。強い言葉で違和感を唱えると、途端に頭がぼうっとしてしまうのだ。

 心が乱れないような、普通の調子で問わねばならない。運がよければ、誰かが応える。


「あれは」


 何度も問うて、ようやく従者の一人が応じた。


「壁際の森からですね」

「人がいるの」


 応えはない。

 ティアリス殿下は思う。

 いったい、魔法がかかってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。最初は、ティアリス殿下は玉座と食事場を行ったり来たりするだけの生活だった。

 ある日、ふと思って『外へ出たい』と告げた。

 同じ毎日が続くことが奇妙で、もう何回同じ日をくり返したのか思い出せないことにも、心の奥底が震えた。

 何度も外出を求めると、散歩が生活リズムに加わった。ただ『永遠の魔法』はそんな些細な変化を飲み込んで、散歩を含めた毎日が延々と続いていくだけだった。

 殿下は足を止めたまま、大きな目をきらめかせる。


「あそこへ行ってみます」


 色あせていた庭が、少し華やいで見えた。

 ずっとずっと忘れていたが、世界には季節というものがあり、今は春なのかもしれない。

 ティアリス殿下が森へ歩き出しても、従者達はついてこなかった。

 代わりにもういないティアリス殿下を先導するように、いつものコースを歩き始めた。



     ◆



 ぼんやりと森を歩きながら、ティアリス殿下は不思議さとドキドキが入り交じった気持ちだった。

 森は、庭とは大違い。

 薄暗い。落ち葉の積もった土が足を取る。ティアリス殿下は、空気さえ違うことにも気が付いた。湿気、そして泥の臭い。

 ようやく森を抜けた時、色が目に飛び込んでくる。

 木々が途切れたその場所は、まるで森をくり抜いたかのようだ。陽光が注いで、掘っ立て小屋と、ささやかな畑、そして小さな泉を照らしている。

 ティアリス殿下は大きな目をぱちぱちと瞬きさせた。

 小屋の脇には焚き火がまだくすぶっている。ここで煙を出し、殿下を呼び寄せたのだろうか。


「こんにちは」


 言葉が自然と口をついて、殿下は驚いた。

 お屋敷では、時制つきの挨拶がない。

 朝になれば明るくなり、夜になれば暗くもなるが、時間の経過を意識しないのだ。だから誰かと会って、挨拶を使い分けることはない。そもそも、一日のいつに誰と会うか、毎日決まっている。


