崩壊世界の1秒前

初見 皐 / 炉端のフグ

第1話 接続


 ──生きた心地がしない。

 ただ独りの戦場が、これほど心細いものだとは思わなかった。物陰に背中を預けて、電気銃ブラスターの残電量を確認する。


「撃てて七発、悪くて六発……。やっぱマガジン多めに持ってくるべきだった……いやまあ重くなるから仕方ないけど。ああもう、これでどう生き残れと!?」


 そんな分かりきった泣き言を、自分で聞いて顔を歪める。口に出したところで楽になるわけではない。むしろ精神に無駄な疲労を溜めるだけ。

 ──そうと分かっていて言葉を漏らしたのは、心が折れかけている証拠だった。


 正面、壁の向こうから物音がして、れんは息を詰める。予測していた方向とは違う。背後の通路には、交戦中の敵がいるはず。


「挟み撃ちか……帰りは残弾切れの丸腰行軍も覚悟だな」


 まずこの場を乗り切らなくては、その覚悟も無駄になる。──だから。


「後のことは後で考えればいい──!!」


 蓮がブラスターを構えると同時、爆音とともに正面の壁が崩れ去る。粉塵の中、脆く崩れた壁の向こうに現れたのは、一機の杭撃ち機パイルバンカーと呼ばれるタイプの大型個体だ。射出したばかりの杭を再装填リロードしながら壁の残骸を乗り越えてくる。

 それを視認した瞬間、蓮は踵を返して走り出した。〝重機〟と分類される敵──『遭遇すれば逃げろ』が鉄則とされる奴らには、ブラスターの通常弾ではまず攻撃が通らない。


 杭撃ち機パイルバンカーに背を向けて走りながら銃を照準──発射。照準の先はパイルバンカーとは別、単純な構造の金属球、単眼種モノアイ──飛行型。重機とは逆に、『見つかったら諦めろ』。それはなにも生存を諦めろというのではなく、人間の足では逃亡が不可能だということ。ブラスターから発射した電撃は、その敏捷性をもって易々と回避される。


「一発無駄にした……やっぱ近づかないとダメか──づぁ……っ!?」


 左の肩に激痛が走った。背後から飛来したに肩口が貫かれ、体勢を崩す。

 機械である敵の最も油断ならない部分──機能の多種性。機械と言えど、生物と同じように──いや、生物以上に、彼らには個性が存在する。それを見誤れば、たとえ歴戦の兵士であろうと窮地に陥る。


