完成
レコーディングを終え、DATテープに保存した音源をマスタリングするためにエンジニアを探す。これはまるで音楽業界の冒険だった。ミュージシャンズ・アトラスをめくりながら、どのスタジオが我々の音を最高に仕上げてくれるかを考える。選択肢は豊富だが、それぞれにリスクも伴う。マスタリングは単なるプロセスではなく、我々の音楽の魂を形作る手段だ。
バージニア州の駆け出しのマスタリング・エンジニアに連絡を取り、手頃な値段での提案を受けた時の安堵感は、ひとしおだった。しかし、この過程で直面した新たな問題は、CDをプレスする際のミニマムオーダー数。500枚、あるいは1000枚という数は、我々の小さなバンドにとっては圧倒的に多すぎる数字だった。どのくらいのリスナーが我々の音楽に耳を傾けてくれるのか?この問いに対する答えを見つけるのは、まさに賭けのようなものだった。
そして、全てのプロセスを進める中で、まだ解決していない最大の問題があった。バンド名。これまでの旅路で、我々は音楽という共通の目的のもとに集まり、多くの障害を乗り越えてきた。しかし、バンドとしてのアイデンティティ、つまり名前が未だに決まっていないのだ。この名前は単なるラベルではなく、我々の音楽の精神性を象徴するものでなければならない。このバンド名を決める作業は、私たちがこれまでに経験した中で最も創造的で、かつ苦悩に満ちたプロセスだ。
この一連の活動は、まさにジェットコースターのような感情の起伏を伴っていた。各ステップはスリリングで、時には頂点に達し、時には深い谷底に突き落とされるような経験だった。しかし、それら全てを通じて、我々の音楽とともに成長し、市場に立ち向かう準備を整えている。
バンド名の候補を各メンバーからアイデアを募った。Echoes of November、Crimson Thread、Twilight Reverie、Silent Howl、Broken Mirrorsの5つの名前が最終的な候補に残った。
バンド名の決定には、各メンバーからの好みが寄せられ、激しい議論の末、Crimson Threadに絞り込まれた。この名前が、私たちの音楽の色彩と感情を最もよく表現していると感じたからだ。しかし、バンド名が決まった喜びも束の間、次なる大きな壁に直面した。アルバムジャケットのデザインである。
技術的な限界に直面し、私たちは手段を尽くす必要に迫られた。大学のコンピュータセンターには必要なソフトウェアが備わっておらず、私たちの手元には必要なツールもなかった。唯一使えたスキャナーを活用し、寮内で美術専攻の学生やドローイングを趣味にしている人を探し回り、絵を譲ってもらう交渉を試みた。幸運にも快諾してくれる人が見つかり、その人の作品をジャケットに採用することができたが、全てがデジタル化されると、新たな問題が浮かび上がった。
メンバー全員が一瞬沈黙する中、私たちはバンドのロゴがまだ存在しないことに気づいた。この瞬間の絶望感は計り知れない。企業ならばロゴの制作を専門家に依頼するが、そんな余裕は私たちにはなかった。唯一の選択肢は、自分たちで何とかすることだった。
この状況で、私たちは絵心がないにもかかわらず、Crimson Threadという文字を自らの手でアートにしてみるという大胆な試みに挑むことにした。不安と期待が入り混じる中、それぞれが試行錯誤を繰り返す。私自身、デザインの経験はほとんどなかったが、必死のパッチでアイデアを形にしようとした。このプロセスは、バンドとしての連帯感を深める貴重な経験となり、私たちのクリエイティブな挑戦が、ただの音楽活動を超えた何かになっていく様子を感じさせた。
何度も試行錯誤を重ねた末、メンバー全員がロゴが完成させ見せあったが、一同に疲労のため息が漏れた。初めての試みで、皆の手書きのロゴは子供の落書きのようであり、どれもこれもが拙い出来ばかりだった。一時は、どうしようもない状況に陥るかと思われたが、偶然発見したマックのゴシック調のフォントが救世主となった。そのフォントをスキャンしたジャケット画像に適用した瞬間、まるでピースがぴったりとはまるように、全てが一気に形になった。それまでの試行錯誤の苦労が嘘のように、メンバー全員がこのデザインでいこうと即座に同意した。
