第2話
実家から段ボールいっぱいの野菜が届いた。
「こ……こんなの嫌がらせだよぉ〜」
お母さんの怒った顔が頭の中にぷかりと浮かぶ。「きちんと料理をしなさい。野菜を食べなさい」鬼のような形相でそうお小言する。わかるよ。わかるけど……いきなりこの仕打ちはハードルが高いです。
途方に暮れながらベランダに出る。まぁ、いつでもベランダで歌ってるなんて訳もなく、今日は
私のベランダには鉢植えも無ければ花も咲いていない。せめてサボテンくらいは置こうかな。アパートの外からベランダを目にした時のことを思い出す。緑にあふれた奏くんの部屋のベランダはとてもロマンチックに見えたから。
カラカラカラリ。
お隣の窓が開く音がした。ご在宅だったのか。そう思う間もなくサンダルを履く音がして、それから、男性にしては高めの声が名前を読んだ。
「ミドリちゃん、いる?」
「あ、ははい、います! よ!」
ふふふ、と笑うのに合わせて何だかマイナスイオンが発生している気がする。
「ねぇ、お腹空いてる?」
ちょっと作り過ぎちゃって。と、まるで漫画かドラマみたいな台詞を言った奏くんが笑ったのが分かった。
*
あれから、奏くんとはよくベランダ越しにお喋りするようになった。
例えばお休みの日の昼下がり。課題の進みの悪さに不貞腐れてお布団に包まって芋虫になっていると、お隣のベランダから植物に水を遣る霧吹きの音と、素敵な歌声が聴こえてくる。もちろん私は誘われるようにもぞもぞと這い出してベランダに近付く訳で、そうすると気配に気付いた奏くんが「おはよう、起きた?」と笑いを含ませた声で言う。
お互いのベランダを覗き込んだりはしなくて、柵に寄りかかった姿勢でお喋りすることもあれば、今回みたいに寝起きだと顔は見せずにお喋りだけすることもある。
「吉高さんの方が朝は弱いのでは?」
「え? なんで?」
「いつだったか、お友達にインターフォンを二十回くらい押されてましたよね」
あぁ、アレね。と照れた声がして、私は胸の中に照れくさそうに頭を掻く奏くんを思い浮かべる。そうかなぁ、二十回も鳴ってたかなぁ、五回くらいじゃなかったかなぁ、と訝し気な声で続くので頑張って笑いをこらえる。これじゃあお友達もあんなに険しい表情をする訳ですよ。
「それより、呼び方。奏でいいよ。俺もミドリちゃんて呼んでいいよね?」
若干の有無を言わせない口調に「決定事項ですか」と言いたくなるのを抑えて「あ、はい」と答えるので精一杯。正直なところ、ベランダの壁越しにちらりと確認できる奏くんの横顔だけでお腹いっぱいになる私としては、名前で呼ばれるのはいささか刺激が強かったりもする。でもまぁ、ベランダ越しだから。適切な距離感を保てばきっと大丈夫。
なんて気持ちを知ってか知らずか、奏くんはそれをひょいと軽く乗り越えてくる人だという事に、気が付いた時には既に彼のペースに乗せられているのだ。
*
無性に食べたくて、と言いながら玄関先に現れた奏くんは、お皿の上に数切れの美味しそうなサンドウィッチを乗せていた。
「具を考えるのが楽しくなっちゃって。気付いたら食パン一袋使い切ってて、それは流石に食べ過ぎかなって」
「うーん、一人で食パン六枚は確かに……」
「でしょ。後で感想聞かせてね」
玄関ドアとほぼ同じ背丈の彼がくるりと踵を返すのを「あちょっ、ちょっと、待って!」と慌てまくりながら呼び止める。
「も、貰いっぱなしは、あの、申し訳なく!」
「えー、気にしないでよ。俺が勝手に押し付けてんだから」
毎回そうはおっしゃいますが、そして頂きっぱなしになるのですが、今日の私は一味違うのです。
「野菜っ、いりませんかっ!」
「……野菜?」
可愛らしく小首を傾げる奏くんに、キッチンにドンと鎮座する段ボールを引き寄せて指し示す。
「これ実家から送られて来たんですけど、絶対に私一人じゃ食べ切れない量で」
しかも料理あんまりしないし、という言葉は飲み込んだ。
「実家の家庭菜園のなのでちょっとアレかもですけど……」
しゃがみ込んだ奏くんは段ボールの中をしげしげと興味深そうに見回してから、ふと、こちらを見上げた。その上目遣いがあまりにも可愛らしくて、電撃に打たれたように「うっ」となる。反射的に胸を抑えている間に、段ボールの中からナスとピーマンとトマトを選び出した奏くんが立ち上がった。
「じゃあさ、俺、これ使ってドライカレー作るから食べてよ」
「ドライカレー!」
久しく食べていないメニューに、私のお腹はくくぅと勝手な返事をする。奏くんは赤くなる私に向けて嬉しそうに微笑むと「じゃあ、夕飯時に」と言い残してお隣へと帰って行く。
*
私は本来とても人見知りで、普段ならこんな風にお隣さんと交流するとか、しかもあんなに素敵な人となんて、本当の本当に夢のような話なのだ。でも、どうしてか奏くんにドキドキはするけれど、ほとんど緊張はしていないみたい。
あまりにも歌声を聴き過ぎて、勝手に親近感を抱いているとか? それか、奏くんからマイナスイオンが発生しているから? それとも、絵本の中の王子様に本気で恋をしないのと同じように、自分とはまったく違う世界の住人だって理解しているから?