 銛を撃ち出したのはパイルバンカー。右腕に近接武器の杭撃ち機、左腕から伸びるワイヤーは銛と繋がっている。


「や…ばい……っ」


 ワイヤーの収縮によって銛が引き戻され、返しのついた穂先が蓮の肩を引っ張る。

 ──油断した。動きの遅い重機型が近接武器を扱うなら、敵を自分の間合いへ引きずり込もうとするのはむしろ当然の道理だった。

 抵抗虚しく脚が地面を離れ、たった今走った道を逆戻りして、勢いのまま杭撃ち機の射程内へと引きずられる。


 ──人間は機械には勝てない。それがこの世の中の、言わば定説だった。機械との戦争に機械兵器でもって抗った人類という種が、莫大な数の命を対価に得た、最終結論。

 圧倒的なスペックの差。いくら人間が機械を扱ったところで、意志を持った機械には──人類の敵には及ばない。


 それこそ、だからどうという話でもない。

 敵がなんであれ、抗わずに死ぬなど端から選択肢にない。

 ──相手が殺しにかかってくるのなら、全霊をもって迎え撃つのみ。


「──換装ロード圧縮衝撃弾セカンドバレット──」


 パイルバンカーは崩した壁の穴をくぐって、こちらへ走り込んでいる。。蓮の左右には壁、前に敵で、後退は不可能。それでも、上になら逃げられる。


「──吹き、飛べえええええっ!!」


 銃口を下、地面へと向けて、吹き飛ばすのは自分の身体。衝撃弾を三発連続射撃バースト、ワイヤーに引っ張られた慣性に抗わず、空中へと弧を描く。

 軌道の頂点で乱暴に銛が外れ、思わず苦鳴が漏れる。

 追撃に向かって来るモノアイを視界の端に捉えながら、空中で制動をかける。

 宙を舞う蓮を追って、モノアイは既に彼の眼前にまで迫っている。

 思えばモノアイ、単眼種お得意の銃撃を一度も放ってこない。ましてこの特攻まがいの挙動は──。

 一か八か、腰のベルトから手榴弾を引き抜き、

 温存していた手榴弾だ。まだここで使ってしまうわけにはいかない。代わりに蓮が使ったのは、単純なブラフだ。機械故の融通の利かなさか、あるいはこの種の人工知能に特有の反射行動なのか。刹那の間、モノアイの注意が逸れた。


 衝撃弾のもう一発を背後に撃ち出し、強引な姿勢制御でモノアイの懐に潜り込む。

 ──口を開ければ、舌を噛む。足場もない空中で身を捩り、無音の裂帛を上げる。

 黒色の軍靴がモノアイの眼、カメラレンズを突き破る。勢いのまま踵落としに蹴り抜き、墜落したモノアイへとブラスターの銃口を向ける。


 通常弾を装填、即座に発射。単眼のレンズから侵入した電撃によってモノアイは致命的な損傷を受け──爆発した。


 自らを爆弾として敵を確実に屠る、〝爆薬型〟。これもパイルバンカーと同じく特殊なカスタマイズが為されていた。


 発生した爆発は、むしろ消滅とでも言ったほうが正しいだろうか。まるでブラックホールのようなは、半径一メートルほどの空間を齧りとって収縮、消滅した。

 モノアイの消滅に巻き込まれたパイルバンカーは上半身が消滅し、驚くほど滑らかな断面を晒して動作を停止──死んでいる。



 蓮は背中から着地し、それを見届けてゆっくりと立ち上がった。


「はあ……、勝った」



 *



 ──AIと人間の戦争、その趨勢はとうに決していた。

 人間と同じ脳回路を機械的に再現した、新型の汎用型AI。それを生み出した研究者は致命的な過ちを犯したのだと人々は言う。

 ──こと。人間と同じだけの思考能力を持ち、同じだけの感情を持ち、しかし機械であったこと。肉体に囚われず、なおかつ人間を遥かに超えた思考速度を有していたこと。


 彼の──あるいは彼女の、そのAIの一分は常人の一日に相当したという。それはなにも比喩ではなく、体感として、そのAIは人間とは異なる時間を生きていたと。

 ──そんなモノが、人間性を正常に獲得できなかったのは当然だと、人は言う。


 事実、結果としてAIは人類に牙を剥き、人類はそれに敗北した。

 そうして数の力を失った人類が生きるためには、少数精鋭のが敵のトップを討つしか他にないのだと。諦めに近い抵抗を、偶然選ばれただけの子どもに託した。


 ──道半ばで死んだが生き返ることはなくても。

 ──敵の足止めに残ったの無事が知れなくても。

 ──たとえ自分が生きて帰れなくても。


 それでも、任務を成し遂げるのが英雄なのだと教えられた。

 その言葉を鵜呑みにした訳ではないけれど。けれど、どうしても成し遂げなければならないと、そう思ったから。



 顔を上げれば、目的地には既にたどり着いている。

 ──全てのAIを司る中枢装置。全ての悲劇を引き起こした、始まりのAIがこのコンピューターの中に居る。

 その装置は、外見にはただ淡く光るだけの無機質な立方体だった。目の前に設置された台は、おそらくコンピューターに接続するためのコンソール端末。人間用に作られたものではないのだろう。その端末には画面もキーボードもなく、表面には四角い枠だけが描かれている。

 脳と機械を直接接続する類のもの。蓮の使うブラスターにも一部取り入れられている技術で、この端末も理論的には人間にだって利用できるはずだ。しかし人間とAIの脳のスペック差を考えれば、今の彼が接続するのは自殺行為に他ならない。


