クラス開始
週末を挟んで次の週の月曜から授業がスタートした。最初の日は、ESLのクラス分けテストがあった。留学支援団体を通じて来た人以外にも、個人で来ている日本人、韓国人、タイ人、中国人、ベトナム人、中東やアフリカの留学生がいた。
一浪して英語が得意だと自信を持っていたけど、結果は下のクラスになってしまった。「まじか」と少しショックを受けた。受験英語が得意と思っている他の人も低いクラスに割り振られていて、受験生のマインドセットとしては「できると思っている」という部分が大きく違うんだなと感じた。自信がない生徒の方が上のクラスに入っていたりしてた。
そして、ESLの初めてのクラスが始まった。主に「読解」「ライティング」「文法」「発音」のクラスに分かれていた。特に「発音」クラスがあるのには驚いたが、クラスにいる多くが正しい英語の発音ができなくてアクセントがあるから、これは必要なクラスだなと思った。
「読解」と「文法」は日本人が得意な分野。「ライティング」はただの英作文だと思ってたけど、実際はエッセイの書き方をしっかり教わるクラスで、直される箇所が多かった。すべてのクラスが英会話形式で、スピーキングのクラスがあったかは覚えてない。「文法」のクラスだけが日本の授業みたいに一方通行だったけど、他は生徒が積極的に参加する形式で進んでいて、少人数制で、めちゃくちゃ参加を求められるクラスだった。
読解のクラスでのキリアーニ氏の教え方は、本当に印象的だった。スタンフォード卒の彼は、英語を教えるのが本当に上手く、生徒が自分の言葉で答えるよう促すスタイルで指導していた。彼の話す英語はかなり早いので、最初は聞き取るのが大変だった。特に英語を話せない状態で留学してきた学生にとっては、彼の授業は一種の挑戦だった。
授業の前提として、事前に読むべき教科書の範囲が指定されていて、その範囲を予習した上で授業が進む。授業中は教科書のストーリーを追いながら、キリアーニ氏が重要なポイントでストップして「ここで問題です。主人公は何をするために~へ行ったのでしょうか」と質問する。生徒が手を上げて答える方式で、参加が不足している生徒は指名されて答えるよう促される。
彼の質問の仕方は、ただ答えを求めるだけでなく、生徒が自分で考え、答えを導き出せるように設計されている。例えば、場所を「湖」とした場合、彼は「湖ってどんなところ?」「何がある?」「何が見える?」「どんなレジャーができると思う?」といった一連の質問を通じて、生徒が自分の知識と教科書の情報を組み合わせて答えを導き出せるように促す。そして「主人公が魚料理が得意と書いてあるけれど、湖に何しに来ると思う?」と尋ねる。
生徒が「魚釣り」と答えた場合、彼はさらに深く掘り下げて、「『魚料理が得意』という記述以外に、魚釣りが答えとなる根拠は何だと思う?」と質問する。これにより、生徒はただ答えを覚えるのではなく、理由と根拠を考える訓練をすることになる。その早口な英語に最初はついていけないかもしれないが、毎日その環境にいると、徐々に彼の言うことの要点を掴む能力が養われる。
教え方が斬新で感動したけど、もっと目から鱗だったのは、英語のリスニングが理解できるようになる「感覚」そのものだった。英語が聞き取れない人に、聞き取れ始める瞬間の感覚を説明するなら、「早い回転すし」や「横スクロールで流れる字幕」みたいなものだ。速読ができる人なら、速読時に文章が頭に映像的に入り、要点が瞬時に構成される感覚があると思うが、それに一番近い。
つまり、毎日同じ人の同じ発音やアクセント、イントネーションで話される言葉には、どれだけ難しくても耳が慣れてくる。他のアメリカ人の早い英語は理解できないけど、キリアーニ氏の早い英語なら聞き取れるようになるという感覚が生まれる。これは、ESL時代にアメリカ人の英語が全く分からないのに、留学生が話すブロークンイングリッシュだと意図が伝わる感覚に似てる。脳は自分が認知してる外部からの刺激をより理解してると思う。
速読とも似てて、一瞬で理解した要点は、その英語が流れてる間だけ理解できて、記憶としては忘れがちだ。これが翻訳と通訳の違いだ。通訳は、話される英語が長すぎると、最初の方に話されたことを忘れることがある。最終的に英語を話せるようになるのは、この繰り返しの積み重ねで、点と点がつながった後だ。
