2003年11月14日 恵美9歳
まただ。気のせいじゃなかったんだ。
恵美はショックと恥ずかしさから顔が真っ赤になるのを感じていた。
恵美が通う小学校は歴史ある学校だ。
この辺りの地区の中では一番古かった。
木造校舎、薄いガラスで出来た窓。
隙間風が吹き放題で夏は暑く冬は寒かった。
校庭には立派なイチョウの木が立っている。
一体いつからこの校舎を見守ってるのだろうか。
そんな古い学校だが、音楽室はなかなか立派だ。
防音対策なのか出入口の扉は分厚く重く、床はカーペットが敷かれて土足厳禁。
廊下から三段ある階段を上り入室すると、教壇を見下ろすようにテーブルと椅子が並べられている。黒板は可動式で上下に動く。
恵美は音楽室が好きだった。
確か外国のドラマでこういう教室見たことある。
音楽室だけは別世界みたいでカッコいい。
音楽も好きだし、音楽室も好き。
ただ、今の恵美は音楽室に行くのが憂鬱だった。
その原因の一因は音楽室の構造の問題でもあった。
音楽室の出入口は一箇所しかなく下駄箱はない。上靴を脱いで出入口に並べておく。
授業前は各々早く行く人もいればチャイムギリギリに入る人もいるために混まない。
しかし授業後は一気に児童が出ていくので押し合いのようになるのだ。
そのこと自体は入学した時からそうだったから、何とも思っていなかった。強いて言えば上靴がぐちゃっと踏まれて嫌だなくらいにしか思っていなかった。
問題の本質は、別にある。
先月の始め辺りだっただろうか。
音楽の授業後、いつも通り上靴を履こうと同級生がごった返す押し合いの中にいた時のこと。
お尻に違和感を感じたのだ。
お尻の部分に何かが当たっている。
最初は誰かのピアニカが当たっているのかなと思っていた。
教室から自分のピアニカや教科書を持って音楽室に行くので、何か荷物が当たっているのだろうと。
しかしそれは何回も続いた。
そしてそれはピアニカや教科書ではないことを、嫌でも分かるようになっていったのだ。
最初はお尻の膨らみの部分だけに当たっていた何かは、回数を重ねると、太ももの間に沿うように、這わせるように、動きが加わってきたのだった。
これは物ではない。意思を持った、誰かの手だ。
でも、誰が?
同級生しかいないこの状況で誰が私のお尻なんかを触るんだろう。
振り向くのが怖かった。
違和感に気付いた、もっと早い段階で、
「ちょっと、なんか当たってるんだけどー」って
振り返って笑って言えば良かった。
だって、もう一ヶ月以上、毎週されている。
笑うには遅すぎると思うし、言った相手に「自意識過剰」って返されたらどうすれば良い?
周りに引かれちゃうかもしれない。
いつもおとなしくしてる私が、痴漢みたいなことされてるなんて変じゃない?
それにきっと相手は同級生の誰かで、変にギクシャクしたら嫌だし…
友達にも言えない。
同級生にお尻触られてるかもなんて、自意識過剰って思われるかもしれないし、友達の仲良い子だったら尚更嫌だな…
どうしよう。怖い。気持ち悪い。
そんなことを考えながらまた数週間が経った。
その間もその行為は続いていた。
一応防御もした。
スカートをやめてズボンにしたり、自分のピアニカや教科書をお尻に当てるように持ってみたり、早めに出たり逆に遅く出てみたり。
でもズボンにしたらより感覚が伝わってきたし、荷物を後ろに持っててもその下から触られたし、どのタイミングで音楽室を出てもされた。
毎週こんなことが続いて恵美は限界だった。
割と気に入ってた音楽室での授業が苦痛になった。
授業中もどうしたら良いのかと考えてばかりだった。
そして最初に違和感を感じてから二ヶ月過ぎた今日、もしまた触られたら後ろを振り返ることにした。
怖い。とても怖い。
誰なんだろう。
その誰かに怒られたりしないかな。
友達関係がぐちゃぐちゃにならないかな。
怖い。気持ち悪い。怖い。やめようかな。
でもいつまで続くの。怖い。
授業終わりのチャイムがなった。
わざと時間をかけて教室に戻る準備をした。
友達に声をかけられたけど「先に行っててー」と笑顔で伝えた。
ほとんどの児童が出ていったので恵美も立ち上がり歩き出した。
出入口までたどり着くと、また触られた。
心臓がドクドクなってる。
顔も耳も赤くなってる気がする。
汗が出てきた気がする。
それでも、それでも、もう、嫌だから。
恵美はゆっくり振り返った。
そこには同級生の男子がひとりだけ、
ぴったりと恵美の後ろにいた。
他には誰もいなかった。
男子は驚いた顔をして固まった。
まさか振り返るとは思ってなかったのだろう。
目が合って、恵美は泣きそうになった。
彼は普段いつも明るくて、いじられキャラで、おちゃらけてクラスメイトから人気がある。
…なぜ?なんで?