「……そもそも、そんな余裕が今はない」


 モノアイを騙すために投擲した手榴弾を、今度こそは正しい用途で使用する。口でピンを引き抜いて、立方体の装置へと放り投げた。

 何らかの防衛機構が作動すれば、命の保証は無い。そう身を引き締める。

 しかし手榴弾は何の抵抗もなく爆発し、装置の大半を削り取った。


 立方体だった中枢コンピューターは、体積の四分の一ほどを失って、焼け焦げた断面を晒した。

 断面に目に見える回路などは見当たらないが、超小型の電子回路が隙間なく詰め込まれたこの立方体は、それを構成する粒子全てが意味を持つ。これだけの体積を失って、正常に動作するはずもない。


「終わった……の、かな」


 人類を滅ぼしかけた戦争の幕引きには、あまりにも呆気なさすぎる最後だった。勝利したのだと、そう認識するまでに数秒を要した。

 しかし余韻に浸っている時間はない。中枢装置を破壊したからといって、すべての敵が即座に機能を停止するわけではないのだ。



 今は一刻も早く休みたい。それだけを考えながら、コンピューターの残骸を後にしたところで、


「──へえ、たどり着いたんすね? こんなとこまで」


「──っ!?」


 蓮は強烈な怖気おぞけを感じて振り返る。

 今の今まで、誰もいなかったはずだ。隠れていたはずも、そうする理由もない。なのに──

 ──なのにそこには、ひとりの少女が立っていた。


「──ウィクタ」


「あ、どーもっす。なーにやってるんすか、ニンゲンさん?」


 コンピューターの残骸に手を置いて、少女は飄々と目を細める。

 琥珀色の瞳と、無造作に束ねたブロンドの髪。薄く日に焼けた細腕をひらひらと振る様は、パイルバンカーやモノアイのような機械とは一線を画している。

 血の通った人間と顔を合わせるのがやけに久しぶりに感じられて、危うく気を許してしまいそうになるが、しかし──


「どうしてここに……って、聞いていいか」


「それはもちろん──」


 ほんの一瞬、その笑みを消して、

「──三人の英雄の、一人を殺すため」


 ──彼女は人間ではない。

 ウィクタ──《勝利》と冠された彼女の名前は、人類の誰もが知っている。

 かつて破壊と暴虐の限りを尽くして、人類を絶滅の危機にさえ追いやった、始まりのAIの最高傑作。


 世界最強の、敵だった。



「はは……流石に運も尽きたか……。けど──」


 ──どうやら、戦争の終わりを見届けることはできそうにない。

 ウィクタの足止めに残った仲間は、死んだのだろう。それを確認するための問いだった。

 一方で、蓮は中枢装置始まりのAIを破壊したのだから、蓮とウィクタはお互いかたき同士というわけだ。

 残弾は残り一発。ブラスターを片手に構える。


「一歩遅かったな──勝負は俺の勝ちだ」


 中枢コンピューターを破壊するという蓮の目的は既に果たされた。あとの仕事は、残った人類が果たしてくれるだろう。


 だからもう、自分が生き残ることだけを考えればいい。役目を果たしたからといって、すんなりと死んでやる義理はない。だから──


「心置きなく、抗える」


 蓮は戦いの火蓋を切ろうと脚に力を込めるが、その数瞬後──。


「残念ながら、それは心得違いってモンっすよ」


 踏み出した蓮の脚は、硬直したように動きを止めた。ウィクタが何かをしたわけではない。ただ、ウィクタの背後で何が起こっているか、それを蓮は認識した。

 ──中枢装置の残骸が、波打っている。それはまるでえぐり出された心臓のように。無機的だったコンピューターの塊が、今や生々しく脈動していた。


「な──」


──まずい。数瞬の硬直の後、それだけを直感的に感じ取って、脚を無理矢理に動かす。同時、ブラスターを照準、発射。ウィクタを無視して、中枢装置に迷わず最後の一発を放った。それでも──