「ライティング」のクラスは、社会に出てから特に役立つクラスと言える。企業で働き始めると、「プレゼン」、「報告書」、「先方への定義書や仕様説明」、「Eメール」など、多岐にわたる文書でライティングスキルが必要となる。このクラスで学んだのは、単なる「英作文」ではなく、「英語圏の文化で暮らしている人に対する物の伝え方」についてだった。
日本では「起承転結」という構成が一般的だが、英語圏では「結論を先に述べる」スタイルが求められる。結論を先に述べる理由は、文書が読む価値があるかどうかを読み手が判断するためである。結論を最初に提示し、読み手の興味を引いた後に、その結論を支える根拠や詳細、事例を順に説明していく。この流れが守られていないと、論文の評価は大きく下がる。
文章の構成で重要なのは、「まず最初に」、「次に」、「最後に」といった段階を示す表現や、「したがって」、「しかしながら」など、論理的な接続を示す表現の使い方である。「しかしながら」を使う場合は、文頭では「However」が適切で、「But」は使わない方がいいと学ぶ。
また、引用をする際は必ず出典を明記しなければならない。引用文献を記載しないと「プレイジャリズム(盗作)」と見なされ、場合によっては退学になるリスクもある。そのため、ライティングの講師は、引用を忘れていないか厳しくチェックする。
基本的なショートエッセイから始めて、次第に中程度の長さの論文の提出が求められるようになる。この過程で図書館での文献探しやマイクロフィルムの使用方法も学び、しっかりとした論文を完成させていく。日本での論文評価も厳しいが、ここでの論文の判定も非常に厳格だった。
こんな授業を毎日午前中に集中して行うから、午後一のクラスが終わるとフリーになるけど、とにかく暇になる。志の高い人なら、学内でアルバイトもするだろう。当時の私は、「英語が聞き取れない」、「思ったことをそのまま英語で話せない」という雑音が頭を駆け巡り、暇な時間がそれに拍車をかけた。
正直、上手に話せない外国人はたくさんいる。そういう人たちは、本来あるべき話し方ができなくても堂々と話している。しかし、日本人は習った通りの文法や発音でなければ恥ずかしいと感じ、話したくなくなる文化を持っている。これは非常に大きなリスクで、英語が上達しないだけでなく、何も新しいことにチャレンジできなかった。
そこで、考え方を変え、「自分の話す英語はアメリカ1年目の1歳児と同じだ」と考えるようにした。1歳児は既成概念に囚われずに、見たものをそのまま映像のように認識し、話せない状況でも何とか母親に伝えたいことを伝える。母親は子供が何を伝えようとしているのかを理解しようと、その行動パターンを読み解く。1歳児はどういう行動や音で母親が自分の望むように動くかを日々学ぶ。そのやり方がいいのではないかと思えてきた。社会通念的な既成概念が邪魔をすることはあるものの、アメリカでの「普通」と「マネする」ことが一番の近道だと感じた。
発音は、ネイティブの発音をモノマネして、近い音を出せるように訓練した。訓練の場は、キャンパス内を一人で移動しているときに、周りに誰もいない時にひたすら独り言で発音を声に出しながら歩くことだった。
もう一つ重要なことは、アメリカには「常識が人種の分だけ存在する」と理解することだ。「常識」は同じ背景で育った人々の共通の考え方だが、日本では千葉に住む小学1年生が東京の私立小学校に一人で電車に乗って通学するのは普通だ。しかし、アメリカで同じことをしたら、親が警察に通報され、ソーシャルワーカーが育児放棄として子供を引き取りに来る問題になる。それは、生活環境が異なるからだ。
外国に住むなら、現地のルールに従うのが最も早い道だ。そのように考え方を変えることで、心の負担が軽くなり、新しいチャレンジに積極的に取り組むようになったものの、その代償がどれくらいのものなのかこの時点では認識できていなかった。
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