100メートル一本勝負

 児玉ひかりは速く走る。あくまで、小学校六年生の女子の中では

「準備運動は終わった?」

 手首を回しながら、ひかりが話しかけてきた。ひかりのチームメイトとおぼしき同世代の女の子たちがゴールテープの準備をしている。安倍川はコース上を歩いて、異物が落ちていないかを確認しているようだ。

「うん。ばっちり。イメージ通りにいけそう」

 文月もふもふさんはスタート位置に移動している。準備体操を終えて、軽く走って身体を温めた。そして、屈んで、長袖ティーシャツの袖をひじまでまくり上げてから。靴下も脱いで、丸めて、それぞれを左右に押し込んだ。

「はだしで走るつもり?」

「はだしで走ってはいけない、というルールはないねえ」

「ま、まあ、もし公式ルールにあったのだとしても、鏡さんが走りやすいのなら、今回ははだしでいいわ」

すよ」

 ひかりの眉が一瞬、ぴくりと動いた。余裕の笑みがこわばる。

「なんですって?」

「あんたから話しかけられるまでは『道中は競り合って、ゴール前であんたを勝たせる』つもりでいた」

「……は?」

 空気が冷たくなってきた。まだ残暑の厳しい九月である。

「ムカついたから『最初から最後まで全力疾走』させてもらう」

「全力疾走しないと、鏡さんは勝てないわよ」

「そうかな?」

 もふもふさんは文月の顔で不敵に笑ってみせた。普段は出番の少ない表情筋を動かしている。へらへらと笑うことはあっても、自信から来る笑みは出現率が低い。

「鏡さんってそういう人だったのね。意外」

「文月らしくない、か。そうかも?」

「頭に付けている耳は、走っている途中で落とさないようにね?」

 ひかりからはアクセサリーだと思われているようだ。ちゃんと生えている。カチューシャやヘアバンドの類いではない。

「かわいいでしょう?」

 ひょこひょこと動かしてみせる。眉間にしわを寄せられてしまった。

「似合ってはいるわ。そのスカートもね」

「ズボンだと太ももとふくらはぎが締め付けられるんでね。とはいえ、あんたらがはいているような、ブルマっぽいのをは持っていない。だから、消去法で、今日はスカートにするしかなかった。今日のこの一戦のためだけにスポーツウェアを買うのはアホらしい……桐生くんの座っている位置からは見えるかなあ? パンツ」

 スタンドには文月の母親と環菜、その隣に貴虎と貴虎の祖父。後列には文月のクラスメイトが並んでいる。もふもふさんが見覚えのある顔としては、今は辞めてしまった環菜のダンスクラブを見学した時に会話している佐久間響子や、スポーツセンター前で遭遇したミニバスケットボールクラブのキャプテンの藤森誠など。

「ふたりとも、そろそろいいかい?」

 安倍川が確認作業を終えて、スタート位置へと戻ってきた。夢の島競技場という施設を借りている関係上、指導者の立場ではこのおたわむれのレースをさっさと完遂させたいのだろう。他のチームメイトの練習時間が削られてしまう。急かすようなセリフになってしまうのは仕方ないことだ。

「はい、コーチ」

 ひかりが文月に背を向けて、第一レーンのスタート位置につく。文月は第二レーンである。

 運動会ではスターター役の体育委員にたしなめられてしまったが、今回はクラウチングスタートになる。白線に親指と人差し指をついた。

「位置について」

 腰を上げて前傾姿勢になる。このままの状態で走れば、ひかりは圧勝するだろう。スタートダッシュの時点で、日頃のトレーニングの差が出てしまう。直線コースでの100メートル一本勝負において、この差を埋めることは『文月』には絶対にできない。

 前提条件を変えてしまえばいい。

「用意」

 文月が大好きなヒーローの言葉をつぶやいて、もふもふさんは文月の肉体の一部を。両腕を前足にし、両足を後ろ足にする。一度、文月と代わっているときに試し、今回も成功した。

 この『変身』によって『鏡文月対児玉ひかり・100メートル走一本勝負』は小学校六年生の女子同士の100メートル走ではなく、二足歩行の人間と四足歩行のオオカミとの100メートル走になる。

 ひかりがどれだけ速く走れようとも、獲物を捕らえるために進化した肉食獣の疾走にはかなわない。

「スタート!」

 安倍川の合図で、同時にスタート位置から駆けだした。スタンドはどよめいている。ゴール地点もざわついた。なんせ文月が四駆である。理想的なスタートを切って加速し続けているはずのひかりを置き去りにして、影も踏ませない。

「はああああああああああああああああああああ!?」

 文月はあっという間にゴールラインを通過して、前転しながら両腕と両足を元の形に戻す。スタート地点ではだしになったのは、オオカミの爪で内側からスニーカーを壊したくなかったからだ。帰りに履く靴がなくなってしまう。

「何よ今の!」

 遅れてゴールしたひかりが、文月に怒声で詰め寄る。四つん這いになって走る少女は、おそらくスカウトされないだろう。念のため、文月は安倍川のほうをチラリと見る。見てはいけないものを見てしまったような、形容しがたい表情を浮かべていた。

「公式ルールでは、二足で走らないといけない?」

「地面に手をついて走るほうが速ければ、みんなそうしているわよ!」

「だよねえ」

「ふざけないでよ!」

「スタート前に『鏡さんが走りやすいのなら』何やってもいいって言ったじゃない」

「まさか四つ足になるとは思わないわよ!」

「まあ、でも、負けは負けですから、素直に認めて練習に励んでくださいよ」

「きいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」

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