「無駄っすよ」


 弾丸は装置に着弾、しかし。中枢装置を破壊することは叶わない。

 装置から銀色の液体が染み出す。液体は重力に逆らって、コンピューターにまとわりついていく。ドクン、ドクンと、生傷が修復されていく様を早回しで見ているかのような、悪趣味な光景。

 再生している。中枢装置が、自己修復を開始する。

 それを、蓮は呆然と見ている。眺めているしか他に、できることがなかった。

 こんな結末はあまりにも酷だ。誰も報われない。


 ウィクタと同じ、人格を持つAI。中枢装置の中に収められているは、世界で最初の新型AIだった。人間と変わらない自意識を持つ彼らは、だからこそ自分のコピーの存在に耐えられない。それが大前提のはずだった。バックアップやデータの複製はありえない。《始まりのAI》とて、あれだけ破壊すれば間違いなくはずなのに。


お母様始まりのAIは、もう人格を捨ててるんすよ。あれはもうAIでしかない」


 ──だからバックアップを読み込める。どこか不機嫌に、ウィクタが吐き捨てる。

 世界で初めての、人格を持つAI。人間と変わらない知性を持っていたはずの《始まりのAI》は、いつしか単なる機械に堕していた。自意識を持たない旧型のAIへと、自分自身を作り変えることによって。


 なら。

 ならこの戦争はいったい何だというのか。人類とAIの生存競争ではなかったのか。


「──かはっ」


 激痛。腹にウィクタの拳が突き刺さった。それを遅れて認識する。襟首を捕まれ、吊るし上げられる。度重なる戦闘で、もとより瀕死の体だった。肩口の傷が開いて、どろどろとした血が指を伝う。

 指を開いて、閉じる。ブラスターとの神経接続が切れた。


 心がほとんど挫けてしまっていた。それでも身体に染み付いた癖で、この状況を打開する手段を探す。

 ──これしかないか。

 他に選択肢がないかと少し考えて、あるはずもないと馬鹿らしくなる。なにせ武器がない。持ち込んだ機械の類で、ウィクタに通用するものはブラスターで最後だった。


 投げられたのか、背中に硬い金属の感触が押し付けられる。次の一撃がとどめだろう。ウィクタが近づいてくる気配を感じる。


 旅路をともにしてきた仲間のことが脳裏をよぎった。今から蓮のすることは自殺行為だ。十中八九、任務を果たせずに死ぬ。万に一つ任務を果たせても、その後に死ぬ。

 ひとつだけ残された手段を脳内で確認し、覚悟を決める。


 そのまま……もうすぐ──今。

 目に神経を集中して、視界の霧を晴らす。かろうじて、眼前に迫るウィクタの姿を視界に捉えた。突然目を見開いた蓮の様子に驚いたのだろうか。少し眉を上げた彼女の目を──捉える。


「──接続コネクト


 激痛。


「っ、ぐ、ぎぎぎぎぎいあああ──あああああ‼」


 自分が自分でなくなるような感覚。痛み以外の感覚が抜け落ちる。脳の回路が焼け落ちる。脳のどこかが死んだ。自分が剥がされる。膨大な情報が押し寄せる。自分ではないものがどこか外から流れ込んでくる感覚。読めない。わからない。人間に扱える情報量ではない。押し流される圧し潰され──接続を切った。

 止まらない終わらない痛みも意識も汚染されたまま。それでも目は見える。

 それでも脚は動かせる。

 ウィクタは先程から硬直して動かずにいる。

 ──次。中枢装置に接続するため、コンソールに向かって走り出す。


 自分の脳とウィクタの間に一時的なパスを繋げた。ブラスターの操作と同じことを、強引に実行したのだ。代償として、体の感覚が抜けている。感覚はもう二度と戻らないだろう。

