Fancy in the Balcony.

野村絽麻子

第1話

 途切れ途切れに聞こえてくる歌声に心を奪われるまでには、そう時間はかからなかった。細く開けた窓からゆるやかな風と一緒に流れ込む歌声は軽やかで、時に切なく、時に優しい。芯があるけれどとても柔らかい。寄り添うように響く声はとても美しくて私はぼんやりと聞き惚れる。

 顔も名前も知らないお隣さんが、進学と同時に上京したての心もとなさを抱えた私の支えになるのには、それだけで十分だった。

 進学先の美術系の学校はとにかく課題が多く出ることで有名で、部屋の中は画材や資料で雑然としてしまう。片付けなくちゃとは思うもののなかなか腰もあがらず、それに加えて慣れない生活の疲れか時間が空くととにかく横になってしまう。

 ウトウトと二度寝を貪っていると、今日もカラカラリとお隣さんの窓が開く。ベランダに置いてあるサンダルか何かを履く音に続いて、わずかな衣擦れ。軽く息を吸い込む音が聴こえるまでには、実はもぞもぞと身体を移動させている。……という事に気が付かれてはいけないので慎重に芋虫になりながら、そおっと、窓辺に耳を寄せる。


 美しい高音。抑えた声なのにきちんとビブラートがかかっている。小さく跳ねる水音から、たぶんベランダの鉢植えか何かに水遣りしながら歌っているのだと分かる。ハミングもピンと芯があるように強くてしなやか。聴いてみたいな、この人のしっかり歌ったところ。そんな風に思う。それに、どんな人なんだろう。声が高いから女の人だと思ってるんだけど、そう言えば歌ってる時の声しか聴いたことがないな。

 ……お隣のベランダを覗いてみる? いや、さすがにそれはダメでしょう。うん、自分がされたら嫌なことは人にしちゃいけないって、当たり前のことですよ。わかりますよね、自分。はい、そうですね自分。

 それより今は耳を澄まそう。……これくらいは、いい、よね? バルコニーの歌姫と隣の芋虫。ふふ、何だかお伽話に出てきそう。次の課題のモチーフにしてみようか。

 そうして私は今日もお隣さんの歌声にうっとりと耳を澄ませて、ほんの少しだけ、いや、わりとたくさん、パワーをチャージさせて貰うのだった。


 *


 お隣さんは歌だけではなくてお料理も上手だ。昼下がり、アパートの廊下には美味しそうな匂いが漂う。

 これまで何度か家庭的な匂いをさせている場面に遭遇したことがある。辛そうな炒め物の匂い、よだれが出ちゃうほど美味しそうな餃子の匂い、油の跳ねる音とフライの匂い、昼過ぎからコトコト煮込むカレーの匂い。

 今日は……チャーハン? チャーハンぽいな。手早く作る昼下がりのパラパラチャーハン。きっと美味しいに違いない。いいなぁ、私もちゃんと料理をしなくちゃ。

 持ち重りのする画材が入った袋を片手に、くんくんと鼻をひくつかせながら鍵を差し込んで捻って閉める。午後の講義に間に合うように行くにはこの時間がリミット。早く歩き出さなくてはならないのに、私の足はなかなかそこから動き出さない。なぜって、フライパンを振るう、ジャッ、ジャッという美味しそうな音に混じって、いつもの歌声が聴こえてきたからだ。

 弾むような歌声がリズミカルに揺れて、心地良いスタッカートはまるで羽が生えたように楽しそう。……と、聴き入っていたら。

「わぁっ!」

 悲鳴と、続いて何かをひっくり返すようなガラガラカッシャン! という派手な音。「ああー!」と悲しそうな声。それすらもとてもきれいで私はこっそりとため息をつく。

 歌姫さんには意外とお間抜けな所もあるのかも知れない。ちょっと可愛いかも、なんて。どうか怪我なんかしていませんように。胸の中でそう祈りながら、私の足はやっと歩き始めた。


 *


 休日の朝、お隣さんのインターフォンがピンポンと鳴って来客を告げる。数秒置いて、またピンポン。コツコツと控えめに戸を叩く音も聞こえてくる。ピンポン。ピンポン。コツコツコツ。

 心配と興味の混ぜ合わさった感情がぐるぐると湧いてきて、私は布団からもぞりと這い出す。ひんやり冷たいキッチンの床を踏み、音を立てないようそっと、ほんの少しだけドアを開いて覗き込むと、そこには、不機嫌そうにベルを押す美少女がいたのです。