「うーん、何でだろう」
「何が?」
思わず声に出ていた言葉を奏くんが拾って、ドライカレーの入ったタッパーを持ったまま不思議そうにこちらを見下ろしていた。玄関先に立つ姿は相変わらずドアよりも背が高く見える。これって、部屋に入る時に背を屈めて入るのかな。
「奏くんって、身内にお母さん以外の女の人が居ます? 例えば姉とか、妹とか」
「うん、妹が一人いるけど」
あぁ、だからか。合点のいった私は思わずにっこりしてしまう。
「私、兄がいるんですよ」
「そうなんだ?」
「うん。だからね、私すごく人見知りなんだけど、奏くんに緊張しないのって、お兄ちゃんみたいって思ってるからなのかも」
奏くんは、ちょっとだけ変な顔をした。
「そう? 少なくとも俺の妹は、ミドリちゃんみたいな可愛い感じじゃないけどなぁ」
「かっ……!!」
「あはは。赤くなった」
手に持っていたタッパーを私に押し付ける。想像どおりに背を屈めて玄関に一歩踏み込んだ奏くんの体は、私が思っていた以上に大きくて存在感があって、気が付けば何だか私は耳が熱い。
「課題もいいけど、ちゃんと食べなね。あ、茹で卵、乗っけるのオススメ」
じゃね、と短く挨拶をした奏くんがドアを閉める。お隣のドアが開いて閉じる音を聞いても、私の耳はしばらく熱いままだった。
刻んだ夏野菜がたっぷり入ったドライカレーはとても美味しくて、スパイスが効いてて夏みたいな味がした。窓の外ではどこかの家の軒下に下げられた風鈴の音がして、ひと区画向こうの広い道路を走る車の走行音が、まるで海のようだと思った。
*
梅雨が明けたはずなのに雨の気配を孕んでいて、空気がどこか瑞々しい夕暮れ時。学校帰りのコンビニ前で見覚えのある姿を見つけた。名前を呼んでみようか、それともコンビニに入るのをやめにしようか。迷う内にふと奏くんが振り返る。
「ミドリちゃん」
「こ、こんばんは」
アパートの敷地外で奏くんの姿を見ることってあまりないから何だか新鮮だった。奏くんも同じことを思っていたみたいで、コンビニの扉を開けてくれながら「何か変な感じする」と言う。
特にコンビニに立ち寄る目的があった訳ではなくて、店内から漏れる明かりを目にしたら引き寄せられてしまっただけだ。だからキョロキョロと店内を見渡す。
対して、目的があって来店したらしい奏くんはのしのしと大股で店内を歩く。目で追っていたら、そういえば明日の朝に食べるパンが無いなと思い付いた。棚の前で手近にあったメロンパンを手に取ると、奏くんがチラリとこちらを見て、口を開きかけて閉じる。それから何かを打ち消すように頭を振って飲み物のコーナーへ行ってしまった。変なの。そう思いながら私はレジに向かう。
コンビニを出て、並んで歩きながらぽつぽつと話をした。私の学校のこと、奏くんの大学やアルバイトのこと、友達のことなんかも。歩く道すがら煌々と明るい自動販売機の灯が見えて、何か言いかけていた奏くんが「あ、やべ。お茶買うの忘れてたわ」と言いながら足をそちらに向ける。それと平行に歩いて、自販機の横に並んだ。わぁ、自販機とほぼ同じ身長なんだ。などと観察する。
奏くんはボタンを押してから小さな声で「うわ」と呟いて、取り出したペットボトルをそのままくれた。
「間違えちゃった」
「え、なんで?」
ひんやりしたペットボトルを受け取りながらうっかり素で聞き返すと、屈んだ姿勢のまま、ちょっと唇を尖らせて上目遣いでこちらを見た。私はまたしても心の中で「うっ」と唸る。
「してんの、緊張。これでも」
立ち上がってこちらを向くと自販機の灯で表情が完全に逆光になっていた。それでもわかるくらいに、はぁ、と思い切り息を吐いた奏くんの影がこちらを向く。
「妹とか、思ってないから」
「は……え、っと?」
前に「お兄ちゃんみたい」って言ったの、気にしてたのか。謝ろうかと開きかけた口を閉じることになる。
「好きなんだよ、ミドリちゃんのこと」
今度こそ私は無言になってしまう。事態がさっぱり飲み込めない。
「え、と。あの……自分で言うのも何ですけど、奏くんみたいな素敵な人に、す、好きとか、そんなふうに思われるのが、よく分からなくて……と、」
「言う? それ」
友達としてって事ですか。そう聞こうとしたのを遮って、予想外に指折り数え始めるのでますます混乱する。
「まず顔でしょ」
「は!?」
「すぐ赤くなったり青くなったりして面白い」
「お、面白って……」
「あと手。ちっちゃくて可愛い」
「はぁ」
そりゃ、奏くんに比べたら誰でもちっちゃくなるのでは。
「でもやっぱり顔かな。考えてることが丸わかりって感じで可愛い」
「……うーん?」
ちっとも褒められてる感じが無いんですけど。揶揄われているのかな。
見上げた奏くんの耳はトマトみたいに赤くって、私の口はぽかりと開く。視線の行方を気にしてか、わざとらしく膨れっ面を作った奏くんが勢いをつけて背を向けた。
「ほら、行くよ」
「あ、はい」
夜道の奏くんはほとんど振り返らなかったけれど、歩くスピードがゆっくりなことと、曲がり角で確認するようにこちらを見ることで、不安な気持ちにはならなかった。ふたりだけの行列は密林のように湿度の高いアスファルトの上を粛々と進む。段々と事態を把握しながら、私の耳も、前を歩く奏くんと同じように、熱を持っていくのがわかった。
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