「こんにちはって――お昼の挨拶だわ」


 ティアリス殿下は、長い長い間のこと『ごきげんよう』という挨拶しか口にしていなかった。

 小屋の扉が開く。

 出てきたのは、紺色の服を着たおばあさんだった。背筋はピンとして、思わず殿下も背筋を伸ばす。

 おばあさんはお見事な白髪をさわって、目を見開く。そして、優しげに笑った。


「こんなところに、お客様がくるなんてね」


 殿下を手招きした。


「けれども、丁度いい。時宜にピタリとは、ここいらじゃ何十年ぶりだろう。パイを焼いたところなんだ」

「――パイ?」

「チェリーのパイだ。春はこれがなければね」


 『春』という言葉はどこか懐かしく、殿下の胸を打った。

 老婆は小屋のデッキにあった机と椅子の一セットに、椅子を一脚、小屋の中から持ってきて追加する。


「座りな」


 あれよあれよと言う間に、ティアリス殿下は椅子に座らされ、一切れのチェリーパイが目の前に置かれた。

 まだ温かいパイ生地に、真っ赤なチェリー。バターを塗られて焼かれたパイ生地の照りも、甘やかな匂いも、チェリーの輝くような赤さも、殿下にはとても懐かしく新鮮だった。


「春……」


 呟きながら、殿下は引き寄せられるようにパイ生地を両手で掴み、頬張る。

 自然と溢れた涙に、殿下は想像もできないほど長い時間、『味』を忘れていたことを知った。

 チェリーの甘さ。頬を楽しませるパイ生地のサクサクした食触。

 一度に食べ過ぎ慌てて水をもらう。信じられないほどうまかった。


「ティアリス殿下、私は魔女のエレメールという。『永遠の魔法』をかけた一人にして、今は最後の一人。魔法を解きたいなら、またおいで」


 このお屋敷で、殿下は初めて季節を感じた。



     ◆



 ティアリス殿下は永遠に続くいつもの食事、散歩、そして就寝の繰り返しの中、できるだけ老婆へ会いにいった。

 『永遠の魔法』の中では、時間はすぐに曖昧になる。本来なら毎日会いにいきたいが、集中を切らすと、気づくと夜になっている。『同じ日課をくり返させる』という魔法の強制力は、とても大きい。

 ぼんやりして魔法が命じるとおりに動いていたのが、過去の十数年、あるいは数十年なのだろう。

 ただ、エレメールはいつティアリス殿下が現れても、必ず季節のお菓子を用意して待っていた。


「ここには魔法がかかっている。すべてをありのまま保存する、永遠の魔法だ」


 木漏れ日が差し込むデッキで、ティアリス殿下と魔女は向かい合って座る。

 初夏の名物というハーブ茶が二つのカップで湯気と香りをたてている。

 お茶を飲んでからエレメールは語った。


「お屋敷では誰も歳をとらない。あなた、魔法がかかってからどれくらい経つか、わからないだろう」


 殿下がこくんと頷くと、ふわふわの銀髪が揺れる。


「六ニ年だ。人が生まれて、死ぬまでの長い時間、あなた達は同じ毎日をくり返していたんだよ」

「六ニ年……」


 ティアリス殿下は、ぼんやりと呟く。

 まだ魔法の影響が残るせいか、六ニ年という年数について、うまく実感がわかない。他種の血が混ざらない純血のエルフは、ほとんど永劫という時を生き延びる。

 そんなティアリス殿下でも、決して短くはないということだけはわかった。

 エレメールは首を少し傾ける。


「魔法は人の認識を、現実に反映させるもの。あのお屋敷に暮らすすべての人が、時間を、時間による変化をないものとして扱っている。だから、あのお屋敷にいる人は歳をとらず、永遠に命を長らえる」


 老女が首を振ると、筋張った首が見えた。

 この人にも白い首筋と美しい髪色で、世界を華やがせたことがあったのだろうか――そう、ティアリス殿下は思う。六ニ年は、少女が老女に変わる年だ。


「みんなで、毎日、魔法のための儀式を行っているようなものだね。同じ日を、日課をくり返すことで、お屋敷の人は時間や季節を感じなくなり、歳月から影響を受けなくなる」


 初夏のお茶は、涼やかで美味しかった。

 エレメールは目を細める。


「一人が少し違った行動をしたところで、魔法は解けないよ。この魔法は、とても強いのだから」

「どうして、そんな魔法を」

「あなたのお爺さまがやったのさ。エルフは人口減と混血が進み、純血のエルフの姫は王族にしか残っていない」


 エレメールは語った。

 この世で『ヒト』と括られる種族は、いくつかある。純血のエルフは群を抜いて長寿だが、子孫を残し辛く、他種族との混血が進んでいた。

 がっしりとしたドワーフ種、小柄なノーム種など混血の候補は多くあるが、寿命70年ほどのヒューム種が主なものだった。


 『永遠の魔法』により薄らいだ記憶を、ティアリス殿下は苦労して引っ張り出す。

 確かに永劫を生きたエルフ種も、人口のほとんどが混血児となっていた。寿命はよくて五百年で、かつての純血エルフからはほど遠い。

 そして純血のエルフで最後に生まれたのは、ティアリスだ。上の世代は、数百年の年の差で数人がいる程度。血の混じらないエルフは、生まれにくさと、戦乱、そして老いで減る一方だ。


「だから孫娘を、純血のエルフとして、永遠に保存しようとした。その取り巻きごと、所作や文化もろともね」


 ところが、とエレメールは口元をゆがめた。


「純血エルフの寿命より、エルフ王国の寿命の方が短かった。殿下、あなたを残して、王国はもう亡い。混血の家系に滅ぼされた。魔女は契約を守る。私らは、それでも永遠の魔法をずうっと維持してきたのよ」

