第3話
本格的な夏が来て、クーラーの冷たい空気が逃げるからという理由で以前よりもあまり窓を開けなくなった。
それを言い訳と感じる自分も実はいて、学校の課題が思いのほか進むのは良いことなんだけれど、胸の中のどこか一カ所が常にぐるぐると音を立てながら回っているような、落ち着かない気分になっていた。
学校が夏休みに入り、課題がいつも以上にたんと出された。それをどうにか消化しなければという意識にもなり、私はいつもに増して部屋の中に閉じこもっている。
描いて、造って、構築して。途中でどうしても「アイス!」という気分になってコンビニに出かけた帰り道。とにかく陽射しは強く、道に落ちる影は濃くて、まるでタールのようだった。早く部屋に戻ってアイス食べよう。急ぎ足で階段を上って、その途中からインターフォンを連打する音を耳が拾う。
ピンポン、ピンポーン。
耳に馴染んだインターフォンの音も、廊下側から聞くと少しだけ違う感じに聞こえるのだと初めて知る。
アパートの廊下で奏くんの部屋のドアをノックしているのは、いつか見た、そして美少女と見間違えた、奏くんのお友達だった。
*
あれから奏くんはスパイスカレーに凝り始めたらしく、廊下にはスパイスの香ばしくて美味しそうな匂いが漂うことが多くなっていた。
それと、だいたい週末ごとに、私の部屋のインターフォンを鳴らす。恐る恐るドアを開けるとにっこりしながらいつかのようにタッパーを差し出してくれる。
「ミドリちゃん、ココナツ大丈夫だったよね? グリーンカレー作った」
「あ、あの……あの。いつも頂いてばかりで申し訳なく」
「だって。一人で作って食べても味気ないんだよね」
渡されたタッパーはまだ温かくて、既にとても美味しそうな匂いがする。
「夏のカレーって旨いじゃん?」
「それは、あの……はい! 美味しいです、いつも!」
勢い込んで答えると、奏くんは満足そうに口元を緩める。そりゃまぁ、料理が趣味の人が誰かに食べさせたいと思うのは当然の流れなのかも知れない。そこは分かる。でも、奏くんほど素敵な人なら食べてくれる人なんかたくさん居そうなものなのに。どうしてだろう。先日の告白が胸の中を掻き回して何も言えなくなる。
「素直でよろしい」
ふざけて軽くふんぞり返って見せてから、ほんの一瞬だけ、何か言いたそうな顔になる。それを飲み込んだのも分かる。分かるくらいには私は奏くんの細かな表情を気にしてしまっていて、でも、だから自分から何も聞くことが出来ずにいる。
「あと、部屋の空気、入れ替えた方が良くない?」
「えっ、く、臭い……ですか……」
ふはっ、と噴き出して首を横に振った。
「偶には外の空気も吸いなさいってこと」
ひらひらと手を振ってドアを閉める。少し間があってから足音がして、お隣のドアが開いて閉じた。
受け取ったタッパーをテーブルの上に置くと、そのまま歩いて部屋を突っ切り、掃き出し窓に手をかけて……思いとどまる。
何だか力が抜けて座り込んだ。ぺたり。冷えた窓に頬をつけると、遠くで歌う声が聴こえたような気がした。
*
「あ、こんちは」
「……こ、こんにちは」
「やべっ、怪しい者じゃないっす! 俺ここの部屋の奴と友達で、あいつ寝起きがヤバくて!」
あまりの剣幕に何だかシンパシーを感じつつ、自分の部屋のドアの前で立ち止まる。彼はわずかにキョトンとして、それから「あ!」と大きく口を開けた。ついでにこちらに人差し指を向ける。
「奏が餌付けしてんのって!」
「……餌付け?」
ガチャリ。そのタイミングでドアが開く。私は自分の部屋のドアを開けて一気に身体を滑り込ませ……るつもりでドアノブに手をかけた時点で再び「あ!」という声を聞いて、それで反射的に振り返ってしまう。ドアから顔を出した奏くんがこちらを覗き込んでいた。
少し眠そうな顔の奏くんは、ちょっとだけ遠い目をしている。
「……おはよ」
「……おはよう、ございます?」
もうそろそろ夕方ですよ? とか、餌付けとは? とか、私が何かを聞く前に、手のひらをすっとこちらに向けた。静止のハンドサイン。それで私は口をつぐむ。
「お前さぁ」
視線をお友達に向けると、いつものおっとりした口調とは違ってやや砕けた様子で呼びかける。わぁ、お前だって。
奏くんはまず男の子の人差し指を隠すように掴み、続いて服の襟首をぐいっと乱暴に掴むと、自室の玄関に力任せに放り込む。でもその間ずっとお友達は笑顔だったから、これはきっと戯れ合いのようなものなんだろう。
寝癖のついた髪のままでもう一度こちらに視線をくれると、少し考えるみたいな間ができる。
「……あとでね」
「あ、はい」
考えた末の何も出てこなかった感じが丸わかりの保留。どうやらこれは本当に寝起きらしい。私の返事を確認するとやっぱり無言で頷いて、それからドアを閉じる。
私は部屋に戻ると買ったばかりのアイスを袋から取り出した。逃げようとしてしまった。奏くんから。あんな事があったから当然なのかも知れないけれど、それにしたって最近の私は少し変かも知れない。
レモン味のかき氷は表面にレモンの輪切りが乗っていて、それを人差し指と親指でつまみ取る。端っこを齧ってみると甘さや酸味よりも感じ取れるのはほろ苦さ。ギュッと目を瞑った瞬間、お隣からさっきの男の子の笑う声が聞こえた。