 その代わり、ウィクタもしばらくは身動きが取れない。そのはずだ。後ろを振り返って確認する余裕もなく、走る。コンソールまでは目測で5メートル。


 もう一度。コンソールから《始まりのAI》に接続して、内側から破壊する。ウイルスコードとともに、自分自身を中枢装置に流し込む。


「──やめろ」


 もう口が動かせるのか。背後からの声を無視して、コンソールに手を伸ばす。あと一メートル。


「やめやがれって言ってんすよ!!」


 小さく息を吸って、吐いた。これから蓮の意識は、《始まりのAI》の中に取り込まれる。あと十センチ。

 ──届いた。無機質な端末に掌をかざす。


「──接続コネクト




 ──それが最後だった。





 ──長い、長い夢を見ていた。


 そんな気分だけが先行して、夢の内容は思い出せない。ただ、手放してはいけない大切なものだったはずだと、理由もなく残る郷愁だけが主張していた。

 瞼を開けば、その感傷もすぐに見失って。


「……学校、行かないと」


 どうしてか頬に流れた涙を、袖で拭った。



 *



 ──これまでの人生で、これほど衝撃を受けたことはない。

 なんて、大袈裟なことを言ってみるけれど。寝起きの頭では、他に衝撃的な経験などそもそも思い付かない。

 なにやら長い夢を見ていたのか、記憶の整理がつかない。毛糸玉のようにもつれ切った思考で、自分の名前を思い出すにも数秒かかる始末。


大牧おおまきれん、一七歳にして人生最大のお茶目……みたいな。いや、そんな記憶は無いから問題なんだけど」


 それから更に数秒を現実逃避に費やした彼の目線の先で、彼の脚は土足でベッドに上がっていた。いや、土足がベッドに上がっていたと言う方が正しいだろうか。

 ──朝起きたら、身に覚えのない服を着ていた。なにやら未来チックなミリタリーブーツに、間違っても寝巻きではないズボンとベルト。ご丁寧に上着まで羽織っている。

 土足でベッドに上がって、ましてや毛布まで被っているのだ。夢遊病か、はたまた謎の愉快犯の仕業か。住宅に不法侵入した上で、寝ている男を着替えさせて帰る不審者がこの街にいるとは考えたくないが。


「──それと、これは……?」


 ひとまず戸締まりを確認しようと床に足を下ろすが、いい加減無視できない重みに視線を下ろす。──ベルトに固定された。ロックの解除に手こずりながらその中身を引き抜くと、ずっしりとした重みが手のひらに載る。服装と同様に近未来的なデザインだが、取り回しやすく素人感覚にも接近戦に特化されているのだとわかる絶妙な重量バランス。

 ──要するに、彼の手元には拳銃が握られていた。

 ズキリと、頭が痛む。果たしてこれはモデルガンか、実銃か。蓮はそれを考えかけて、思考を放棄した。万が一にも実銃だった場合、どうすればいいというのか。


「どうしようもないよなぁ……」


 結局蓮は結論を保留することにした。中途半端な覚醒で頭が働いていないせいで、昨夜の出来事をど忘れしているのかもしれない。明日以降何事も起こらないならそれでいいし、そうでないなら考えるのはその時でいい。身につけていたものを部屋の隅にまとめて、ため息をついた。



 *



 ──いまだに、夢から覚めた気がしない。何かを夢の中に置いてきてしまったかのような虚無感が胸中を支配している。

 通学路、そんな考え事をしながら道を歩いていると、


「……なんか、けられてる気がする」


 とはいえ、今朝の事件とはおそらく関係がない。だからといって気のせい、という風でもなく──というか。


「バレバレすぎる……」


 不審者と言うには、尾行の方法がおざなりすぎるのだ。

 蓮が振り返れば慌てて電柱の影に隠れ、信号を渡ればなぜか姿勢を低くして真後ろをついてくる。曲がり角のミラーには全身が映り込み、信号待ちでは真横の街路樹に隠れて、もはや横目にも視界に映り込んでいる。