「亡い?」

「ええ。今では、『永遠の魔法』をかけた魔女も、私が最後の一人だ」


 エレメールは椅子に深く腰掛け、目線を池に向けた。


「この魔法が長続きするには、かかっている当人達に、違和感を抱かせないことだ」


 池に、どこからか飛んできた赤い花びらが落ちた。


「いかに高度な魔法とて、季節の流れを止めることはできない。花が咲くのも、葉が落ちるのも、大地がさせていることだからね。魔法で気温を一定に保ち、外から食材を運び込んで毎日同じメニューを出しても、旬の野菜は瑞々しくうまく、そうでない魚は味に劣る」


 ティアリス殿下は、魔女が出したチェリーパイの味を思い出し、ごくんと喉を鳴らした。


「夏の花に春が去ったのを感じ、秋のキノコに冬が近いことを思う。そんな風に季節を感じれば、毎日同じことをくり返すおかしさに気づくだろう。繰り返しなど、まっぴらだ、と。春が来ても花をみにゆけず、秋が来ても実りを求め山へゆけないのだから」


 エレメールが手を振ると、小屋の窓が開き、お盆にのったクッキーがふわりと飛んできた。


「同じ毎日の繰り返しをさせるには、外への関心を持たせないようにすればいい。お屋敷では、食べ物の味がせず、庭の草木には色がないだろう」

「そう……そうです」

「魔女は、それを『抜き』の魔法と呼んでいる」


 首を傾げるティアリス殿下に、エレメールはクッキーのお盆を差し出した。


「食べてごらん」


 一枚をつまんで、殿下は眉をひそめる。


「……灰色です」

「そうだ。このクッキーから、美味しそうな色を抜いた」

「味もしないです」

「味も抜いてある。お屋敷では、このようなものを食べているんだよ」


 ますます奇妙な話に聞こえた。

 魔女がもう一度手を振ると、クッキーに美味しそうな焼き色が戻った。二口目からは、美味しい美味しいバターと小麦の味がする。

 木苺が入っていて、時々甘みが混じるのが楽しかった。


「おいしいっ」

「それが本当の味さ。こういう味や、色に楽しみがあると知れば、お屋敷の外に出たいと思うだろう。お屋敷の外に甘みや、きれいな景色があると知って、どうして何十年も同じ毎日を送れるだろう」


 エレメールは目を伏せた。


「魔女はね、お屋敷の外に楽しいものやきれいなものがあると思い出させないようにするため、お屋敷の中で色や味を抜いたのだよ」


 殿下はまじまじと手に持ったクッキーを見つめる。

 一口目は、甘さも風味も感じなかった。確かにこんなものを毎日食べていたら、食事が楽しいことだなんて、忘れてしまうかもしれない。

 色もそうだ。灰色の庭を見て、目を楽しませるための遠出などということを、思い出せるかどうか。

 もともと長い時を生きるエルフは、孤独を苦痛に感じないようできている。森の中で何百年も誰とも交わらずに生きる、木々と生き様がそう変わらないものも、かつては多かったという。

