TOO YOUNG TO FALL IN LOVE

ハンカチに包まれた挑戦状

 こうして迎えた夏休み明けの初日。九月三日の月曜日。夏休みの宿題はすべて終わっていて、家を出る直前に忘れ物がないかどうかを確認した。宿題が終わっているのに家に置きっぱなしでランドセルに入れていないのでは宿題をやっていないのと同じである。もふもふさんにできることは、もうない。

「ただいまあっ!」

 文月は息を切らして天助小学校から自宅へと帰ってきた。鏡家は九階の角部屋だが、エレベーターを使わずにダッシュで駆け上がってきたかのような赤い顔をしている。右手にはハンカチを握りしめていて、手汗で濡れていた。

「これ!」

 その握りしめたハンカチをベッドの上で腹ばいになっているもふもふさんの鼻先に突き出す。それから、深呼吸して、ハンカチに包まれていた紙をつまみ上げた。

『どうした?』

「読めばわかる」

『ん?』

 文月は、もふもふさんに読みやすいように便せんを広げて見せる。一行目には『鏡文月さんへ』とあった。ボールペンで書かれている。

『なになに……これ、児玉こだまひかりさんからか』

 もふもふさんは内容を飛ばして、最後の行を見た。そこに『児玉ひかりより』とある。

「帰りのホームルームが終わってから、児玉さんが教室に入ってきてね。わたし、運動会で児玉さんにハンカチを貸したじゃない?」

 ひかりは隣のクラスの児童だ。文月のクラスのホームルームが終わるのを廊下で待っていたのだろう。

『そうなんすか?』

「そっか、もふもふさんは運動会を直接見ていたわけじゃないんだった」

『子どもが多いところには行けない』

「そうだよね。学校でみんなに囲まれているもふもふさん、見たいけどなあ」

『ペット同伴可の日があれば』

 学校行事関連は、文月が語っている内容と、運動会でいえば文月の父親が撮影した写真がある。しかし、文月の父親が撮影した運動会の写真は手ぶれしているものが多く、とても見られたものではなかった。今後のために、父親は新機種を購入している。運動会前の特訓の頃から借りっぱなしだった古いデジカメは文月のものとなった。

「徒競走で走り終わってから、児玉さんにハンカチを貸したのよ。ハンカチそのものは、運動会の振替休日明けに児玉さんが洗って返してくれてね」

『ふむふむ。それで、今回は新品とを渡してきたと』

 手紙の中身は、まとめると『文月と一対一で勝負したい』といったものだ。

 名門私立の陸上競技部へスカウトを受けているひかりが、一年生から五年生までずっと徒競走で最下位だった文月に負ける。小学校の運動会、しかも、来年の三月には卒業する六年生にとっては、小学校の運動会。

 徒競走での二位は、ひかりの競技者としてのプライドを傷つけてしまったようだ。

「勝てるわけないじゃん!」

 文月はラグにひざをついた。運動会までは特訓の日々を送っていたが、現在はやめてしまっている。運動会で勝つための特訓であり、勝ってしまった今となっては必要のない努力である。

『場所は夢の島競技場……となると、相手のホームグラウンドか』

 対して、ひかりは将来を有望視されているアスリート。こちらは水泳ではあるが、同じアスリートとして、環菜がほぼ毎日のようにレッスンに励んでいるのは姉として知っている。ひかりもまた、トレーニングの日々を送っているのだろう。

「もふもふさんなら、一発逆転の秘策を思いつく?」

 運動会は天助小学校の校庭で行われていた。天助小学校の校庭は、直線で100メートルのコースが作れない。そのため、徒競走にはコーナーがあった。

 夢の島競技場は、その名の通り、陸上競技の大会で使われるような正式な競技場だ。もちろん、100メートルのコースを直線で作れる。

 コーナーの有無が明暗を分けた。

 コーナーがなければ、文月はひかりに勝てない。

『相手が転んでくれないと無理』

「ダメだよ。ケガしちゃったらどうするの」

 不幸を祈らなければならない。が、ケガをされたら後味が悪い。

『その場で断ればよかったのに』

「クラスのみんなが……」

 文月はばつの悪そうな顔をして、視線を逸らす。もふもふさんのおっしゃるとおり。その場で真っ当な理由を思いついて、突き返せばよかった。

『相手の作戦勝ちすね』

「うん……」

 ひかりの歴史的大敗は、夏休みを挟んだが、児童たちの記憶からは消えていない。負かされた因縁の相手である文月に、リベンジマッチを叩きつける。当事者ではない周りからしてみれば、これ以上の娯楽はない。

「響子ちゃんなんて『どちらが勝つか、みんなで予想しよう!』って言い出しちゃってえ……」

『どちらが多かった?』

「半々ぐらい?」

『期待されている』

「無理だよお……」

 頭を抱える文月。挑戦状にある日付は来週末の土曜日。今から特訓を再開したところで、焼け石に水である。

『もし勝てたとしたら、文月、スカウトされるのでは』

 将来はオリンピック選手になるやもしれない女の子に勝ってしまえば、そのような未来の話が舞い込んでくる可能性は高い。土曜日とあって、ひかりの練習日とかぶせているのだろう。たかがマッチレースの一本のために借りられる場所でもない。ひかりを鍛えている指導者たちも目を光らせているだろう。

「そうかな」

『鏡姉妹、姉は陸上で妹は水泳。走りと泳ぎで五輪を目指す』

「やだなあ……」

『そうすか?』

「だって、スカウトを受けちゃったら、深川南中には行けなくなるでしょう?」

 文月の住んでいる地域は、学区制ではなく学校選択制となっており、学期ごとに進路希望を聞かれている。深川南中は、現在の文月が第一志望としている公立の中学校だ。天助小学校の隣にある。鏡家の居住地から近い。

『そうかそうか。文月は貴虎と同じ中学校に行きたいから』

「桐生くんと一緒のほうが楽しいと思う」

『オレもそのほうがいいと思うな』

「そうだよね!」

『つまり、ひかりとの対決は。勝てる見込みもない』

「あっ、でも、それは、それで……」

 もふもふさんが編み出した運動会の100メートル走の作戦は、直線とコーナーで走法を変えていた。直線の走法だけで100メートル走りきるには、文月の筋肉量が足りていない。そして、筋肉量は一朝一夕で増えるものではないので手詰まりだ。

『めちゃくちゃに負けるのは、期待してくれている人たちに悪い、と?』

「うん……」

『難儀な性格』

「そうかも……」

『わかった。オレが代わりに走って、をすればいいんすね?』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る