*
奏くんの「あとでね」の言葉は本当のことで、それから少ししてて日が暮れて虫が鳴き始めたころに、ベランダから歌う声が聴こえてきた。夜に歌うのはめずらしいな。吸い寄せられるように窓に近付く。
心地の良い高音、しっとりした低音、吐息にも似た甘やかなブレス。染み込むようなビブラートが鼓膜を揺らす。
ゆっくりと窓を開ける。湿度の高い夜風と一緒に奏くんの歌声が部屋の中に流れ込んできて、それが何だかとても久しぶりのことに思えて、知らず深呼吸をする。
「こんばんは」
そのまましばらく歌ったあと、声をひそめて奏くんが言う。
「こんばんは」
立ち上がって柵に手をかけるか迷って、結局、窓辺に腰掛けた姿勢で私が応える。
それから奏くんは何でもないみたいにお友達の話をした。あの、昼間に訪ねて来ていたお友達は、持ち込んだゲームで奏くんと何度も対戦をして、散々遊んでご飯を食べて、なんといま現在は部屋で眠っているのだと言う。
「信じられる? アイツ、飯食ったら寝たんだけど」
「え、さっきのお友達ですか?」
「もう爆睡」
「それは何と言うか……居心地が良いんですね、きっと」
ちょっと分かってしまうので、私は笑いながら言葉を続ける。
「奏くんは面倒見が良いと言うか、世話焼きな所があるし、安定感があるような気がしますね」
「まぁね、妹もいるし、世話焼きは否定出来ないかも」
空気がほぐれて心地よい。そう思う。
奏くんと居る自分は、普段とは違う何か素晴らしい魅力を持った人みたいに思えて特別だった。別々の部屋に帰って日常が戻ってくると、だんだんと魔法が解けて、やっぱりごく普通の何処にでもいる存在なのだと知らしめる。そんな私が奏くんの横に立っても良いのだろうか。壁を隔てたお隣さんとしての距離を保つのが、実は最適解なのでは。
「……ねぇ、俺、迷惑だったかな?」
震えるような声だった。
その気弱そうな呟きが耳に届いた途端、私は慌てて立ち上がる。風呂上がりですっぴんで、髪を梳かしてあったかとか、ヘンテコなシャツを着てなかったかとか、瞬時に頭の中が走馬灯のようにぐるぐるになったけれど、その全部をとにかく勢いだけで抑え込む。
「そんなこと、ない」
奏くんの歌声が聴きたいのに窓が開けられなかったり、作ってくれるご飯が美味しいのにドアを開けるのが怖い気がしたのは、全部全部、この距離感が失われたら寂しいなって思っていたからだ。
「違うの。私が、怖くなっただけで」
想像上の「お隣の歌姫」が「素敵な男の子」として実態を伴って現れて、私はそれがとても嬉しくて、優しくしてくれるのが幸せに思えたから。だからその距離を失うのが怖くて自分の気持ちに蓋をしてしまっていた。
手を触れた柵は昼間の熱気を残したまま、まだ少しだけぬるい。お隣の方を向くと柵の上に組んだ腕を乗せた姿勢でいる奏くんの姿が見えた。
「こんばんは」
もう一度奏くんが言って、笑えているかわからない顔のまま「こんばんは」と返す。吹いてきた夜風が前髪を揺らす。奏くんの柔らかそうな髪が風をはらんでふくらんで、それに触れたいと思った。
きっと今の私の顔は奏くんが面白がっていた通りに赤くなっているはずだけど、それでもここは伝えるべきだと思い直して顔を上げる。たぶん蚊の鳴くような声で。だけど、勇気を振り絞って。
「私も。好き、です」
*
歌声で目が覚めた。
季節はすっかり秋の気配をまとい、私の部屋のベランダでは、つい先日コスモスが初めての花をつけた所だ。
タオルケットに包まったままもぞもぞと体を動かして、わずかに開けたままの窓へと近付く。歌声がより鮮明になり、窓の外の気配も手に取るようにわかる。鉢植えに水を遣る音、美しい高音、きれいにかかるビブラート、心そのものを揺らすような甘いブレス。思わず芋虫のままで目を瞑って聴き入っていると、カラカラリと窓が開いて奏くんが覗き込んだ。
「起こしちゃった?」
「ううん、平気」
「そう?」
私の部屋のベランダは、いまや奏くんが持ってきた鉢植えでずいぶんと賑やかになってしまった。名前を知らない植物も多くて、聞けばいつでも教えてくれるけれど、聞いた傍から忘れてしまう。
「アルバイト先がお花屋さんなんて、奏くんにぴったり」
「ええー?」
心外だと言いたげに眉をあげた。
「花屋って結構、力仕事多いよ? 鉢植えとか、土とかさぁ」
「そうかなぁ」
どちらかと言うと綺麗なお姉さんにも間違えられ兼ねない中性的な顔立ちを眺めてそう呟くと、奏くんの口角が持ち上がるのが見えた。あ、と思った時にはもう回避行動は間に合わなくて、瞬く間に力強い両腕が身体に回されるのを感じる。続いて浮遊感に襲われて私は思わず身を固くした。
「お、重いからっ!」
「このくらいは軽いんですー!」
「わかった! わかったからっ!」
得意満面になった奏くんがタオルケットごと抱えた私をベッドの上に降ろして、その顔がすごく近くでにいっと笑う。顔が綺麗すぎる。これ、いつまでも慣れる気がしないなぁ。なんてことを思いながら、私はそっと目を閉じるのだった。
Fancy in the Balcony. 野村絽麻子 @an_and_coffee
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