 いちいち「さささっ」「ススッ……」と効果音が聞こえてきそうなほど、むやみに大げさな動作。その結果、むしろ人目を引いている。もし蓮が女子高生で、後を尾けるのが中年の男であれば即座に警察が呼ばれたであろう状況だが、今に限ってはそうはならない。

 なぜなら尾行するのが女子高生だから。蓮と同じ制服を着ているせいで、傍から見るとその様子はむしろ微笑ましい。

 しかし実際問題、蓮に彼女との面識はないのだから、声をかけようにもかけづらい。もはやこのまま学校まで到着するのではないか。そんな膠着状態が続いて、交差点に差し掛かった時。


「あ、あの……お財布落としましたよ……?」


 鈴のような声に、連は背後を振り返った。声の主は白髪の少女。困ったように蓮の落とした財布を差し出している。


 蓮を尾行していた少女だ。しかし、悪意のようなものは感じられない。

 純粋に、蓮の落し物を拾ってくれたのだろう。ほっ、と安心のため息をついて、財布を受け取ろうと手を伸ばした。

 ほんの一瞬、連の指先が少女の手に触れた、その時。


「──っ!?」


 ──殴りつけられるような感覚が蓮を襲った。

 他人の記憶が自分の中に流れ込んでくるような不快感。歓喜、憎悪、酩酊。脈絡のない感情の波に押し流されて、自分の形を見失いそうになる。


 気がつけば、蓮は大きく飛びずさっていた。目の前の少女から寸毫も目を離せない。見た目からして年齢は蓮とさほど変わらないだろうか。光に映える白の髪、困惑に揺れる薄茶の瞳。

 ──。半ば無意識のうちにそんなことを考える。


「えっと……?」


「いや……ごめん。なにか寝ぼけてたみたいで」


「そう、ですか?」


 心配げに顔を覗かれる。思ってみればこの少女も、初対面にしては少し奇妙な距離感だった。距離が近いというわけではなく、むしろ遠い。二人ともが腕を伸ばして、ぎりぎり財布を受け渡せる距離。

 警戒させてしまっただろうか。無理もない。ついさっき蓮に襲いかかったわけのわからない感覚で、息が乱れていた。


「──あのっ」


 発作的に乱れた息を整えて向き直った蓮に、少女は一歩を近づく。しかしそれは無自覚に零れた言葉だったのか、一瞬の躊躇いとともに続ける。


「……外の世界は今、どうなっていますか?」


「外の世界……?」


 発作は落ち着いて、流れ込んだ感情はまたどこかへと沈んでいく。こびりついた虚無感を傍に置いて、蓮は返答に頭を回すものの、要領を得ない。外の世界──どこか夢見がちだとも思えるその単語と、今の状況が結びつかない。


「い、いえ、なんでもないです。忘れてください」


 混乱に混乱を重ねる蓮の思考を、少女は早口で置き去りにする。質問の意図を問いただしたい気持ちはあるものの、蓮も謎の発作であまり余裕がない。今朝からの奇妙な感覚は続いているし、今はともかくひとりになりたい。


 ──果たして、差し出された財布を受け取ろうと再び前に出した手は、またしても空を切った。


「──え?」


 ──ぽすっ、と。蓮の手は財布よりも大きなものを抱きとめた。想像よりも重くのしかかるそれに、蓮は膝を折る。


 意識のない人の体は、とても重いのだという。あるいはそれは、抱き抱える側の力が抜けてしまうからなのか。


 彼の腕は、白髪の少女を抱きとめていた。初対面の蓮に抱きすくめられる形になった少女は、しかし身動ぎのひとつもしない。むしろ、自分の体重を支えることさえ忘れてしまったようで。


「嘘……だ、ろ」


 蓮の左手は、赤く染まってしまって。だからきっと、少女は右の脇腹に傷を受けたのだろう。

 ドクドク、ドクドクと。冗談かと疑うような量の血が溢れて、血溜まりを広げていく。


 ──少女は、蓮の腕の中で事切れていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

崩壊世界の1秒前 初見 皐 / 炉端のフグ @phoenixhushityo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