 時間の流れを感じづらいエルフは、永遠の魔法と相性がいいのだろうか。


「お屋敷では、季節は忘れられている。それもまた、時間の経過を感じさせないための、強い魔法だ」


 言葉を継ぐエレメール。


「この小屋の近くだけ魔法の効果が薄らぐ。考え事もできるし、色や味も感じるだろう」


 確かに、集中して何かを考えようとすると、いつもはぼうっとして気づけば玉座に座っている。

 よく考えてから、ティアリス殿下は切り出した。


「ねえエレメール。私は、この魔法の外に出たいわ」


 世界に美味しいお菓子やきれいな景色があるなら、どうして永遠にお屋敷の中にいることが我慢できるだろう。魔女の言うとおりだ。


「無理やり出ようとしたこともあるけど、気づくとお屋敷に戻ってるのよ」


 抜け道などもないだろう。聞けばエレメールが普通なのは、この場所と、何より魔女だから。

 ティアリス殿下が抜け出るには、魔法をなんとかするしかない。


「エルフの王国に仕えていた魔女なのでしょう? 魔法を解けないの?」

「大勢でしかけた魔法だ。こればかりは、私だけでは」

「……お屋敷に火をつけてしまおうかしら」

「これは」


 エレメールは目を見開いて、屈託なく笑った。


「相変わらず、おてんばな姫様」


 首をふりふり、エレメールは言う。


「乱暴なことはなさらぬがよい。これほどの魔法、無理矢理に壊せば、影響下にある人にどんな効果が残るかわからない。もし実践するなら、自然消滅を考えるがいいでしょう」


 殿下は小机に身を乗り出す。


「自然消滅?」

「風邪が治るのと同じさ。人々が時間感覚、季節感を失っている今が、異常といえる。それらを取り戻せば、永遠の魔法は消えます。なぜなら、永遠の魔法は住人の意思を現実に反映させているに過ぎないから」


 ティアリス殿下は、青い目をぱちぱちさせる。


「『抜き』の魔法で、季節感を奪って、永遠の魔法を維持しているなら」


 指を一つたてる。

 うん、しっかり考えられる――殿下は思考を進める。

 魔法が、人の意識を現実に反映させるものなら。


「『抜き』の魔法がかかっていない食べ物や、花をみんなに見せて、食べてもらったらどうかしら?」


 殿下は、すっかりかつての好奇心を取り戻していた。


「『色』や『味』を、思い出してもらうのっ」

「殿下。エレメールめは、この小屋からお屋敷へは近づけない」

「なら、私がやるわ」


 ティアリス殿下は微笑んだ。


「みんなに季節を思い出させてあげる」



     ◆



 最初、ティアリス殿下は大勢を食堂に集めて、エレメールからもらったお菓子を振る舞おうとした。けれども、誰一人として反応を示さない。

 食堂の長テーブルに焼き菓子を置いても誰も手をつけないばかりか、殿下自身も頭がぼうっとしてきて、気づくと玉座に座っていた。

 ちなみに焼き菓子はいつの間にか片付けられていた。

 殿下は今更に思う。

 お屋敷には、殿下以外には従者しかいない。あの人たちはどこで食事をとっているのだろう。そして、そもそも、お屋敷の食材はどこからきているものだろうか。


 答えは簡単で、場所は従者用の食堂。食材は、外部からだった。

 エルフの王国が存在した当初からこの地は辺境で、王国は雇い入れた魔女を支配者としておいていた。王国が滅んでからも辺境ゆえに捨て置かれ、まだ魔女達が一帯を支配している。

 そして支配者の顔など意識しないエルフの民達が、何十年、何百年と変わらない納税義務の一環として、お屋敷へ月に二度食料を運ぶのだった。そうした民達は、無論のこと、すでに他種と混血したエルフ達である。

