生の咎人

あごだし

とある咎人の話である

 小鳥のさえずりに目を覚ますと、そこは深い森の中であった。

 やけに重い体を起こして周囲を見渡すと、明らかな人工物が視界に入った。

 斜めに亀裂の入った酷く苔むした石の階段。わずか数段しかないがそれが鉄道の駅の一部であることはしばらくして理解した。

 階段の横の妙に盛りあがった石ころの山はバラストとしか思えず、恐らく線路があったであろうその先には列車一両が通れる暗いトンネルがあった。

 突っ立っていてもどうしようもないのでしばらく辺りを歩き回った。

 森の植生を見る限り日本国内ではあるようだ。バラストを隠すように生えている雑草も昔ながらの日本の植物な気がした。

 階段は駅のホームに上がるものだが、劣化して苔むしたコンクリートの基礎以外には白い看板があるだけで、その他に人工物は見当たらなかった。

 所々木の皮の禿げた白い看板には何も書かれておらず、恐らく塗装や皮が禿げて消えてしまったのだろう。

 奥のトンネルについても見て回った。

 トンネルの入口に立つと「ボオオオオオ」と風の抜ける低い音がした。入口からは緩やかに左に曲がった遠くにトンネルの出口が見えた。

 出口が見えているのだから行ってみればよいのだが、実際この暗いトンネルを歩くのは少し気が引けた。

 それに、トンネルの出口が妙に遠く感じたのだ。あれより先へ行っては帰ってこられないような、どこか別の世界につながっているような、そもそもトンネルの入口と出口では時の流れ方が違う、そんな気がした。

 さて、一通り周囲を見て回ったものの、今ひとつ手がかりを得ることができない。

 一体どうしたものかと駅のホームから足を投げ出すように腰を下ろした。

 しかしなんだろうか。この場所は妙に心が安らいでしまう。それ故に意識がぼうっとして思考力・判断力がよく鈍るのだ。

 そうして呆けているうちに、雨がぽつぽつと降り出した。

 次第に雨足が強まる中で雨宿りするにはトンネルしかないと思い、薄暗くなった森の中をトンネルまで少し走った。

 確実に雨を避けるためにトンネルの入口から少し奥まで入った。

 気味の悪さを背中に感じつつも雨の次第が気になってずっと外に目を向けていた。

 するとどこからかボオオという甲高い音が聞こえた気がした。どうせまたトンネルが風に鳴いているのだと思い気にもとめなかった。

 しかし次の瞬間、ないはずの線路が足元に敷かれていることに気がついた。

 しかしその線路は透き通ってわずかに光り輝いており、頭の中は一気に混乱に陥った。

 気のせいだと思ったボオオという甲高い音も次第に近づいてきた。

 そして遠い昔に聞いたような気がするシュボシュボという轟音がトンネル内に響き渡る。

 金属の擦れる音とともに自分の背後に迫る何かを悟って振り向いたが時すでに遅し、淡く光り輝く蒸気機関車に轢き殺された。

 確かに轢き殺された。そのはずだった。

 しかし体に痛みはなく、焦って蹴躓いてできた擦り傷以外に目立った外傷はなかった。

 駅の方を見ると先程自分を轢き殺したはずの列車が止まっている。最初は淡く光り輝いていた透明な列車は、しばらくすると寂れた列車へと少しづつ姿を変えた。

 目の前で起きた出来事に動揺を隠しきれず手が震えている。

 震えを抑えながらその駅の方へ歩いて行くと寂れた列車の全貌が見えてきた。

 先頭の車両は蒸気機関車。D51やC62といった有名な大きい蒸気機関車ではなく、もう少し小ぶりでもっと古い時代のデザインの蒸気機関車だった。

 後方の三両は赤茶けた古めかしい客車のようだが、乗客は一人も見当たらない。

 雨の中白い煙を吐く蒸気機関車はじっとそこに佇んでおり、すぐには発車するような気配はない。

 ふと振り返って白い看板に目をやると、先程まで消えていた文字が浮かび上がっていた。


【◀譛ェ譚・ 驕主悉】


 しかし浮かび上がった文字はまるで読むことが出来ず、今いるこの駅が終点ということだけはわかった。

 看板の文字を見て顔をしかめていると不意に背後から声をかけられた。


「お客様、ご乗車にならないのですか」


 無機質な老夫の声だ。

 車掌らしき男は深々と官帽を被っており顔はわからないが、腰が曲がっているのか背は低く自分の身長の半分程しかない。


「この列車はどこへゆくのですか?」

「こちらの列車の行き先はまだ決まっておりません。ええはい」


 乗車するか問われたから行き先を聞いたのに、行き先は決まっていないと言われてしまった。

 眉間に皺を寄せて首を傾げると車掌が続けてこう言った。


「行き先はお客様自身のみ知るところでございます、ええはい」


 行き先は自分のみ知っている……。

 全く検討もつかない。心当たりもない。

 雨雲が空を覆い隠して薄暗くなった森の中で、なにか思い当たる節がないかと目を閉じる。

 両の手で耳を塞いで、肺腑の奥まで森の空気を深く吸い込んで、それからゆっくりと吐いて。


 警報級の大雨でも大学へ来て講義を受ける。

 自分の心に重くのしかかるような雲が窓の外を流れていく。

 なんてことないこの日常が自分にはどうしようもなく退屈に思えて、今すぐにでも教室を飛び出して旅に出たいような気分だった。

 ふとそう思っただけだった。

 しかし運命の神は何を血迷ったか、どうしようもなく退屈な日常なんて軽々と吹き飛んでいったのだ。


 トンネルの向こうから風の音が聞こえる。

 トンネルの向こうから雑踏が聞こえる。

 トンネルの向こうから賑やかな声が聞こえる。

 トンネルの向こうから泣き叫ぶ声が聞こえる。

 トンネルの向こうから悔しがる声が聞こえる。

 トンネルの向こうから声にならない声が聞こえる。


 思い出した。

 心がトンネルの向こうに行かなければならないと言う。それが正しいのだと言う。

 きっと。トンネルの向こうへ行ったら全てが終わってしまうかもしれない。

 しかしわずかばかりの希望が残されているかもしれない。

 どちらにせよ、トンネルの向こうへ行かなければならないのだ。きっとそれが運命なのだ。

 その瞬間、どうしようもなく退屈だった日常が愛しく思えて、熱いものが頬を流れた。


 熱く濡れた瞳を開くと列車はいつの間にか方向転換しており、蒸気機関車の汽笛が出発の……別れの合図を告げる。

 白煙に紛れて乗り込むと列車はゆっくり走り出した。

 蒸気機関車のシュボシュボという音が焦燥感を煽る。

 車窓に意識を移すとそこには……。

 そこに深い森の姿は無く、ありし日の自分の姿があった。貴重な、奇跡的な、愛おしい日々を踏み潰してきた項垂れている自分の姿が。


 全てよ、さようなら。


「お客様、行き先は見つかったようですね、ええはい」


 列車はトンネルの闇の中へと消えていった。

 列車はトンネルの向こうへと、どこかへと走り去って行ってしまった。


「列車の行き先はお客様自身のみ知るところでございますから、ええはい」


―――古きを思う自身との決別である―――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

生の咎人 あごだし @kusohikineet

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