その瞬間、私は深い安ど感に包まれた。長い時間と多くの労力をかけた結果、ようやく見えた光。ジャケットデザインのアップロードとCDの発注が終わると、実感が湧いてきた。私たちの音楽が、このCDを通じて多くの人々の手に渡るのだと思うと、心の底からの満足感が湧き上がってきた。全ての苦労が報われた瞬間だった。
CDが完成し、私たちのバンドは売り上げを伸ばすためにライブ活動を開始する決意を固めた。しかし、その道のりは予想以上に険しいものだった。最初のステップとして地元のクラブへのブッキングを試みたが、ほとんどの場所から断られることになった。
The Neon Groove、Echo Base、Vortex Live、そしてSidetrack Station—これらのクラブは一見の私たちのバンドに対して、質を担保できないとの理由でブッキングを拒否した。各拒否には、独自の理由があったが、多くは経験不足と知名度の低さを指摘された。各回の断りは、私たちの士気に打撃を与え、一度は活動の意義さえ問い直すほどの疲労と挫折感を感じさせた。精神的にも肉体的にも消耗しきっていた私たちにとって、この連続する拒絶は重い。
しかし、最後の希望であったThe Alcoveから、予想外の承諾を得ることができた。The Alcoveは地元でも特に危険な地域に位置し、空き家が目立つ街角にある小さなバーだった。店内は非常に狭く、最大で20名が入ると満員になるほどのスペースしかない。さらに、機材を搬入するバックヤードは車幅ギリギリで、決して他人には勧められない状態だった。
しかし、私たちはこのチャンスを活かすことに決めた。どんなに環境が厳しくとも、音楽を演奏し続ける場所があるだけで光が見えた。The Alcoveでのライブは、私たちにとって大きなテストとなるだろうが、それでも前進し続ける意志を新たに固めた瞬間だった。この一歩が、未来への道を切り開く第一歩になると信じていた。
高校時代からバンド活動をしている間に、ライブのブッキング後の客寄せという課題が常にあった。ただ、日本とアメリカでのシステムがこんなにも違うとは思わなかった。
「日本ではチケット売るのが大変だった。ノルマがあってさ」
と私はメンバーに語り始めた。
「売れないと自分たちで買い取りなんだ。」
「アメリカはそうじゃないんだ?」
と、一緒に日本から来たメンバーが尋ねる。
「うん、こっちはノルマがないんだ。チケット売れたら売り上げの7割がバンドに戻ってくるし。クラブはほとんどがアルコールで稼いでるからね。」
この制度の違いには戸惑いつつも、アメリカならではの方法に順応しなければならないと感じていた。ビールが安価で仕入れられ、高く売れる現実は、アメリカの消費スタイルを如実に示しており、それによってクラブは利益を上げているわけだ。
しかし、私の心は重たい。アメリカでの初ライブが迫る中で、地元の友人や知人がほとんどいないことがプレッシャーになっていた。「日本みたいに、知り合いを沢山呼べるわけじゃないからな…」と独り言のようにつぶやく。その寂しさは、演奏前の緊張感を一層高める。
「今回のライブで大事なのは、演奏力を最大限に発揮することだけだからね。」と、メンバーに言い聞かせるように話した。
「クラブの担当に、俺たちの質をしっかり見てもらうんだ。」
その言葉は自分自身にも向けられたものだった。未知の土地でのライブ、限られた観客の中で最高のパフォーマンスをすることは、簡単なことではない。バンドとして、また個人としての試練の場でもある。
そう、私たちが選ばれたクラブ、その名も"The Alcove"。空き家が目立つ危険な地域にある超狭いバーでのライブだ。最大20人が入れば満員となる小さなスペース、機材を運ぶのも一苦労な場所で、この環境でどれだけ心を掴むことができるか。そこには、本当の意味でのバンドの力が試される。
緊張感に包まれながらも、どこかで期待感を抱え、私たちはステージへと向かった。これが、私たちの音楽を世に問う、第一歩だった。
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