 季節感を思い出させるにあたって、外からの食材を変更させるのも手だろうか。

 ティアリス殿下は、そうも思案する。

 とはいえ、焼き菓子を従者らに振る舞う案は、五回連続で失敗した。

 もったいないので、この案で味を思い出させるのはやめた。


 玉座で、ティアリス殿下は腕を組んで頭をひねる。

 『永遠の魔法』には、思考を縛る力があるのだろう。住人に時間感覚を思い出させようと動くと、魔法の護りが働いて、日課に戻されるのだ。

 一方で、ティアリス殿下は隙にも気づいている。

 小さな行動は、魔法によって縛られずに行うことができた。


「よしっ」


 たとえば、こうだ。

 朝ご飯を食べた後、いつもの散歩を行う。その時、ティアリス殿下はエレメールの小屋からもらってきた真っ赤なアゼリアの花びらを、袋から散らせていった。

 風に乗って飛んでゆく鮮やかな赤い花びら。

 従者の何人かが、歩きつつも顔をそちらに向けて目で追ったのがわかる。


「きれいでしょう」


 ティアリス殿下は歩きながら、後ろの従者達ににっこり笑いかけた。


「外には、こういう花がたくさんあるわ!」


 ねぇ、出てみたい? 出てみたいと言いなさい! とは聞かなかった。そこまで言えば、魔法の護りが働いて、また頭がぼうっとしてきてしまうから。

 今は、従者達に花には色があることを思い出させただけで十分だ。

 殿下は、『色抜き』がされていない白い花や赤い花を庭に散らし、日々の散歩を華やかにさせていく。

 鮮やかな彩りを灰色に変えてしまう『色抜き』は、外から持ち込んだものにも効果を出すらしく、たとえば袋に入れたままの花びらは一日も経てばあせた灰色になっている。

 それでも、従者達は少しずつ色を思い出したようだ。

 なぜなら、あるとき、テーブルに花を飾っておいたら、給仕をする従者が手を止めていたから。


「殿下、これは?」

「ガーベラの花よ。私がとってきたの」


 カップに活けられた赤い花は、誇らしげに揺れた。

 こうした会話は、記憶の限りない。ガーベラはその日のうちには片付けられず、ずっとテーブルに活けられていた。

 魔法で色あせ灰色になってはいたが、従者達は花を片付けなかった。

 それはティアリス殿下にとって、最初の小さな勝利。


「色を思い出させたなら――次は味ね」


 ティアリス殿下は、魔女エレメールから料理を習う。


「エレメール。私に料理を教えていただけない?」

「ほう、料理を?」

「『永遠の魔法』を解く鍵は、味や色を思い出してもらうこと。でも、心がこもったものだって感じてもらえた方が、味の記憶を取り戻しやすいと思うの」


 テーブルに置いた花も、きっとよいものだと思ったから、そう思い出したから、片付けられなかったのだ。


「お料理も、目の前にいる人が作ったものの方が、心がこもって美味しく感じるはずだわっ」


 もちろん、料理は花ほど簡単ではなかった。

 比較的うまくいったものから、お屋敷へ持っていって、従者に食べさせたりした。最初は上手に作れず、エレメールが作ったものを持っていくことも多かったが、やがてお茶とお菓子の時間がお屋敷の日課に加わった。

 やがていつもの食事にも、だんだんと味が戻っていく。

 住人が『味』を思い出したから、抜きの魔法が弱まったのだ。



     ◆



 ティアリス殿下がエレメールを訪れるようになって、いくらかの時間が経った。

 エレメールは、それを二年といった。

 殿下の、エルフの時間感覚では、少しである。

 冬だった。

 魔女の小屋では季節が刻々と変わり、春が芽吹き、夏の花が咲き、葉が秋に色づき、冬の雪が降った。

 一方、お屋敷では魔法のせいか、気温があまり変わらない。雨もぱらつく程度で、特にお散歩の時間は絶対に雨は止んでいる。


 それでも雪はどうしようもないらしい。冬になれば雪がうっすらと積もり、庭の景色を少し変える。

 かつては『色抜き』によって、一面の銀世界ということはなく、木々や芝生に埃のような何かが覆い被さっているだけの光景だった。でも今、まっさらな雪はきらめく白さを取り戻しつつある。