 ふわふわの巻き毛はショートカット。白い肌。ぱっちりと大きな目は呆れたように顰められ、くちびるは可愛らしく尖って「もー!」と不満をこぼす。

 …………ガチャ。

 二十回目くらいのピンポンが鳴ったあと、お隣さんのドアが億劫そうに開いて、美少女の眉根がますます呆れたように寄せられる。

「は? マジで寝てたわけ?」

 想定より低い声に驚く。あ、あー、そうか。ボーイッシュな格好してるとは思ったけれど、これ、男の子か。ええと、そうなると歌姫の彼氏さんかしら。

 歌と料理が上手で、ベランダで植物をたくさん育てていて、朝が弱くて。なんだか可愛い人。そんなことを思ってしまってから少し慌てる。え、待って。私ってばストーカーになったりしてない、よね?

 スマホで「ストーカー 定義」と検索してみると「同一の者に対し「つきまとい等又は位置情報無承諾取得等」を繰り返して行うこと」と書かれていてホッと胸をなでおろす。多分違う。まだセーフ。

 玄関の方から話し声が聞こえて、お隣さんのドアが開いて閉じた。二人分の足音が遠ざかっていくのを聞き流しながら、心の中で「行ってらっしゃい、良い休日を」と呟いた。


 *


 それからしばらくの間、ベランダから歌声が聴こえれば耳を澄ませ、アパートの廊下に美味しい匂いが満ちていればよだれを拭く。そんな感じの穏やかな日々が続き、一人暮らしの生活にも慣れて来た、そんなある日。

 帰ってきて集合ポストを確認すると、見慣れない厚手の封筒が入っていた。何だろうか。よく見れば封筒にはCDやDVDなんかを取り扱っている大手通販サイトのロゴが入っている。私も実家にいる時に利用したことがある。

 そう言えば今日は一時期ハマって聞いていたアーティストの新譜の発売日だった気がする。あれは私と言うよりもお母さんがドハマりしてて。今頃実家に届いてるんだろうなぁとか、そんなことを思いながら封筒をひっくり返して見てみれば、どうやらお隣さん宛の荷物が間違って入っていた様子。


「……吉高よしたかかなでちゃん、か」

「奏くん、だけどね?」


 唐突に声が降ってきて驚いて顔を上げると、いつの間にか私のすぐ真横に、見上げるほどにひょろりと背の高い男の子が立っていた。彼は、ふ、と軽く笑った。


「こんばんは、吉高です」


 途端に自分の顔から血の気が引いて行く。


「ひゃ! いえ、あの、これは!! 盗ったとかではなくってその、私の部屋のポストにっ、間違って入っておりまして!」

「うん知ってる」

「はい! 知ってま……す? ……え?」


 彼はふにゃりと相好を崩すと、そのままクツクツと可笑しそうに肩を揺らす。そうしながら、実はさっきからアパートの入り口の所にいて、先客の用事が済むのを待っていたのだと教えてくれた。

 その話を聞いて段々と焦りが収まってきたはずの私は、そう言えば彼がすごく綺麗な顔をしている事に気が付いて、他の種類の焦りが出てきてしまう。笑うと八重歯が見えてとても人懐こい印象なんだけど、顔が、すごく整っている……というか声。これって、いつもベランダ越しに聴いていたお隣さんの声だ。


「え、男の方だったんですね?」


 今度は彼、つまりは吉高さんがきょとんとする。それで、私は挨拶をした。


「こんばんは、お隣に住んでいる穂村ほむらミドリです」



 驚くべきことに、吉高さん宛の封筒の中身はまさに私が思い出していたアーティストの新譜で、集合ポストから部屋の玄関まで歩く間に、私たちは同じ日に同じ会場で、同じライブを観ていたことが発覚する。


「あの時すごい風強くなかったですか?」

「あー、そうそう。メンバーの衣装が風に煽られてさぁ。あとグッズがすぐに売り切れて」

「そう。お母さん泣いてましたよ」

「あはは!」


 これまでベランダ越しに聴いていた美しい声が目の前で、確かな質量を伴って広がっている。こんなことってあるんだなぁ。それじゃあと戸口で手を振って、嬉しさを噛みしめながらドアを閉める。

 春の晩だった。躍り出しそうなほど心が温かく、まるで世界が透き通るように美しく見えた。


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