変“身”ならぬ変“心”

 こうして迎えた『かがみ文月ふづき児玉こだまひかり・100メートル走一本勝負』の当日。文月は、母親と妹の環菜かんなと三人で夢の島競技場へと都営バスで向かい、到着した。母親と環菜は文月の応援のためについてきている。

「環菜、今日の水泳は?」

「おねえの一大事いちだいじだもの。お休みしたわ」

 文月は朝食時と同じ質問をしていた。環菜は初めて聞かれたかのように答える。

「ふーん?」

 文月の頭の上にはオオカミの耳が生えていた。もふもふさんとは、家を出る直前に交代している。環菜にはオオカミの耳が見えているので、会話している相手が“おねえの姿をしたもふもふさん”だと理解した上で、答えた。

「初めて来たわね」

 夢の島競技場。陸上競技に使われるが、プールはない。文月の母親や環菜は水泳場には縁があり、近くの辰巳国際水泳場はほぼ毎日通っているが、夢の島競技場に来るのは初めてである。無論、文月もそうだ。

「鏡さんですよね?」

 いかにも指導者らしき、スポーツブランドのウェアを着用した若い男性が女性三人に気がついた。到着したがどうしたものかと三人できょろきょろとしていたので、声をかけてくれるのはありがたい。

「鏡文月です、よろしくお願いします!」

「ああ、よかった。児玉さんのコーチの安倍川あべかわです。本日はよろしくお願いします」

「はっ、はい!」

 文月もふもふさんは、文月らしく、おどおどした様子で応じた。母親と環菜もおじぎをする。

「着替えは、あちらの女子更衣室を使ってくださいね」

 上は長袖ティーシャツに一枚ジャケットを羽織り、下は父方の祖父母から送られてきたフレアスカートにスニーカー。といった具合で、文月は普段着である。安倍川と名乗った指導者の男は、文月がこれから動きやすい服装に着替えると思ったのか、女子更衣室の位置を指さした。

「着替えませんけど」

「……ほ、ほう」

 驚かれている。指さした女子更衣室から、いまがた着替えてきたひかりが出てきた。セパレート型のユニフォームを着ている。

「ウォームアップは、その辺を走っていいんすか?」

「どうぞ?」

「ママと環菜は、あのスタンドに?」

「でもいいですし、ゴール地点にスペースを用意してありますので、そちらでも」

「おねえ、おねえ」

 環菜が文月の腕を引っ張り、母親に背を向ける。姉妹の、ではなく、もふもふさんと環菜による作戦会議の始まりだ。

「なんすか」

「素が出ているわよ」

「おっと。……なあに、環菜?」

「せめて体操着かジャージで来たほうがよかったんじゃない?」

「今更気付いてももう遅い」

「明らかに『この子やば』って顔をされていたわ」

「オオカミ耳のせいかなあ?」

 ひょこひょこと左右の耳を動かしてみせる。安倍川からは見えていないだろう。

「児玉さんはだし、おねえを勝たせられる?」

「大丈夫大丈夫」

「ほんと……?」

「ママと仲良く待っていて」

 半信半疑の表情で環菜が離れる。作戦会議終了だ。

 もふもふさんは挑戦状を持って帰ってきた日から変わらず、勝つ気はない。天助小学校の六年生たちの一番アツい話題が『かがみ文月ふづき児玉こだまひかり・100メートル走一本勝負』である。挑戦状を受け取ってしまった日から昨日まで、文月はこの話題の渦中の人として過ごしていた。

 勝てる見込みがないので、まったく練習していない。何もしていないので、文月のほうが焦っていた。すべてをもふもふさんに託しているが、学校でなんやかんやとウワサされていると何かをしなくてはならない気がしてきてしまう。

『下手に運動をしてひざや腰を痛めるほうが問題だから、文月は外野がいやの意見を聞き流して、どっしり構えておけばいい』

「そうかな……」

『それとも、肉離れになりたい?』

「なりたくない」

 こんなやりとりをしながら昨日までを過ごしてきた。とはいえ、もふもふさんは一発逆転の作戦を考えてきているわけではない。当初の予定通り、ギリギリで負ける。

「見に来たぜ!」

 準備運動として身体を伸ばしていると、観客が増えた。桐生貴虎である。

「ふむ。そうか」

 貴虎の祖父、悟朗もいた。悟朗は例外としてもふもふさんの姿が見える。文月の頭の上に生やされたオオカミの耳も見えている。

「桐生くん、応援しに来てくれたの?」

「おう!」

「うれしいなあ」

「応援というか、ここのところ、鏡が悩んでいるのを見ていたから、心配して来たぜ」

 もふもふさんは学校にはついていけないので、学校での文月の様子を知らない。文月からもふもふさんへ、その日学校で起きた出来事は話されているが、あくまで本人の主観である。もし文月の困りごとを話したとしても、介入して解決できることばかりではない。今回のように入れ代わって解決できることならば、どうにか助けられる。

「おぬし、何か企んではおらんか?」

 悟朗はもふもふさんを信用していない。表情が険しくなっていた。

「じいちゃん! そりゃないぜ! ……ないよね?」

 貴虎が緩衝材のように働いてくれている。今回に関しては、もふもふさんは何も企んでいない。

「桐生くんは、わたしに勝ってほしい?」

「おれ?」

「うん」

「そりゃ、まあ……勝ってほしい気持ちはやまやま……でも、児玉には勝てないと思うぜ?」

 視線を感じる。文月と貴虎が会話している姿を、安倍川やひかりが遠目から見ているようだ。貴虎のことを、ひかりはなんと話しているのだろう。

「運動会では勝てたのに?」

「おれ、夏休み中にあった大会で児玉が100メートルの大会新記録を出した、って聞いている」

「調子はいいんだ」

「運動会運動会ってみんな言うけど、もう四ヶ月前の話だぜ。児玉は速くなっているけど、鏡はおれと出かけていたじゃんか」

「まあ、ずいぶんと距離が縮まったんじゃないすかねえ? 誕生日会も開いていただいたようだしい? で、貴虎はいつ文月に告るの?」

「えっ?」

「えっ?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る