人魚 (お気に入りの水平線)

帆尊歩

第1話 カフェシーサイド「柊」18

なぜ僕がここにいるの分からない。

足の向くまま来てしまった。

水平線が見たかった?

いや、何かの救いか?

救い、そんな物。

駅を降りて海岸に向かう。

砂浜まではそこそこの距離があったが、そんな事はどうでもいい。

僕は夢遊病患者のように、浜辺に向かう。

砂浜に入ると大きなラクダのブロンズ像があった。

僕は、吸い寄せられるように足を取られながら、ラクダのブロンズ像に向かう。

何がしたい。

まさかここで海に入ろうなんて。

それは楽になるけれど、そんな勇気が僕にあるとも思えない。

ラクダの横に来ると、女の子が台座に寝そべっていた。

まだ春先なので、海に入るには早すぎる。

なのにきわどいビキニ姿。

人魚か、丘にあがった人魚が地上で途方にくれている、そんな風に見えた。

僕らはしばらく見つめ合った。

その間に耐えかねたのは女の子の方だった。

「なんですか?」

「いや、夏でもないのに水着の女の子が、浜辺で寝転んでいるから」僕は女の子が怒っていないことに安心した。

「人の事言えませんよね。ビシッとスーツを着たおじさんが、これまた浜には似つかわしくない、高そうな革靴でふらふら歩いているんですから」

「ああ、そうだね。でも君ほどじゃない。近くを通りかかって、海を見に来た。変じゃないよね」

「私だって浜辺に水着、変じゃないですよね」

「今が夏で、砂浜にシートなんかをひいて寝ていればね。こんな薄寒い時期に、なんでそんな露出の高いビキニでラクダの下に寝ているの。おじさん人魚かと思ったよ」女の子は嬉しそうに笑うと、

「私、足ありますよね」と女の子は楽しそうに言う。

「うん」

「人魚は足と引き換えに声を失うんです。でも私はちゃんと話しているでしょう」

「じゃあ、人魚を見つけた僕は王子様なの?」

「イヤイヤ、自分で言わないでください。世間ではそれを、おこがましいと言うんです」

「ああ」

「で、おじさんは、この塩浜海岸に何しに来たんですか。観光じゃないですよね」

「えっ。ああ、水平線が見たくて」とっさに僕は思いついたことを言った。

「塩浜の?」

「お気に入りなんだ」これまたとっさに嘘をついた。

「お気に入り?」と人魚は怪訝そうに海を見た。

そしてもう一度僕を見つめる。その強い視線に僕は思わず目をそらした。そんな僕に人魚は何かを感じたようだった。その強い視線は、急に優しさを帯びた。

「私、この浜に逃げてきたんですよ」

「逃げてきた?」

「ええ、人生辛いですよね。でも、ここで海を見ていると、なんか何もかも馬鹿らしくなって、別にいいじゃんて思えて、だからここにいるんです。ここにいると、心が救われる」

「そうなの?」

「ええ、でも気をつけないと心地が良くて、ここから抜け出せなくなるんです」

「だから、この浜で寝ているの?」

「そんなにビキニ姿の女が浜で寝ていると、おかしいですか」

「いやおかしいでしょう。夏ならともかく」

「そうか」

「おじさんも、何かから、逃げてきたんですか?」人魚は僕を見つめる。

なぜここに来た。

楽しい思い出。

うまくいった仕事。

家族との団らん。

それが次の瞬間全てが崩れて行く課程、つらくて、落ち込んで、人に迷惑を掛けて。

なにも出来なくなって。

絶望して。

僕はここに何をしに来た。

逃げてきたのか?

それとも・・・。

あの水平線は、確かにお気に入りだった。

家族と見た水平線は、あまりに美しく、イヤ今だって美しい。

でもそんな水平線を見るのも辛い。

「えっ、いや、僕は・・・・」

「まあ、この塩浜にいると。嫌なことは忘れられますよ。ここは特別な場所なんだから」

「特別な場所?」

「ええ」

「そうなんだ」

人魚は何もかもを見透かしたように、僕に問いかける。

何を知っている?

僕の何が分かる?

でも人魚は僕の心を包み込む。

僕は何だか少し元気が出てきた。

僕がここで何をしようとしていたのか。それは考えないようにしよう。

「あっ、もう行かなくちゃ」と言うと人魚は立ち上がった。立ち上がった人魚は均整の取れた美しい姿だった。

「あの。何処へ」

「海へ」

「海?」

「だって私は、海の住人だから。おじさんも頑張って」

「あっ、ああ」と僕は曖昧に返事をする。

人魚は、近くに乾かしていた、スエットスーツを手早く着ると、サーフボードをかかえて海へと走っていった。

思わずあとを追おうとしたけれど、革靴なので足を取られて転んだ。

人魚はもう海のハレーションにまぎれて、どこに行ったのかわからない。

彼女は僕の中では人魚だ。

丘にあがった人魚は、王子様ではなく、おじさんを助けたのだ。

僕は人魚が寝ていた辺りに座ると、海を見つめた。

でもその心はここに来たときとは正反対だった。

僕はもう少しだけここにいて、海ではない本来の僕の居場所に帰ろうと決心した。


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