 冬とは、雪とは、こんなにもきれいだったのか、とティアリス殿下の心は騒いだ。

 お庭でこんなに景色が変わるなら、外にある山や、谷は、どれほど素敵だろうと想像力が刺激された。

 ティアリス殿下は従者らに告げる。


「森へゆきます。よければどうぞ」


 そう言って、誰もついてこないのを確認してから、ティアリス殿下は冬の森へ向かう。

 エレメールはひどく咳をしていた。


「……エレメール?」

「殿下ですか」


 魔女は薄く笑った。


「どうやら私には、時間がやってきたようです」


 ティアリス殿下は目を瞬かせた。


「魔女の衰えは、一瞬で進んでしまうのです」

「エレメール、あなたは」

「じきに死ぬでしょう」


 はっとした。

 永遠の魔法の効果が薄い場所ということは、小屋の周囲では、時間は進んでいる。

 エレメールとの時間は、永遠ではないのだ。


「そう……」


 ずっと同じ日が続くのだと考えていたのだ。

 胸が苦しくなる。初めてチェリーパイを食べさせてもらった時、花びらをもらった時、料理を教わった時、色々な思い出が脳裏を駆け抜けていく。

 永遠の魔法で六十と数年を過ごした以上に、この老魔女との時間は特別だった。

 エレメールは口を押さえて、鮮やかな血を拭った。


「……殿下は覚えていないかもしれませんが、私はあなたに大昔に会っています」

「……それは」

「あなたがまだ、このお屋敷の外におられた時。おてんばのあなたは部屋を抜け出して、遠くの森にいた私と出会ったのです」


 ティアリス殿下は思う。

 忘れていた、と。そういえば、そんなこともあったように思う。

 記憶が結びつかなかったのは、エレメールが少女から老女に変わっていたからだった。当時、エレメールは名前も名乗らなかったように思う。

 変わらない毎日は、澱のように積み重なって、過去さえも色あせて見せるものだろうか。

 でもティアリス殿下は、大昔のたった数日の出会いを、今のことのように思い出すことができた。


「『永遠の魔法』をかけた魔女で、私が一番若かった。だから、私が最後の一人になったら、あなたを解放しようと決めていました」


 ティアリス殿下は、老女の震える指を握った。


「ありがとう」


 七十で死んでしまう人にとって、六十年前に会った小さなエルフがどの程度の重さを持つものだろうか。

 ただこの人は、そんな小さなエルフをずっと心の奥に住まわせてくれていたのだろう。


「私は、永遠の魔法をしかけた魔女の一人。私が死んだ後、少しの間、魔法は不安定になります」


 エレメールは続ける。


「ただ、その期間はごく短い。もう魔法そのものは、完成している。この機会を逃せば、向こう千年でも壊せないでしょう」


 殿下は頷いた。


「今なら――」

「ええ。『味抜き』も、あと少しで解けるでしょう。殿下がお気づきになったように、できるだけ心を込めて作ることです。永遠の魔法の大敵は、心を動かすことなのですから」


 ティアリス殿下は思う。おそらく、私達は友達だったのだ。こんなに心が動くのだから。

 エレメールは、最後にとっておきのレシピを教えてくれる。

 『リンゴの王冠』というそのお菓子は、ティアリス殿下がかつて友達に大好きと教えた料理だった。



     ◆



 エレメールに教わったレシピどおりに、冬の果物であるリンゴを切ったり、小麦粉から生地を作ったりしながら、ティアリス殿下は考えた。

 永遠の魔法を解いて、自由になりたい。

 祖父は王国がまだ健在な時代、ティアリス殿下達を、その暮らしごとありのまま保存しようとした。

 でも、エレメールの死や、季節の色や味が教えてくれた。ずっと変わらない永遠よりも、永遠の中に閉じこもっている間に失われてしまうことの方が、ティアリス殿下には大事に思えた。

 祖父の王国はすでに亡い。

 ならば、永遠の魔法が解ければ、ティアリス殿下は自分達でお屋敷の外と話し合い、生活を切り盛りしなければならない。エレメールは味方になってくれそうな魔女のことも教えてくれていた。

 今は、人とエルフが混血した一族が、祖父の王国に代わり辺りを平和に治めているという。今更、前王朝につながる純血エルフの姫が、辺境に残っているとはついぞ思っていないだろうが――。