何秒そうしていたのかは分からないが、泣きそうになった恵美は何も言わず彼に背を向けて上靴を履いた。
そしてそのままゆっくり歩き出し、だんだん早足になり、トイレに駆け込んだ。
個室に入って泣いた。
周りに不審に思われないように声を殺して泣いた。
なんで?なんで君が?
このあとどうなるの?
自意識過剰みたいに言いふらされる?
どうしよう?どうしたら良かった?
気持ち悪い。
気持ち悪い、気持ち悪い。
しばらく泣いて、でも泣いたら目が赤く腫れることは分かっていたので気持ちを切り離した。
恵美はたまにこうして気持ちを切り離すことがあった。
今の感情全てに蓋をして、こんなことなんでもないと言い聞かせる。
とりあえずまだ授業は続くから教室に戻らないと。
冷たくなった手を顔に当てて冷やす。
感情を無くせば大丈夫。
その日は内心怯えながらも、彼が何も行動を起こさないことにホッとし、でも気持ちが悪かった。
家に帰宅し母親に色々言われたが適当に返事をして部屋に籠もった。
これからどうなるの。
学校に行きたくないな。
具合が悪い。
このままずっとベッドの上で横になっていたい。
明日なんて来なきゃ良いのに。
翌日休みたいと口に出したが、母親には相手にされなかった。
学校に着くまでに何か起こって休校になれば良いのにと考えていた。行きたくない。気持ち悪い。
ずっと不機嫌に歩いていると、いつの間にか学校に着いていた。
重い足を引きずって上靴に履き替えた。
教室近くまで来たところで彼の笑い声が聞こえてきた。
いつも通り、クラスメイトにからかわれているのか一緒におちゃらけているのか楽しそうな声が響く。
顔が赤くなるのを感じた。
気持ち悪い、気持ち悪い。
恵美はまた、気持ちを切り離すことにした。
何も考えるな。何も考えるな。
重い一歩を踏み出して教室に入った。
それから数日経っても何も起こらなかった。
彼が何か言うこともないし、周りから何か言われることもなかった。
いつも通りの日々だった。
ひとつ変わったのは、なくなったことだった。
音楽室での授業後にされていたその行為ががなくなった。二ヶ月前から始まったそれがピタッとなくなったのだ。
それでも恵美は気持ち悪いようなモヤモヤした気持ちを引きずっていた。悲しみ、苦しみ、時々怒りも沸き、情緒は安定しなかった。
悩んだ恵美は、誰かに話せば楽になるかもしれないと考えた。
道徳の教科書に書いてあった。
家族や友達に悩みを話すと気持ちが楽になると。
すぐに親は除外した。なんとなく嫌だった。
じゃあ友達に話そうと決めた。
誰に話すかしばらく考えた。
仲が良くて、話したことを周りにバラさなくて、彼を恋愛的に好きじゃない人。
考えに考えて選び抜いた友達2人に話すことにした。
呼び出すと大げさかもしれないからとタイミングを見計らっていた。
そしてたまたま廊下で3人だけになって話をしている時に切り出した。
重くならないように、大げさにならないように、明るい声を出した。
「あのさ、私さ、光弘くんにお尻触られてたんだよね。音楽室の授業のあとにさ。」
2人は困った顔をした。
少し間をおいて
「え?光弘くんってミッヒーのこと?」と聞き返された。
友達が聞き返した時間は傍から見たら本当に少しの間だった。
しかし恵美にはとても重く長い時間に感じた。
2人は困ってる。
そりゃそうか。
いつも陽気な光弘くんと、お尻を触る行為が結びつかないよね。
というかそもそも痴漢みたいなことを急に言われても困るよね。
同級生同士なら尚更だよね。
空気が悪くなった。
しまった、失敗した。
それからすぐに誤魔化した。
何をどう言ったのかよく覚えてない。
でも2人がまた笑って違う話をし始めたので安堵して会話を続けた。
誰かに話せば楽になるなんて、嘘だ。
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【2003年11月14日 午後8時40分】
つかれた。
全部いや。
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