「面倒なことになる前に、逃げてしまいましょうか」


 居所がばれたら、純血種のエルフを絶やそうとして、あるいは手中に収めようとして、手を打ってくるかもしれない。

 今までは、魔女達が王国当初の依頼どおり、ティアリス殿下達をかくまってくれていたのだろう。ただ、依頼を受けた最後の魔女が死んだ以上、もう宛てにはできない。


「外に行こう」


 祖父が残した形見、この永遠の魔法による檻を、壊して。

 ティアリス殿下は、すっかり慣れた手つきでレンガのオーブンを使い、タルトを焼き上げる。

 季節のリンゴをふんだんにあしらった、リンゴのタルトだ。従者の人数を考えて、二つ焼く。

 かつての王宮では、『リンゴの王冠』とも呼ばれていた。日の当たり方によって、表面が黄金色に輝くからだ。

 外気にさらしてちょっと冷まし、殿下はいそいそとお屋敷へ戻る。エレメールの小屋とお屋敷を結ぶ小道は、往復が増えたせいで、すっかり歩きやすくなっていた。

 殿下がお屋敷に戻ると、丁度、お茶の時間だった。


「殿下」

「殿下」


 顔に布を垂らした従者達が、ティアリス殿下を呼び止める。

 どれも日課にはないセリフだったが、ここ二年で彼らもだいぶヒトらしい反応をするようになった。日課をくり返す人形には、もう戻らないだろう。戻すわけにもいかない。


「みんな!」


 ティアリス殿下は、食堂にみんなを呼び寄せた。十五名ほどの従者が、タルトとお茶が並んだ長テーブルの前に集められる。


「今日のお菓子は、私が特別に、特別に手をかけて作りました」


 切り分けられた、リンゴのタルト。


「大事な友だちから教わったレシピです。これを――食べて下さい」


 ティアリス殿下は言葉を継ぐ。


「そして、思い出して下さい。今の季節を。冬のリンゴと、これから来る春のこと」


 従者達は命じられたまま、お茶の時間の日課どおりに、タルトを口に運んでいく。


「――うまい」


 一人が言うと、次々に声が起こった。


「うまい」

「ああ」

「これは……」


 ティアリス殿下は、ほうっと安堵の息をついた。

 従者達全員が、季節の味を、色を思い出したことで、お屋敷にかけられていた魔法が解ける。庭の雪は銀色にきらめき、一定だった気温は冬の寒さに。予め焚かれていた暖炉で、赤々と燃える火がぱちりと音を立てた。


「殿下、我々は……今まで……」


 震える声で言う従者に、ティアリス殿下は首を振った。


「永遠の魔法は、解けました。今は、冬です」


 全員が季節を――季節が変わりゆくと思い出したことで、止まっていた時間は動き出す。これから少しずつ、ティアリス達も老いてゆくだろう。

 人間よりはずっとずっと緩やかであっても、最後の純血のエルフはゆっくりと老いていく。


「殿下」

「殿下」

「細やかな事情は、後で話します。今は、そのタルトを食べきってくださいな」


 ティアリス殿下はちょっと肩をすくめた。目の端には涙が光っている。


「友人との、力作なのです」



     ◆



 ティアリス達が時間を取り戻し、屋敷を出た、数十年の先。

 混血エルフ達の王国が、あるとき、かつてティアリスという姫君が魔法をかけられて幽閉されていた屋敷を嗅ぎつけ、兵を送った。

 兵士達は荒れ果てた屋敷を探し、付近の森も、小屋も、無人であることを確認する。

 一帯を古くから支配する魔女らも、ティアリス達の行く末には口をつぐんだ。

 ただ、屋敷には古い文書がいくらか残っていた。それは季節の作物を使ったレシピたち。


「なぜこんなものが」


 持ち帰られたレシピ達は、古い王国が残した季節の料理として、混血エルフ達の国を越え、さまざまな土地で楽しまれた。特に、エルフ宮廷風のリンゴのタルトは、バターとリンゴをふんだんに使った味わいが格別であり、レシピに記された『エレメールのタルト』という名前と共に長く広く親しまれた。


 また、一帯の森には伝承が残った。

 古い森の中には、自然と共にあるエルフ本来の生き方を取り戻した、純血のエルフ達が隠れ住んでいる、と。真偽は不明だが、確かにその広大な山中で遭難した者は、耳の長い者達に助けられ、不思議と一命を取り留めたという。

 ティアリスという名が忘れ去られ、エルフに純血・混血という区分けがあったことさえ忘れられても、そうして命を助けられる者は長く長く続いた。

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